2-4 えな


 朝から痴漢が気色わるくって最低だった。偶然って言い訳できるぐらいのさりげない触り方で、手で払うと臆病に引っこめるけどすぐまた手を伸ばしてくる、そんな攻防を二駅ふたえきぶんもつづけてよっぽど大声出してやろうかと思ったけどやっぱり言い出せなくって、そんな自分にも腹が立ってむかむかしていた。


 ついうららにからんでしまったのもそのいらいらがあったせいだ。

 だいたい麗もわるいのだと恵奈えなは思っている。

 麗とは、中学に入ったその日からの長いつきあいだ。入学式のあとぞろぞろ教室へ案内されて着いたさいしょの席が麗のとなりだった。初日のうちに恵奈はもう、となりの麗はどんくさい子だと極めつけてしまって、さらに一週間するうちに彼女が無害なうすのろなのだと結論づけた。

 恵奈は自尊心がつよく他人を思いやる心には乏しいとはいえ、そのプライドゆえに自分より劣る者たちへは恩恵を施してあげるべきだという彼女なりの倫理をもっていた。

 ちぐはぐな行動をとりがちな麗をよこから支え、周囲の非難から守ってやるのも自分の義務と思って援助の手を差し伸べた。すると麗はころころなついてきたから恵奈もますます彼女の面倒を見てやるようになった。

 その関係が狂ったのは中学三年の秋ごろからだ。


 はじめはたわいないことだった。

 雨のおかげでテニス部の練習がなくなった日に、時間があいちゃったから服でも買いに行こうよって誘ったとき麗は行きたくないと言ったのだ。いまお金はもっていないし新しい服もいらないからって。

 だれもが好きなように服を買えるってわけじゃない。それに家庭によって自由になる金額にちがいがあることも恵奈は理解していた。だからそのときはただふうんと言って、いいわじゃあまたねと別れたのだったが、なにかがちくと胸を刺してよくはわからないけど腑に落ちないわだかまりが残った。

 ほかの子たちと買い物したあと家へ帰って両親と夕食をとっているときになって急にふつふつと怒りが湧いてきた。

 麗がなにも買わないのはそれでいいとして、なら黙ってついてくればよかったんじゃないの? そしたら麗のお粗末なファッションセンスもすこしはましになるんだろうし。だいたいあの子制服の着こなしだってまるきり野暮ったいし私服ときたら絶望的であんなじゃ永遠に恋人なんてできっこない。しゃべったら頭は残念な中身してるってことどうせばれちゃうんだからせめて見た目でマイナス印象与えるのぐらいは避けなきゃだめでしょ。せっかく親身に指導してあげてるってのにあの子ったら当然みたいに受け取りちっとも感謝しないでなにさまのつもりなんだろ。


 それから一週間もしないうちにまた似たことがあった。

 中庭でごはん食べようよっていうのを今日は寒いからいやってついてこなかったのだ。こんどは恵奈ははっきり怒りを感じた。クラスの女王にもひとしい恵奈の指示なら、庇護下にある麗はとうぜん無条件に従うべきなのだ。怒りの言葉をそのままぶつけると麗はびっくりした顔していた。

 それから麗の態度はすこしずつ変化していって、自分を避けているのがわかった。自分がきつく当たるからだとは自覚していたけどこれまでしてあげたことを思えばずいぶん恩知らずな振る舞いだと思えてよけいに憎らしくなった。


 冬休みのあと麗はテニス部にも顔を出さないようになって接点はますます減っていたのだが、高等部に上がると同時に正式に部をやめるというのを顧問の先生から聞いた。直接当人からでなく、他人からそのニュースを聞いたことが恵奈は我慢ならなかったからもう麗とは縁を切ると決めた。

 なのに高等部ではおなじクラスになったのだ。麗はちらちら恵奈の顔をうかがっていたけれど恵奈はすべて無視して、なにか言うとしたら辛辣な批判しかなかった。なにをいまさらという思いがそうさせたのだ。


 そんなとき、朝から痴漢に遭って最悪の気分で教室のドアを開けたら教卓の真ん前にすわる麗が目に入ったのだった。

 まぁただらしないかっこしてる、と思ったとたん恵奈は口をひらいていた。

「なにそのかっこ。ブラウスに皺よってるし。みっともないかっこしないでって言ってんじゃん麗、もうあんたなんど言ったらわかんの?」

 言葉をかさねるにつれ口調がどんどんきつくなっていったのは電車の鬱憤としばらく溜めこんでいた麗への不満が一挙に噴き出たからだ。止めようにも止まらなかった。

 するとうしろから織衣おりえ佳奈かなが出てきて麗をこづいて、辱める言葉もエスカレートしていった。まるで三人のだれがいちばんひどくこの子を傷つけられるか競うゲームでもしてるみたいに。


 そこにいつきが割り込んできたのだ。

 最低なことをしているってぐらい自分でとっくにわかっていた。でもそれはわたしのせいじゃない。電車の脂ぎった痴漢野郎のせいだ。恩知らずの麗のせいだ。いっしょになってはやしたてる織衣と佳奈のせいだ。

 そのはずだったのに、いつきのつめたいで見られるとだれより自分がいちばんわるいのだと電光が閃くように覚った。思えば半年もまえからそうだったのだ。だが今の今まで自分が麗を傷つけることの不当に思い至らなかった。

 覚ったとたんに居たたまれない気持ちでいっぱいになった。ほとんど呆然自失のさまで教室を出て行ったあと、まるで負け犬みたいな退場だったと思い出して屈辱に歯噛みした。


 その日以来、恵奈が麗に話しかけることはなくなった。いじめを終わらせたことでいつきはクラスの子たちから称賛の目で見られるようになったが彼女自身は目立つことをきらって、級友たちとのあいだに距離を置いているようだった。

 そんないつきに麗がつきまとっているのをなんども恵奈は目にした。しばらく無心に彼らをながめたあとふと我にかえって目をそらすのが常だった。


 かわらず恵奈は女王でありつづけた。

 大学でも自信にあふれた振る舞いはときに高飛車と周囲に映ったものの、人の上に立つため自分を磨くこと――とりわけ美しさを磨くことに努力を惜しまなかったので男女を問わず彼女の魅力のまえに進んでひざまずく者は絶えなかった。

 その気位の高さとある意味潔癖と言えるほどの自他への厳しさは容易に他人を責め蔑む方向へ恵奈を導きがちだったがこのときの蹉跌がよほどこたえたのか、その後注意深く自分を律して二度とひとをいじめることはなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る