ユダによる福音書(短編集)

久里 琳

第1話 レクイエム

1-1 レクイエム


 晩の八時、電話がかかってきてKの死を知った。自殺だった。

 明日午前に葬式があるというのでもちろん行くと答え、場所を聞いて電話を切った。

 ぼろい下宿でコンビニ弁当を食べている最中だったのが、もともとたいして味わっていたわけでもないけどそれがなおさら味も匂いもなくなってしまって、あとはもう義務かなにかみたいに喉の奥へと詰めこみながらKのことを考えた。

 自殺からはいちばん遠いところにいる男だと思っていた。いかにナンパを成功させるかをまじめに考えていてそれがたいていうまくいかない、その失敗談を披露しては仲間たちをわらわせて自分もわらっていた。

 ナンパなんかよりもよっぽどひとをわらわせることの方がKには向いていたし、もしかしたら彼自身もそちらの方が好きだったんじゃないかなと思う。いまの電話だってたちのわるい冗談なんじゃないかなんてうすいうすい希望を抱いてるけど頭ではそれはないってわかっている。


 すきま風の通る四畳半でこたつにこもりながら『二十歳の原点』のページを繰った。言葉は明瞭に頭に入ってくるのにぜんぜんピンとこなかった。Kが自殺する理由がこんなところに見つかるわけがない。そんな当たり前のことさえ考えたくなかった。

 床に抛って、つぎは『ナイン・ストーリーズ』を手にとった。海でこどもと遊んだあとシーモア・グラースが拳銃で自分の頭を撃ったところまで読んでまた抛り投げた。肝心なときに本はなんにも教えてくれない。ぼくがなんにいらだっているのかも、どうしたらぼくの気が済むのかも。


 テレビをつけて五分ばかりニュースを見てまた消した。彼らが伝えてくれるのはどれもこれもフィルターで濾してすっかり他人事になってしまったうすっぺらいニュースだ。まえからそうと承知していたのにこのときはじめてそれを許しがたいと思った。電灯も消してしまってしずかになった部屋でこたつにまるまって目をとじた。

 下宿のよこを何台も車が通っていった。そのたびライトがカーテンを通して天井をほの明るくした。ふだんはライトなんて気にしないのに今夜にかぎってひどく障るのはたぶん気が立っているせいだ。なかなか寝つけなかった。寝つけないままKが死をえらんだことを呑みこもうとしていろんなアプローチを試してみるけどひとつとしてうまくいかなかった。


 Kとさいごに会ったのはもう一年ちかくも前のことだ。たしか卒業式のあとだったと思う。社会へ飛び立つ者たちと大学に残る者たちとがあつまって門出かどでを茶化すみたいなさよならの乾杯をした。

 ぼくたちはクラブの同期で、普通に四年で学業をえるんならちょうど去年卒業するはずだったのだ。ぼくは卒業しなかったんだけど。もっともぼくたち同期のはんぶん以上は大学に残ったからぼくみたいなのはたいしてめずらしくもない。

 Kは卒業し、日本で三本の指に入るだろう名門商社に就職した。


 あのときすでに自殺の萌芽があったんだろうか。かなりぼやけてしまった記憶をいくら引っぱり出しても引っかかるようなところはKにはなかったように思う。ただぼくが鈍かっただけなのかもしれないけれど。

 それになんらか徴候があったとして、さらにそれをぼくが勘づいたとして果たしてなにかできたのかっていうとまるきり自信がない。

 鳥のように無邪気に夢を追っていられた学生時代は過ぎ去ろうとしていた。翼をがれたぼくらは世界のまえではあまりに畸形で無力だ。モラトリアムのぬるま湯から脱け出ないでいるぼくはそんなことには鈍感で、一方Kは鋭敏に感じとっていたのだ――というのはただの仮説だけれど、おどけてばかりでまじめな話なんてしないKがじつはぼくらよりよほどナイーブでなかったとだれが言い切れるだろう。


 こごえそうな寒さだった。夜がふかくなるにつれそとは風がつよくなり、つられてすきま風もひたひた畳のうえを伝って髪をゆらした。

 目をとじると耳だけで世界とつながっている気がした。新聞配達のバイクの音が聞こえてきてさすがにもう眠らなきゃとこたつの蒲団に肩までもぐった。眠りという言葉が、もう目覚めることのないKをまた想起させる契機になったのだけれどそのときにはもうほとんど夢のなかに落ちかけていた。半醒半睡の頭にKが得々としゃべっている姿が浮かんだ。

 自殺からはいちばん遠いところにいる男だと思っていた。でもそれはちゃんとKのことを見ていなかったからなのかもしれないといまは思う。


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