恋する通帳

Joi

恋する通帳

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 平岩圭『今日もお疲れ様〜。次の土曜、雨みたいだから一緒に部屋でご飯食べよう!寄せ鍋作る!』


 ちさと『お疲れ様!ありがとう〜。いつもきてもらってるし、そっち行くよ?』


 平岩圭『大丈夫!代わりに具材使わせてもらうからウィンウィンだと思う笑』


 ちさと『そうなの?笑 具材はあるからぜひ使って笑 気をつけてきてね!』


 平岩圭『ありがとう!14時には着く〜』


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 奥原知里が好きだ。彼女のためなら何でもする。時間も金も惜しみなく使えるし、彼女と休みが合えば泊まりに行く。


 前髪の雰囲気や口紅の色合いが以前と異なれば、「可愛い。好きだ」と伝える。調子が悪そうならレストランの予約を取り消して、彼女の部屋で手製のトマトスープを作って一緒に食べる。実際、かなりの頻度で彼女の機微に気づけるから嬉しい。


 けれど。


 僕の好意が本当に届いているか、不安になった。


 まさに、今。


 「……ねぇ、私のこと好き?」


 ミルクセーキを一気に5杯飲み干したような心地になった。それでも僕は、自分のベッドに腰かける知里に向き合う。


 「好きだよ。出会ってからずっと好きだ」


 知里の頭を撫でて、僕の腹に当てる。彼女は僕にされるがままだった。そのまましばらく、彼女の髪を優しく撫で続けた。努めて優しく、丁寧に。故に、機械的な行為だと自覚した。


 沈黙の間、僕は自分を振り返る。


 知里が好きだ。この前は結婚したい旨を伝えた。彼女は少し泣きながら喜んでくれた。出会ってから3年。僕らはゆっくりと、しかし着実に前へ進んでいると思っていた。


 だから、初めての問いかけに内心で動揺が走る。


 ねぇ、私のこと好き?


 僕の好意は、果たしてちゃんと届いているのだろうか。


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 朝、知里のアパートを出て、一緒に駅への並木道を歩く。仕事に行く彼女とは途中のバス停でお別れだ。


 知里の手を握ると、向こうもそっと応えてくる。彼女の手は小さくて柔らかい。


 大した会話もないままバス停へ辿り着き、知里の手が離れた。彼女が口を開く前に、僕から会話を切り出す。


 「昨日は午後からありがとう。また鍋作るよ。仕事、無理しないでね」


 「うん、いつもきてくれてありがとう。あと、昨日は変なこと言ってごめんね」


 「謝らないでよ。何も変じゃないし。キツいこととか不安なこととかあったらいつでも言ってほしい。僕も何かあったら相談する」


 やがてバスが道沿いに滑り込む。乗客の列が動き出す直前、知里が手を振った。


 「ありがとう。じゃあ、また今度」


 「いつもありがとうね。いってらっしゃい」


 知里を乗せたバスが走り出し、少し先の交差点も通過していく。青信号で良かった。僕はようやく歩を進める。


 けれど、正直そろそろ限界だった。


 「あー。何を間違えてるんだろうな、今」


 歩くのが面倒になって、バス停のベンチに腰掛ける。目の前をぎゅんぎゅんと横切っていく車の連続が目障りで、視界を閉じた。


 眩しいけど暖かい日差しに晒された並木道。彼女に合わせた歩幅。強く握ったら潰れてしまいそうな彼女の手。定刻通りのバス。「ありがとう」と「ごめんね」がちゃんと伝えられる距離感。


 だけど、いつも返していたはずの「またね」が言えなかった。


 知里が僕の変化に気づいているかは分からない。でも僕は意識したし、今も動揺している。


 全部、知里の言葉がきっかけだ。


 ねぇ、私のこと好き?


