第5話 アーケード
5-1 喫茶店
駅につながる階段の横にアーケードの入口はあった。
ねずみ色にくすんだ天神さんの鳥居をくぐってアーケードの方へ向かうと階段のあたりは陽炎を立ちのぼらせていて、ワイシャツの大人たちが悪夢みたいにみな一様に口をつぐんだままつぎつぎ上っていくのが見えた。
アーケードの屋根が近づいてくると
屋根の下に飛びこんでしまうと真夏の暑さもいくぶんマシだ。
学校が終わってから両親が帰宅するまでの数時間、ここが侑の過ごす世界だった。
ペプシのロゴの入った看板が置かれている喫茶店へまっすぐ向かい、まよわず扉を押した。はずみで頭上からすずしい鈴の音がからんころんと落ちてきた。
右手のカウンターには古くさいおおきなレジ、床は濃茶色のタイルが奥の方までつづき、クリーム色の壁には古びた絵がみっつ――見慣れた光景だ。
壁とほとんど一体になったおおきな空調機の前のテーブルが空いているのを見て、そこに侑はごくごく慣れた風にランドセルを置いた。
「いらっしゃい」
と黒のエプロンをつけたお兄さんが言った。侑は声は出さずに笑みだけ返して冷風に髪をなびかせた。
もうこれまで何年働いたかわからない空調機はごうんごうんと低く唸りながら地の底からの冷気を吐き出していた。送風口にはいくつもの水滴が浮かんで、こらえきれずにときどき落ちた。
額からしばらく流れつづけていた汗もやがて止まって、侑がランドセルから宿題を取り出したとき、ちょうど計ったみたいにプリンを持ってお
「おいしそー」
たちまち侑はノートとえんぴつを放り出した。
「ゆっくり食べや」
とお祖母ちゃんが声かけ、となりに座った。
「宿題か?」
わかりきった問いに、侑はプリンをほおばりながら無言でうなずいた。
「えらいなあ、ばあちゃんはこんなんよう分からんわ」
そう言ってお祖母ちゃんは教科書をぱらぱらめくった。侑は桃をフォークで半分に切り、それから生クリームをつけて口に運んだ。
小学三年生の教科書は侑にとってさえ簡単で、大人たちはいつもむずかしい話をしているのに、こんなのもわからないというのが侑にはぴんとこない。
侑の祖父母がこの店を開いたときは高度経済成長期のまっただなかだった。
敗戦後の復興期に歯を喰いしばって稼いだ金をぜんぶ注ぎこみ親戚じゅうから借金までしてはじめた商売はみごとに当たって、何人ものアルバイトを雇えるほどになった。借金はすべて返したし、侑の母や叔父叔母たちが
叔父叔母たちは就職や結婚を機にこの町を離れていったが、侑の母はたまたま幼馴染と結婚したため町内に家を構えて、おかげで侑は母や叔父叔母たちが通ったのとおなじ小学校に通っている。
ぺろりとプリンが空になったガラス皿を盆に乗せお祖母ちゃんがキッチンへ戻っていくと、侑はいよいよ宿題にとりかかりはじめた。宿題は、ノートに問題を書き写すとことからはじまる。早く先に進めたくて字を書くのがつい雑になるのが侑の欠点だった。丁寧に書くようにはお母さんにも先生にも注意されるし侑自身もきれいな字を書きたいと思うのだが、そう内心でいくら戒めても一向に効果がないのだった。
しばらく夢中で書いたあと、あらためてノートを見ると金釘流ののたくった字が自分でさえ読めないのに侑はためいきをついた。
店内には有線の音楽が客の思考や会話を邪魔しない慎ましやかさで流れていた。歌がついていないのがいい、と侑は思った。家だとお母さんが歌番組を見ているよこで宿題することがあるのだが、そんなときは妙に宿題の進みがわるいのだ。それはつまり歌詞が頭に入ることによって集中力が削がれているのだろうが、そんな仕組みは侑にはわからない。
耳に馴染んだとはいえ名まえまでは知らない曲たちの大半を侑はこの店で知った。どの曲も学校の音楽の授業で聴くのとはまるで雰囲気がちがっていてそれは大人のための音楽だからなのだと思う。店内で流すのに学校の唱歌やリコーダーは似つかわしくない。
なんども流れる曲は侑のなかで、いくつかの学習内容とゆるやかに結びついていた。この曲は漢字とつながり、あの曲は算数とつながり、またべつの曲は植物の成長とつながり、おかげでいま取り組んでいる宿題に似合わない曲が流れだすと侑は気分がまったく乗らなくて困ってしまうのだった。
幸い今日はわるくない選曲だった。順調に宿題は進んで、口のなかのプリンの余韻が消えないうちにすべて終わった。かかった時間はほんの三十分程度だ。
宿題さえ済ませてしまえば遊びに行ってよい約束なのだが、外の暑さを思うと今日はあまり気乗りがしなかった。
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