第9話

必ず再び会いに行く①

「戦に出るのか、祥三郎」


 エデルと出会って四年ほどが経った頃、いつものようにイルゼのサロンに参加するため、僕はクラインフェルト家邸宅の前で馬車を降りた。そこでは瞬間移動で来たらしい、黒いドレス姿のエデルが僕を待っていて、唐突にそんなことを言った。


「よく分かったね」

 僕はへにゃっと笑顔を作った。

「その通りだよ。大学は中退して、国に帰らなくちゃ」


 この四年間、僕とエデルの関係は少しずつ変化していた。

 僕はいずれ国に帰る身ゆえ、エデルとの仲を深めることに対して慎重だった。エデルは人智を超えた長寿の者ゆえ、時間の捉え方がそもそも僕とは違った。

 しかし友人の支えもあって、変わらず共に音楽を鑑賞し、共にベルリンの町を歩き、共に食事をする内に、僕たちは恋仲と言って差し支えない程度には仲良くなった。僕は知人にエデルのことを恋人として紹介したし、エデルもそれを否定しなかった。


 近いうちに、エデルを残して去る決断を迫られるのは分かっていた。だから、帰ってから軍を辞めて、正式にベルリンに住めるよう手続きをするつもりだった。

 その予定は、戦争によって狂わされた。


「祥三郎がいつか戦争に出るのは分かっていた」

 エデルは真顔で言葉を継ぐ。

「だが、今回は分が悪すぎる。ロシアはバルチック艦隊を出すぞ。君たちに勝てる訳がないだろう」


 僕が口を開く前に、後ろから声がかかった。

「おい、今、戦争と言ったのか」

 フルートの入った鞄を肩にかけ、帽子をかぶったスーツ姿のヴァシクが歩いてきた。

「ああ、うん、そうなんだ。今朝、大使館から連絡が来た。従軍の命令が出たから、国に戻れって」

「やめておけ」


 ヴァシクはきっぱりとそう告げた。


「日本がロシアなんかを相手取ったら、全員沈められて死ぬのがオチだ。今からでも軍を辞めろ。ベルリンに留まれ」

「いや、そうは行かないよ。僕は軍のために軍のお金でここで勉強しているんだ。いざ戦争になったら仕事をしないだなんて、虫が良すぎる話だよ」

「それでみすみす死にに行くつもりか!」

「まあ、軍人だからね……」

「ごきげんよう、みなさま。一体何の騒ぎですの?」


 今度は玄関口から、深い青色のドレスを着たイルゼが出てきた。ヴァシクが憤懣やる方ないと言った勢いで、イルゼにことの次第を伝える。


「まあ!」

 イルゼは衝撃を受けたようで、らしからぬ大声を上げた。

「ショウ、そんなことをすれば間違いなく死んでしまいますわよ!」

「その危険性は否定しないけど」

「危険性ですって? 寝言は寝てからお言いなさいな! ロシアのバルチック艦隊を敵に回して、日本の艦が一隻でも生き残ったら奇跡ですわ!」

「えっと……日本は一応、勝つつもりでいると思う……でないと国が滅ぶし……」

「そうだわ、辞めたら軍からお金が出なくなるということでしたら、わたくしがショウのパトロンになります。サロン主催者として正式にショウを雇って、ベルリンで生活するのに必要な資金をお支払いしますわ。ですから、ね、残ってちょうだい!」


「いや、その……」

 まくしたてるイルゼに、僕は気圧されながらも反論を試みる。

「僕は戦争に出るためという名目で音楽をやってきたんだ。敵前逃亡は許されないし、従軍を拒否すると物凄く大変なことになる……。それに海軍には僕の友達や恩人もいる。彼らだけ戦争に行かせて、僕だけ仕事を放棄してベルリンで暮らすことはできない」