 昨夜、夜ご飯の寄せ鍋を食べた後だった。それは唐突な問いかけだったし、初めて聞かれた。むしろ、その質問を受けないために「好き」という言葉を伝えることは常々心掛けていた。彼女を不安にさせたくなかったから。


 気まぐれの可能性もあり得る。ちょっと不安になっただけで、大した意味はないのかもしれない。でも、だとしたら少し悲しいな。僕の動揺はこれに尽きる。


 僕の好意は本当に伝わっているのだろうか。僕が今以上に頑張るとして、彼女への誠意として何が欠落しているのだろうか。


 『お客さん、乗りますか?』


 急に頭上から声が落ちてきて、慌てて目を開ける。次のバスが目の前に停まっていた。しまった、考え込み過ぎた。


 運転士に頭を下げ、ベンチから離れるとバスは緩やかに動き出した。平然とバスを加速させる運転士の冷静さが欲しい。好きな人の一言で動揺する僕とは大違いだ。


 駅前ロータリーまでやってきて、交通系ICカードの残高が足りないことを思い出す。そもそも手持ちの現金がない。


 近くのコンビニに駆け込み、ATMで3万円を引き出す。通帳と共に吐き出された明細書を見ると、残高桁数は5だった。3万円のテレビ2台買ったら赤字転落する。


 でも、定職に就いているし体調も崩していないから金の心配は今のところなかった。知里と過ごすためなら、時間も金も使いたい。彼女は心配してくれるけど、僕はその度に「好きだからできるんだ」と伝えた。


 僕の通帳は彼女の物じゃない。ただ、僕が知里と思い出を作りたいのだ。その過程で金が必要なだけ。時間は僕の意思次第でいくらでも作ることができる。


 交通系ICカードをチャージしてから、改札口を通り抜ける。スマホを開くと電池残量も僅かだった。電池が切れる前にLINEで今日のお礼でもしておこう。


 『昨日は泊めてくれてありがとう』まで打ったとき、知里から通知がきた。その文面を見て、フリック入力していた指が止まる。


 『わかりました。久しぶりだから楽しみです!ではまたあとで』


 腹にハンマーをぶち込まれたような鈍痛が走る。同時に鳥肌がぶわっと立った。


 数秒後、コメントは削除された。知里からフォローの文言はこない。僕は入力していた文面を消し、打ち直しを図る。


 だが、フリック入力の途中で画面がブラックアウトした。人前であることを忘れ、僕は「マジか」と呟く。


 チャット画面を開いたまま電池が切れたときって、既読つかないよな?


 知里から送られてきた文言よりも既読スルーが気になった僕は、十分に参っていた。


-3-


 部屋に戻って、着の身着のままスマホの充電をした。画面がなかなか立ち上がらないのに、その場から動く気にもなれなくて、真っ暗な画面を睨み続ける。


 やがてスマホが再起動し、速攻でLINEを開く。案の定、知里からコメントの続きがきていた。


 『奈良崎さんに送ろうと思ったメッセージ、間違って送ってた!ごめん。久々に会ってご飯行く約束した〜』


 確か、知里の大学時代の先輩だったか。直接の面識はないけど、彼女の口から名前を聞いたことがある。性別は知らない。それにしても彼女が誤送信なんて初めてだ。でも、わざわざ消さなくたって良いのに。


 しばらく返信の内容を考え、結局『連絡ありがとう。楽しんでね』と返した。下手に突っ込んだことを聞くよりも無難なメッセージで収めておきたい。


 けれど、僕の指はLINEを閉じたと同時にTwitterのアイコンをタッチしていた。


-4-


 翌週の土曜、僕は駅から徒歩10分のショッピングモールにいた。Twitterにあった奈良崎さんのアカウントを見つけ、その他知人のツイートも参考に知里とご飯に行く日を知ったのだ。


 ちなみに、奈良崎さんは男だった。


 先週以降、知里とのやり取りは普段と変わらない。今日、僕がここにいることも当然言わなかった。出費は見ないふりを決め込んだ。


 自分でもストーカーめいた行動をしている自覚はある。高校生の恋愛でもあるまいし、男友達の1人や2人いたっておかしくないのに。


 約束の11時に知里と奈良崎さんは落ち合い、昼食のステーキハウスで仲睦まじく話していた。それからゲーセンや本屋、無印良品と屋内を行脚し、ドトールで足を休めた。


 僕だったらチェーン店のステーキハウスじゃなくて期間限定開催のビュッフェを選ぶだろうな。それに本屋とか無印はまだしも、ゲーセンはうるさいから候補に入れない。知里は楽しそうだったけど。


