寒い夏に君に会いに行く
根倉獺
寒い夏に君に会いに行く
遠くでセミの鳴く声がしている。図書館の一角でちらりと外の景色を見た。
ガラス一枚隔てた先はまるで水槽を覗き込んでいるような気分にさせてくれる。まあ、でも実際は室内にいる自分の方が『水槽の中』にふさわしい立場なのだろう。
冷房の効いた室内は少し肌寒いぐらいで、外の暑さを感じることはない。目の前に座っている彼女も涼しそうな顔で宿題に取り組んでいた。集中しているようで、黙々とシャーペンを動かす姿は勤勉な学生そのものだ。
そんな彼女をしり目に、僕は全く進んでいない自分の宿題を見て、席に座ってからさほど動いていない時計の針を見た。
自然と口からはため息が漏れた。
別に宿題が憂鬱なわけじゃない。夏休みはまだ始まったばかりで余裕があるし、たかが五教科分しかない問題集なんてすぐに終わらせられる自信がある。
それでも、僕はとても気が重かった。
なぜなら僕はあまり図書館が好きじゃないからだ。彼女に誘われて来たものの、結局居心地の悪い時間だけが過ぎている。
けれどこれも毎年恒例のことで、僕はいつも図書館から帰った後自室で勉強することになるのだ。
この僕にとっては苦痛な、そして彼女にとっては当たり前の恒例行事は、かれこれ六年間続いている。
「あのさ」
僕は小声で彼女に話しかけた。声を掛けられた彼女はぴたりと手を止めると、キョトンとした顔で僕を見た。
「なに?」
「いつまで続けるの、これ?」
「も~、またそんなこといって。須川くん全然宿題終わってないじゃない。終わらせなきゃ帰らないからね」
憂鬱そうに、彼女――香住さんはため息をついた。僕の名前さえ書いてない真っ白な問題集は彼女にとっては大問題らしい。真面目な彼女らしい答えではあったけれど、僕には頭の痛い答えだ。
「あ、こら! ちょっと、須川くん……!」
僕は無言で席を立ち、香住さんの諫める声も聞かないでその場を離れた。
あーもー何もかもが憂鬱だ。図書館の外に出ると、強い日差しに汗がにじんだ。香住さんは追いかけてくる様子はない。当然だろう。彼女は図書館が好きなのだから。涼しいを通り越してむしろ寒いくらいの冷房の中で、夏休みの宿題を片付けているに違いない。
さぼり学生の僕はスマホの通知に気づいて、画面を開く。無論、これも香住さんからじゃない。彼女は携帯を持っていないから。
通知は、地元の友達の安藤からだった。
安藤は中学の頃の同級生で、当時はあまり仲良くなかったのだけど、進学先の高校で同中同士でつるんでいる間に仲良くなった口だった。
大勢で集まって騒ぐのが好きな彼は、毎年中学時代の友人たちを集めて同窓会のようなことをしている。
今年もその誘いのようだった。
『今日、集まって飲みに行くけどお前も来る? 地元に帰ってきてるんだろ?』
世間はお盆休みに入り帰省の季節だ。懐かしい顔ぶれに心ひかれたが、僕は複雑な心境でその誘いを断った。
『ごめん。宿題終わってないから行けない』
『は? 宿題? 大学の課題か?』
『そんな感じ』
『ふーん。大変だな。了解。また誘うわ』
はぁとため息をつきながら、通知の止まったスマホを見る。さすがに彼女を置いて飲みに行く気にはなれなかった。
中学時代からの友人は残念そうではあったが、昔のように無遠慮にこちらの事情を詮索するような真似はしなかった。
僕より一足先に社会人になったからなのか、彼はいつの間にか大人になっていた。
もう昔のような事はしないだろう。
スマホをポケットに戻して、僕は重たい気持ちに蓋をして図書館の中へと戻った。冷房の効いた室内で体が冷えていくのがわかる。
香住さんのいる机まで来た頃には、汗はすでに引いていた。
「やっと戻ってきた」
「まぁ、一緒にする約束だったから……」
「うん。須川くんは約束破ったことないもんね」
にっこりと屈託のない笑顔を浮かべて、彼女は僕へ座るように促した。仕方がなく、その指示に従って座る。
七年前に新しく立て直された図書館は、近代的な内装をしている。僕たちが陣取っているワークスペースはいくつか机が並べられており、多くの学生たちが宿題らしき問題集を広げていた。ここは別で設置されている自習室とは違い、お喋りOKなので何だか楽しそうな様子だ。
憂鬱に座る僕と、真剣に宿題を片付けていく彼女とはまるで真逆の存在だ。
改めて気乗りしない問題集を広げて、とりあえず名前を記していく。ついに六冊目に差し掛かったそれを、香住さんの言葉が遮った。
「何だか、年々、嫌そうな感じ増してるよね……。そろそろ私も遠慮したほうがいいのかな」
「え、あ~。いや、別に嫌ってわけじゃないよ」
「本当? 嫌だったら、ちゃんと辞めるから言ってね」
「本当だって。宿題は嫌だけど……」
付け足した言葉に彼女は苦笑しながらも、少し嬉しそうな表情を浮かべていた。
「あのさ」
再び宿題に戻ろうとした彼女へ、僕は気になったことを聞くために引き留めた。
「本当に、宿題が終わったら帰るんだよね」
「うん。毎年そうしてるじゃない」