「くだらん」

 ヴァシクが僕の言い分を一刀両断した。

「そんなしがらみに囚われて、エデルを置いて死ぬなど、言語道断だ。お前にとって大事なのは何なのか、よく考えろ」

「いやいや、それはみんな同じだよ。僕の仲間だって、妻子を持っているけれど出征するんだから」

「そいつらは国にいる妻子や恋人を守るために行くんだろう? お前は、日本にそんなに大事な者が居るのか」


 僕は俯いた。

 誰も彼も、頭ごなしにそういう言い方をしているが、こんな僕にだって一応、意地というものがある。


「……仲間と恋人、どっちを選ぶかなんて、そう簡単には答えを出せない問いだよ」

 顔を上げないまま、しかし確固とした声で言う。

「僕にとってはどちらも大事だ。それに、国のことだって大事だよ。このままでは日本は征服されてしまう。それは嫌だ。ボヘミアのために頑張っている君なら分かるだろう、ヴァシク」

「それは……」


 ヴァシクの故郷であるボヘミアは現在、オーストリア=ハンガリー帝国の支配下にある。これまでも長らく他国の支配下に置かれていた。しょっちゅう反乱を起こして支配者に抗ってきたそうだが、独立の夢はついぞ叶っていない。

 ヴァシクの夢は、そんな故郷の文化を栄えさせることだ。ボヘミアは、スメタナやドヴォルザークといった優れた作曲家を輩出してきた地でもある。ヴァシクは彼らの影響を多分に受けてきた。


 今日はそんなヴァシクが僕たちのために書いてくれたフルート三重奏を、イルゼのサロンで披露する日だ。


「さあ、今は僕の身の上の話なんかはよして、みんなで中へ入ろう。せっかくのサロンの日なんだから。エデルも、ほら」

 僕が差し出した手のひらに、エデルは無言で手をのせた。僕たちは手を繋いで、イルゼの邸宅にお邪魔した。

 

 部屋にはいつも通り、赤い絨毯の上に椅子が半円形に並べられていて、その後ろにはお茶を飲んだりできるテーブルも用意されている。舞台となる場所には、木目の見えるつやつやとしたグランドピアノと、譜面台がいくつか。

 イルゼが前に出て、来賓の客や演奏家たちに定例のご挨拶をする。最後にこう付け加えた。


「……本日は一つだけご報告がございますの。ショウ、みなさまにご説明を」

「えっ、あのっ」

「さあ、ショウ。舞台に上がって」


 イルゼに促され、僕は渋々みんなの前に出た。


「えー、日本からの留学生、森元祥三郎です。この度、日本がロシアと戦争をするということで、僕も海軍軍楽隊員として出征することになりました。近いうちにベルリンを去ります。その……これまでみなさんには大変お世話になりました。ありがとうございました」


 どよどよ、と客たちがざわめいた。


「もし戦争から生きて帰れたら、またベルリンに戻ってこようと思います。その時はまたよろしくお願いします」


 僕はお辞儀をして挨拶を終え、エデルの隣の席に戻ったが、ざわめきはどんどん大きくなっていた。近くの参加者が矢継ぎ早に僕に質問を浴びせかけてくる。一方エデルはやはり何も言わずに、時たま僕の顔を見たりしながら、何か考えている様子だった。


 じきに演奏が始まった。

 サロンにはフルートの他にも、様々な楽器の奏者が集っている。ピアノ、バイオリン、オーボエ、ホルン、等々。ただでさえサロンは数が少なく、また多くのサロン音楽がピアノのみを想定して作られている中で、このような機会があるのは大変貴重だ。

 僕たちの番になり、僕とイルゼとヴァシクはフルートを持って舞台に出た。

 ヴァシクがファーストフルート、僕がセカンドフルート、イルゼがサードフルートを担当する。


 イルゼが優雅な仕草で前に出て、みんなに挨拶をした。


「ただいまから演奏いたしますのは、こちらにおりますヴァーツラフ・ベネシュが、今宵のために作ったフルート三重奏にございます。ヴァシク、みなさまにご説明を」


 ヴァシクは咳払いをした。


「曲名は『カレル橋のある風景』です。プラハの町を流れるモルダウ川に架かっているこの古く美しい橋は、十五世紀初頭にカレル一世の命で作られ、プラハの発展の基礎となりました。プラハの街並みを想像しながらお聞きください」


 ヴァシクがスッと楽器を横に構えた。僕たちもそれに倣った。



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