 しばらくドトールでゆっくりする雰囲気なので、手洗いに行くことにした。手近のトイレで用を済ませ、外に出ようとして人とぶつかりそうになる。


 「すいませ……」


 謝りかけて、言葉が止まる。相手は奈良崎さんだった。身長は僕の頭1個分高い。適度に引き締まった長い足に、ラインパンツが似合っている。


 「すんません」


 奈良崎さんは小声で詫びて横を通り抜ける。僕も立ち止まるわけにはいかず、外へ向かった。


 今、奈良崎さんはしっかりと僕を見ていた。まるで『こいつが平岩圭か』と再認識するように。


 トイレを出て、ドトールの客席が見える屋内のベンチに座る。知里はスマホをいじっていた。


 きっと今、僕が知里にメッセージを送ってもすぐに返信はこないだろう。彼女はそういう人だと、僕は知っている。


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 知里と奈良崎さんがどんな会話をして、どういう成り行きで移動を繰り返しているのかは分からない。僕の目に映る現実が全てだ。


 2人は駅近くのラブホテルに入った。ショッピングモールを出て駅に向けて歩いたから、もう解散するのかと思ったのに。衝撃のトラップだ。


 ラブホテル前の公園で僕は直立不動になる。いや、立ち止まっている場合じゃない。今こそ彼氏としての権利を発動すべきだ。電話なり突撃なり、いろいろあるじゃないか。


 でも、思考と実行は結びつかず、硬直は解けない。情けない話だった。こんな状況になってなお、僕は知里の休日を慮るのか。


 ねぇ、私のこと好き?


 好きに決まっている。知里のためなら何だってする。時間も金も惜しみなく使えるし、彼女の不自由がないように……。


 なら、どうして知里は僕に「好き?」なんて聞いたんだ。彼女への好意や大切に思う気持ちが届いていなかったからじゃないのか。


 好意って何だ。恋人って何だ。


 僕は知里の、何だ。


 ポケットのスマホが振動する。こんなタイミングに誰だよ。とっとと切るつもりで力任せに引っこ抜き、相手先を見ないで通話ボタンを押した。


 「はい」


 『圭くんは優しいね。優しくて甘くて私のことすごく考えてくれてて、ひどい人』


 知里は普段と変わらない声音で、淡々と告げた。咄嗟に正面の建物を見上げる。


 部屋の窓1つ1つに目を凝らしていき——見つけた。3階の右から4番目の窓に、千里がいる。


 左耳にスマホを当てる知里と目が合った。その瞬間、腹の奥がぐっと重くなる。


 『次に会っても圭くんは私を困らせないために今日のことを聞かないんだよね。心中穏やかじゃないのに笑いながらご飯作ってくれるよね。それって私に興味ないのと変わらなくない?』


 「興味ないわけがないよ。大切に思ってる」


 『1日中ずっと私を遠くから見つめているだけだったよね。今もほら、こんな距離ある』


 知里は一拍も置かずに言葉を投げかける。声に感情はこもっていない。ただただ、僕への問いかけだった。


 『騙すようなことしてごめんね。気づいてるかもしれないけど、この前のメッセージは誤送信じゃなくて、わざと送ったんだ。圭くんなら手段問わず探してくれると思って』


 「探してくれる、って言ってくれるんだね。尾行じゃなくて」


 『どっちが良い?』


 「……今は尾行かな」


 知里は「正直だね」と乾いた笑いを漏らした。


 『尾行するなんて、私に後ろめたいことでもあるの?』


 「ないよ。全くと言っていいほどなさすぎる。だからあの日、好きかどうか聞かれて動揺した。どう接したら伝わるのか分からなくなった」


 電話の奥で知里が息を呑む。


 今日、僕は知里に奈良崎さんと会うのを止めてほしいと頼むことはできた。ステーキハウスで席に割り込むことができた。ゲーセンで彼女の手を引いて奈良崎さんを置き去りにすることができた。ドトールでスマホをいじっている知里に呼びかけることができた。


