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 そとに出てはじめて雪だと知った。明け方から降りはじめていたらしい雪は街を白くよそおい、道に足を入れると靴底の上あたりまでふわりと沈んだ。道路にはタイヤや靴の跡がそこらじゅう散らばってそのうえにまたうっすら雪が積もっている。

 電車はおおきく乱れていた。しばらく待っても動く気配がないので迷ったあげく駅を出て、地下鉄の方へ向かった。蜘蛛の糸のように縦横に路線が張りめぐらされた東京の交通網は代替の選択肢がいくつもあってこんなとき便利だ。


 入学式のために買ってもらったスーツと革靴を奥から引っぱり出してきたものの着慣れないからたぶんはたからはおかしなかっこに見えているだろう。コンビニで買った黒ネクタイはまだ締めないでいる。ネクタイの締め方なんて覚えちゃいないしわざわざ調べて締めようなんて気分じゃない。

 なにもかも静かだ。雪は街の活動の発するあらゆる音を吸いとって、代わりに足を入れるたびさりさりと雪の触れあう音がぼくのためだけみたいにひっそりと鳴る。

 行き合ったひとの髪と肩とに雪が積もっている。それはそのままぼくの姿にも当てはまるんだろうと体を揺するとスーツの上から羽織ったダウンの表面を雪がすべり落ちていく。未練も見せずに。Kが飛び降りたのは病院の窓だった。十二階の窓から、まだ雪の降っていない中庭へ。Kがきょうの雪を見ることはもう叶わない。

 傘があったらよかった。雨ならまちがいなく傘を差しただろうに雪だと差す気がしなかったのだ。ぼたん雪が髪のうえでとけて額につめたい雫が落ちる。

 地下鉄の入口の屋根も白くなっていたけど地下へと下っていく階段の四段目から下はもう雪が積もっていなかった。地の底の王国には冬の勢威も及ばないというかのように。


 葬儀は神式だった。

 北海道から出てきたご両親は顔を伏せっぱなしでとても声をかけられたものではなかった。

 神前に榊を献げるとき棺のなかのKを見ると目も口もとじて、こんな男であったかとふしぎに感じた。ぼくの知るKはたいてい目をぎょろりと剥いてぶあつい唇を達者に動かし、ほんとかうそだかあやしい話を陽気にしゃべっていたからしずかに眠る姿は見知らぬ別人のようで、それだけ彼がほんとうに死んだんだってことが否定しようなく胸に迫った。

 涙は出なかった。あつまった同期のなかの幾人かは顔をくしゃくしゃにして泣いていたしぼくもうっかり声を出したら唇がふるえたにちがいないけど純粋な悲しみよりも怒りにちかい心のざわめきが涙を止めていた。

 許せない、という言葉がずっと頭のなかをめぐっていた。自殺したKのことが許せないのか彼の周囲を許せないのかそれともぼく自身のことを許せないのか分からないままなんども許せないとぼくは胸のなかで言った。さっき止んだ雪がもう陽のひかりを受けて目を刺すのがまぶしくってしかたなかった。神主のうたい上げる祭祀の言葉が嘘くさく耳に障った。

 雪のおかげで電車が乱れて、ひとり、またひとりとおくれて葬儀の列にくわわった。就職後ひとり東北地方に赴任していた者からはどうしても間に合わないって悲鳴みたいな連絡が届いた。


 Kの眠る表情には怒りも悲しみも絶望もなくただただ安らかだったのはきっとその道のプロが腕によりをかけ死化粧を施してくれたんだろう――Kの意思とは関係なしに。死ぬ前のさいごのほんとのKの顔をぼくは見たかった。

 斎場に入棺されたところでぼくたちはご両親にいとまを告げた。ほんとは骨を拾ってやりたかったけれどたぶんそれは親族だけのしめやかな時間であるべきで、そこへぼくたちが割り込むのは、いくら当人とは仲がよかったにしても、初めて会う親族からすればありがためいわくな振る舞いなのだろうと思う。


 そうは言ってもぼくらは同じ釜の飯を食ったという言葉のまんま年に六度もある合宿のたび古びた座敷に詰めこまれて寝食をともにしてきた仲だったからそうかんたんに割り切れるものではないのだ。おおげさに言うなら死線をいくども越えてきたと呼べるほどぼくらの四年間は濃密だった。このまま解散なんてとてもできなくて、ぼくらはほとんど言葉も発せずぞろぞろ連れだって雪ののこる道を歩いた。

 会社のやつらひとりとして参列しやがらなかった、とひとりがとつぜんわめいた。Kといちばん仲のよかったHだ。葬儀のさいちゅう周囲に憚ることなく涙を流しつづけていたのもこいつだ。

 引退していくらか疎遠になりいつまでも同期の桜って一体感をたもてないことをすこしずつぼくらは理解していったけれどもそれでもやっぱりあの奇跡みたいな日々の眩さを、どこかでぼくらは引きずりつづけてそれはひとりひとりの胸に郷愁となって心を引っかいた。

 そんな引っかき傷のうえにとつぜん硫酸でもぶっかけられたみたいにKの自死はぼくらに作用した。ぼくらはうろたえていたのだ。そして本当の痛みはこれからじわじわやってくるってことを予感してもいた。

 雪はとっくに上がってアスファルトの黒いのがそこかしこ目につくようになっていた。まだらの雪はぼくらの夢想するうつくしい世界が幻想に過ぎないって教えているように思えた。現実はたいてい残酷で直視に堪えないのだとしても。


「女の子がいたろ、髪の長い子」

 唐突にHは言った。

 これから入棺に移ろうってときHがそばに寄って声をかけている子がいたのをぼくは思い出した。彼女はHになにか言葉を返すとぼくらに向かって頭を下げた。Kの姉妹あたりだろうと思ったのは彼女が家族といっしょに焼き場へ向かったからだ。

「あの子、Kの彼女」

 Hは下を向いたまま、絞り出すように言った。ぼくらは返事しなかった。Hもそれ以上なにも言わなかった。Kに恋人がいるってことはぼくは初耳だったしほかの連中もたいてい同様だったはずだ。

 おれたち大学生なんだし青春を謳歌するのが本分ってもんだしやっぱ女だろ女、ああ彼女ほしいなあマジで、なんて馬鹿話を半ば以上本気でぎゃあぎゃあ言ってたKが恋人を得ていたことを、ぼくらはみんな心のなかで祝福していた。アスファルトのうえの雪をよけて歩きながら、なんだよかったじゃんKのやつ、といくらか救われた気になっていた。

 それと同時に、ならどうして自殺なんかしたんだよと責める気持ちがまた湧いてきてもいた。あんなかわいい彼女のこしてさ。

 責めるのがKへの怒りのせいじゃないってことはだんだんわかりはじめていたけどそんなの見ないふりして駅に着くまで心でKを責めつづけた。電車はわりとすぐ来た。車両のうえには雪が乗っていて、融けた水がしずくになって落ちるのが砂時計の砂みたいに見えた。


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