なぜそんな分かりきったことを今更聞くのだろうと、彼女は不思議そうにはしていたけれど、しっかり口に出して答えてくれた。
「宿題が終わったら私は帰るよ。須川くんも夏休みが終わるまでに……といっても、結局お盆が終わるころにはいつも終わらせてるよね」
「家帰ってやってるから。今年もそうするよ」
「も~、なんで図書館じゃやる気が出ないのかな」
「いや、だって。なんか静かで冷たくて落ち着かないんだ」
「静かで落ち着かないっていうから、自習室をやめてこっちのスペースにしたんでしょ」
「いや、こっちもまだまだ静かなほうだよ」
僕の図書館嫌いに香住さんは呆れて、小さくため息をついていた。ただ、僕に宿題を終わらせる意思があったことについては安心しているようだった。
ちょっかいをかけたからか、彼女は少し気だるげにペンをそばに置くと頬杖をついた。
「はぁ、夏休み終わるのやだな」
そして、まるで僕の憂鬱が移ったかのようにため息をついた。僕は少し申し訳ない気持ちで苦笑した。
「またまた。しっかり宿題終わらせるのに憂鬱になる必要ないじゃん」
からかい交じりにそう告げると、彼女は少し口角を上げたがすぐに悲しい顔をした。
「宿題は何ともないけど……学校、嫌いなんだもん」
「……」
学校が嫌いだという香住さんに僕は何の言葉も返せずに黙り込んでしまった。
学校で香住さんがどんな扱いを受けていたのか今の僕は知っているからだ。
香住さんは真面目な性格で、他薦されて学級委員長をやっていた。率先してクラス行事を仕切ってくれていたのだけれども、どうにもクラスの連中はそれが気に食わなかったようで無視や仕事の押し付けをしていたらしい。
いじめまがいの事をしていた連中もいたと聞いている。
「まぁ、ひどいと思うけど……」
「だよね。ひどいよね。でも、分かってるよ。学校には行くべきだし、夏休みは終わるし、宿題もしないと。……約束通り、須山くんは宿題に付き合ってくれてるしね」
「結局、僕の宿題は毎年進まないけどね」
「でも、守ってくれてるじゃない。私は一回、破っちゃったのに」
自嘲気味に笑い、香住さんは再びペンを持った。
この恒例行事が始まった最初の年、あろうことか香住さんは来なかった。当時の彼女には色々事情があって、やってこないことを知っていたけれど、僕は悲しみに暮れた。どうしても忘れられず、未練たらしく翌年も行ってみたところ、なぜか彼女が来ていたので驚いたのを覚えている。
――こんなことが自分の身に降りかかるとは。衝撃とともに、香住さんが信じられないものを見る目で僕を見ていたことも覚えている。
「まさかほっぽったのにいるとは思わなかったから驚いた」
「僕も毎年やることになるとは思わなかったな」
「あはは。終わったら帰るってば」
上機嫌で香住さんは笑うと、あっと声をこぼして問題集へと視線を落とした。どうやら詰まっていた問題の解答が分かったようで、一心不乱に数式の答えを書き綴っている。
僕はそんな彼女の様子をぼんやりと見つめていたが、ポケットの中のスマホが振動して、図書館のなかだというのに咄嗟に取り出してしまった。
画面には、飲みに誘ってくれた安藤の名前が表示されていた。
嫌な予感がして、電話禁止の張り紙があるにも関わらず、僕は通話ボタンを押してしまった。
「もしもし」
『……あ、須川。なあ、お前さ、辻って覚えてる? 今日会う予定だったんだけど、事故にあって亡くなったらしい。一応、お前にも伝えとこうと思って。それでさ、お前さ――』
どこか興奮した様子で安藤はそうまくし立てた。同級生の訃報だというのに、何か他が気にかかって身が入っていないような様子で、僕へ辻の事を伝えるよりも、今すぐ何かを問い質したい。そんな風に受け取れた。
『なあ、やっぱり変だよ。毎年、同級生が一人ずつ死んでいくなんて。お前、やっぱり何か知ってるんじゃないのか。自殺したアイツと仲が良かったし、やっぱり――』
すっと横から手が伸びて、僕のスマホが取り上げられた。安藤はまだ何か喋っていたようだけど、香住さんの白い手は軽やかな動きで通話を切った。
「駄目だよ。図書館は通話禁止だもの」
「あ、ご、ごめん」
戸惑いながら答えると、彼女はにこっと笑みを作った。そして画面の暗くなったスマホを僕へと渡した。
受け取ったものの、どうにも腕に力が入らず、名前だけ書いた真っ白な問題集の上にポスンと落ちた。国語、数学、理科、社会、英語。本屋で買った五教科が一冊に入った中学生の問題集は、大学へ進学してしばらく経つ僕にとっては簡単すぎてもう解く気にもならない。
香住さんは、満足した様子でトントン、持っていた問題集の背を整えていた。どうやら今年の宿題は終わったらしい。
ささっとセーラー服の裾をはたいて立ち上がると、屈託のない笑みをこちらへと向けた。亡くなった六年前と同じ、十四歳の姿のままで。
「また来年ね。須川くん」
彼女はそう約束を残して、すっと姿を消した。
宿題はまだ、終わらないみたいだ。
寒い夏に君に会いに行く 根倉獺 @miki-P
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