 何より知里は、僕の登場を待っていた。


 「ちーちゃん。僕のこと好き?」


 『大好き。でも、同じくらい不安」


 「例えば?」


 『圭くんは本当に優しいから、私に負荷をかけさせないようにしてくれる。でもその分だけ、圭くんに負荷がかかってるよね。時間もお金も、気遣いも』


 「でも、それは」


 『私のことが好きだからできるって言ってくれるところが好き。でも同じくらい不安。私の嫌な部分を知ったら離れちゃうかもって考えたら怖くなる』


 同じくらい不安。2回目の引用で僕は悟る。


 知里は『好き』の残高を気にしている。いつか僕が好意を維持できなくなるんじゃないか、僕の通帳のようにいつか枯渇するんじゃないかと心配している。そうさせた原因に今さら気づいたけど、彼女が先に教えてくれた。


 『もっと私に負担させてよ。圭くんの弱いところ見せてよ。3年つき合ってるのに、圭くんの弱点が全然見つからないよ。私ばっかり、申し訳ないよ』


 不安のきっかけは僕で、距離感を見間違えた原因は僕らのコミュニケーション不足だ。


 ねぇ、私のこと好き?


 知里の言葉が背中にチクリと突き刺さる。


 『圭くんの優しさに甘えてたら、私もっと嫌な女になっちゃう。もっとダメになっちゃう』


 決して僕のことを息苦しいとも重たいとも自己中とも言わない。知里だって、十分優しすぎる。いっそのこと怒ってほしかった。僕はすっと息を吸って、言葉を吐き出す。


 「ちーちゃん、実は僕、金欠なんだ。僕の通帳、カラッカラ。いつも僕が2人分のご飯代払ってるし、泊まるときもちーちゃんの部屋だから交通費も時間もかかってる。全部、僕が好きだからできるんだけど」


 『知ってるよ』


 「旅行とかイベントとかライブとか、予約したりコース考えたりするのは楽しいけど時間はかかるかな。お互いのコンディションとか好みとかも考慮してるし。好きだからできるんだけど」


 『知ってるよ』


 「冬のデートは必ずホッカイロを用意した。僕を駅まで送ってくれるときは、帰りに温かい缶コーヒーを渡した。手洗いを見つけたらタイミングを見計らって声かけるし、なるべく屋内を歩くようにしてる。好きだからできるんだけど」


 『知ってるよ。いつもありがとうね』


 3階の一室にいる知里が、悪戯っぽく笑ってみせた。これは彼女から僕への最後の甘えだ。僕はそのサインを見逃さない。


 「ちーちゃん。好きだ。結婚してほしい」


 『圭くん。ごめん。別れよう』


 腹の奥に凝り固まっていたしこりが、スーっと溶けていく。それは知里の合図に応えられた喜びであり、微妙な距離感に終止符を打てた安堵によるものだった。


 二言三言、知里と何かを話したけど憶えていない。気づけば僕はスマホの電源を落としていた。


 3階の一室はカーテンで遮られ、知里の姿もない。もう部屋を出たのか。あるいは、まだ中にいるのかもしれない。


 そういえば知里は奈良崎さんに対してどこまで本気だったんだろう。僕を釣るためだけの協力者なら誰だって良いよな。ということは、そういうことになるのか。


 でも、良いか。全部終わったんだし。


 ねぇ、私のこと好き?


 あぁあ。


 何だかなあ。


 しこりは溶けたはずなのに、僕の手のひらには知里の髪を無機質に撫でた感触でいっぱいだった。


 そうだ、期間限定開催のビュッフェでも予約しよう。


 もちろん、おひとりさまで。


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恋する通帳 Joi @BanpRRR038

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