大和撫子は諦めない④


 喜ばしいことに、少し言葉を変えるだけで、山取くんは目に見えて成長するようになった。僕が山取くんに歩み寄った分、山取くんも僕に歩み寄る姿勢を見せ、僕の言葉に聞く耳を持つようになったのだ。


 「僕に合わせて」よりは「僕の音をよくよく聞いてなるべく真似をして」。「音色を和らげて」よりは「息にかける圧力を微妙に弱めて」。「豊かな響きで」よりは「アンブシュアをより強固にして」。


「分かりました」

 山取くんは素直に頷くし、その場では出来なくても翌日にはちゃんと言った通りの音を出せるようになっている。

 言葉を噛み砕いて伝えるだけで、人がここまで目覚ましい成長を見せるとは、僕にも驚きであった。


 抽象的な表現だと理解してもらいづらいのは難点であり、音楽家としての欠点とも言える。だがこれも、感性を磨けばいずれ克服できるだろう。山取くんには、伸び代がいくらでもあるということだ。


 山取くんがもう一度ピッコロを持って全体合奏に参加した時、みんなは彼の変貌ぶりに驚嘆したし、駒留さんも満足気だった。


「しかしよくやったよ、祥ちゃんは。あの生意気坊主のお世話をさ」

 食堂で藍さんが漬物をばりばり噛みながらそう評した。

「そうかな。山取くんが頑張った結果だよ」

「謙遜すんなって」

「いやいや、本当のことだよ。非番の日でも朝から晩まで練習しているみたいだし、普段の休憩時間も練習に充てている。それに、元々技術がそこまで低い訳じゃなかったから、僕の言っていることが伝わるようになってきた途端にぐんぐん伸びたんだ」

「……間に合うか」

 黙っていた琳さんが、麦飯を飲み込んでそう聞いた。

「出航までにってこと? うん、問題なさそう。日課の演奏にも参加できるよ。長期的に上達していけるかどうかは山取くん次第だけど、短期的な目標は達成できていると見て良いと思うな」

「……そうか」

「二人も褒めてあげてよ。これからしばらく、同室でやっていくんだから」

「まー、認めてやらんでもない」

「……仕方がない」


 話題が一段落して、僕は味噌汁を飲みながら何となく晴子さんのことを思い浮かべた。

 あの人にも、僕の言葉が届くと良いのだけれど……全然、聞き入れてもらえそうにない。音楽ならば僕にもやりようが分かるのだが、そうでない分野のことはからきしだ。

 結局僕は、やっせんぼの駄目な奴だな。

 そんなことを考えながら、箸を置いた。


 戦艦三笠の修理が半ば済んだ辺りで、僕たちはまた艦内での暮らしに戻った。藍さんと琳さんは新しく釣床を割り当てられた山取くんをそれなりに歓迎してくれた。

「ようよう、期待の新人くんよ。俺らの寝室にようこそ」

「……よろしく、頼む」

 山取くんは厳めしい顔で敬礼した。

「よろしくお願いします!!」

 僕たちも敬礼で応えた。僕は内心ほっとしていた。


 日課と練習号をこなすうち、三笠の修理は完了した。

 冬風の吹き荒ぶ中、またも石炭が山と積み込まれる。汗水垂らして働く水平たちを、僕たちは演奏を以って懸命に応援した。

 山取くんのピッコロはいつにも増して冴え渡っていた。軽快に踊るように跳ね回る旋律は、軍楽隊の演奏を一層華やかなものに仕立て上げていた。


 その後、掃除やら何やらの日課がいよいよ気合いを込めて行われるようになった。

 何せ次なる僕たちの敵は、世界最強と名高いバルチック艦隊。

 普通に考えれば、東洋の小国が敵う相手ではない。

 だからこそ力の全てを注ぐ。戦いに万全の状態で臨むべく、兵たちは早く艦上の生活に慣れて、早く出航し、実践を意識した演習を始める予定なのだ。


 修理が完了してから四日後、明治三十八年二月十四日、三笠は呉を出航した。

 楽器を構える僕の視界に、蘇芳色の帯の娘が見送りに来ているのが映った。

 彼女の瞳に不安の色は欠片も無かった。あちこちで万歳の声が上がる中、彼女は一人、静かに僕のことを信じている様子だった。


 ……そうではない。そうではないのだ。

 僕が生きて帰るのは、晴子さんのためではないのだ。それなのにどうして、そんなに追い縋ってくる。僕の心に波風を立たせてくる。僕は、揺らぎたくないというのに。決意を強く持っていたいのに。


 僕はちっとも優しくなんかない。目も当てられないほどひどい男だ。晴子さんを傷つけるようなことを自分の口から言いたくないばかりに、そんな罪を背負いたくないばかりに、晴子さんにとって非常に残酷な状況を作り出してしまっている。


 もっと強く生きたい。周りに振り回されてばかりではなく、自分の芯をしっかり持てる男になりたい。自分が選んだ道を、自信を持って歩めるように。自分の行動に、自分で責任が持てるように。

 

 僕たちが高らかに鳴らす軍歌に乗せて、艦隊は瀬戸内海に乗り出した。朝鮮半島南端部の鎮海湾から対馬海峡にかけての海域へと舵を切る。


 とうとう、バルチック艦隊との戦闘を想定した訓練が始まった。そしてそれは、三ヶ月に渡って行われた。万全を期した状態で敵と対峙できるよう、みんな真剣に訓練を行っていた。

 僕たちも、負傷者運搬の手筈を繰り返し確認したり、水泳の訓練をしたり、疲れ切った兵たちに余興の演奏を提供したりと、忙しく活動した。

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