4-2
下校どき、校舎を出ると雨がぽつぽつ降りはじめていた。
空は明るい。道を見てもまだ濡れていないところの方が多いくらいだ。
すぐそのあとを
「傘さしたらいいのに」
忘れた、と龍は言う。足をゆるめることなく。髪についた雨粒がしずくになって額をすべり落ちる。降りはじめで小雨と言って言えなくはないほどの雨だがそれでも駅まで十五分の道のりは、傘をささず歩くのに穏当とはとても言えない。駅に着くころには下着まで雨水に侵されているだろう。
「仕方ないなあ」
蒼多が自分の傘の下のスペースを半分あけると龍はするりと入ってくる。龍の背丈にあわせて心もち傘の高さを上げてやるが、そのぐらいでは足りないのか龍は背中をかがめて窮屈そうにしている。
「今日、部活は?」
「雨だし」
「関係ないじゃん」
蒼多がわらう。龍は平気な顔で坂道の下る先を見ている。
小高い丘の上に建つ学校への登下校はだらだら坂道がつづく。龍の視線の先をなぞると生徒たちの傘が点々とその坂道に散らばっているのが見える。さらに先では住宅街のまちまちな色した屋根が雨を受けている。
ふたりが在籍している柔道部の練習は体育館横の柔道場で行われるからもちろん天気も季節も関係なしだ。
今年の春に行われた昇段試験を落としてしまった龍は、最近部活をさぼりがちになっている。つられて蒼多も、もとからユーレイ部員気味だったのがますます足が遠のいている。
その副産物としてこうして龍とふたりで帰るチャンスが増えたことがひそかにうれしい。と同時に、どこかうしろめたい気持ちにさせられる。
龍と過ごす時間が増えればいいと願ってはいたけれど、龍の足を引っぱってまで願いをかなえたかったわけではなかった。
むろん蒼多の願望のせいで龍の昇段試験がうまくいかなかったわけではない。そう頭ではわかっていても、いわれのない罪悪感が蒼多の心に浸みこんでいくのをどうにもできない。
気づけば坂道を抜け、さっきまで上から見下ろしていた住宅街に入っている。もう屋根の色は見えず、壁も見上げるようになっていて、下界に降りてきたんだなと実感する。
住民はみな雨を避けているのか道には下校中の生徒たちのすがたしか見えない。おかげで蒼多たちは、学校を出て下界に降りてきたというのにまだ楽園から脱け出ていないかのようだ。
雨だけが楽園の外に出た証みたいに、少年たちにいじわるする。傘からはみ出した蒼多の肩にも雨のしずくが浸みていく。
天がぼくたちを罰する気があるなら――と蒼多は思う。この雨が酸性雨だったらいい。強酸の。
濡れた肩を見おろし、蒼多は想像する。
酸はシャツを溶かし、肌を焼くだろう。そしたらぼくは龍だけを傘の下にかくまって守ろう。ぼくの肌はずたずたに溶かしてくれればいい。
次第に雨は強くなる。雨粒が傘をたたく音が大きくなっていく。駅前の屋根のある通りまではまだ遠い。
「そっち濡れてね?」
からだをちぢこませ、猫背ぎみになった龍が蒼多の顔ごしに肩を見る。
「傘ちっさいから」
「しゃあねえな」
入れてもらっている方の龍がそんなこと言うのが蒼多にはおかしい。心もち傘を龍の方に寄せてやる。酸性雨から守ってあげるために。
「だから。そっちの方が濡れてんだって」
と龍は蒼多の肩に手をまわしてぐいっと引き寄せる。蒼多の心臓はどくんと波うつけれど、わかっている。龍のしぐさに他意はない。ないから平気でこんな風にスキンシップできる。そうとわかっていてもやっぱり胸が高鳴る。
傘が雨をはじく音、アスファルトに雨がはねる音、それに濡れた道路のうえを歩くいくつもの足音が混じりあって世界を満たす。前後の生徒たちが話す会話が遠い波の音みたいにぼやけて届く。龍と蒼多の会話もそのなかに溶けこむ。
龍がなにか言うたび蒼多は平気なふりして返しているけど、なにを聞いてなにを言っているんだか心にひとつも残らない。
すこしずつ駅の近づいてくるのが他人事じみててどうだっていい。
実は龍は蒼多の気持ちに勘づいているんじゃないかと、蒼多は心中思っている。確信はない。当たっているか当たっていないか、たぶん半々ぐらい。
ただ確信をもって言えるのは、龍が蒼多の気持ちに応えることはぜったいにないということ。
そのことに関してはふたりのあいだで暗黙の了解が成立している、のみならず龍はくりかえし蒼多の胸に刻ませようとしている――と蒼多は考えている。
例えば猥談だってそうだ。しばしば赤裸々に性癖を語ることで自分の女好きを龍はことさらに誇示する。それは龍からのメッセージなんじゃないかと蒼多は思う。蒼多の気持ちに応えることは決してない、と予防線を張るメッセージ。
龍のメッセージを蒼多は受けとめ、吟味し、あらためて自分に言いきかせる。関係を壊したくないならこの線を踏み越えてはならない、それはこの世で生きるために必要な智慧だ。龍は正しい。ただ心になにか消化しきれないものが降り積もる。
龍がまたなにか言っている。蒼多はうわのそらで返す。焦慮ばかりが心に残る。
住宅街を抜けて、信号をわたればもうそこに駅前の商店の軒が見えている。会話がとぎれる。なにかで会話をつながなきゃと思うのになにも浮かばない。息がつまりそうだ。
龍が蒼多の気持ちをわかっていて、それでも蒼多を他の少年たちと同じように扱ってくれるのだとすれば、それだけで蒼多には破格の好意なのだと思う。
ゲイだと疑われたとたんに距離をとられるようになる同類の者たちを蒼多はなんども見て来た。男たちは、ゲイに触れることも触れられることも恐れているように見えた。まるで接触したところは穢れてしまってそこから腐ってくるというかのように。
なのに龍は蒼多を避けない。ふつうに男友達として接してくれる。はたして龍は、蒼多の気持ちに気づいているのだろうか。堂々めぐりの脳内問答がいつまでもつづく。
よこしまな気持ちをかくしもっている自分に龍が寛大なのであったとしても、それに甘えすぎない節度を忘れてはいけないと自戒する。自分から龍に触れようという試みは、破綻を賭した冒険だ。
勇気をふりしぼって龍の腰に手をまわす。それがただ友情の証であるかのような装いをかぶせて。指のさきだけで腰のシャツに触れる。龍は平然と受けとめる。シャツは雨のためすこしだけ濡れて、なかから龍の体温を伝えてくる。湿気にも体温にも欲情なんてしない。
この時間を永遠に神聖なものとして留めおきたいと蒼多は祈る。それだけあれば生きていけると思う。それだけで満足して生きていかなければならないのだと思う。渇望するものには手のとどかない楽園。
(第4話 おわり)
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