必ず再び会いに行く②
「君たちの曲……『カレル橋のある風景』だったか。あれは良かった」
エデルは〈戦士の休息所〉でビールを飲みながら、僕たちの演奏をそう評した。
「独特な曲だ。音の重なりも拍子も旋律も、新鮮に聞こえた」
「そうだね、民族調の雰囲気が強い曲だった。ボヘミアの音楽らしくなるようにって、ヴァシクからビシバシ指摘をもらいながら練習したよ」
「祥三郎もたまに、日本風の曲を書いてくるな。あれはいつも大人気だ」
「みんなに喜んでもらえてありがたいよ」
エデルはビールを飲み干してジョッキを長机にドンと置くと、顔にかかった長い癖っ毛を払った。
「……祥三郎。次の月曜日、大学の講義が終わったら、散歩に出ないか」
「もちろん、良いよ」
「その時までに気持ちの整理を付けてくる。今日は色々なことが頭に浮かんで、うまく言葉にできなかったからな」
「……そうだったんだ」
それで静かだったのか、と僕は内心申し訳なく思った。
「どこか行きたいところはある?」
「これと言って希望がある訳でもないが……久々にベルリン大聖堂でも見に行くかね」
「ああ、良いね。そうしよう」
ベルリン大聖堂はキリスト教の教会で、エデルの出自とは違う神話を元にした宗教的建築物だが、エデルはこれも文化の勉強の一環だと言って僕と一緒に何度か訪れたことがあった。外装もさることながら、内装が非常に煌びやかな建物で、最初は僕もエデルも目を瞠ったものだ。
月曜日に大学で落ち合う約束をして、僕は下宿に帰った。
当日、ピンケル教授のレッスンを受ける際に、僕は従軍のために大学を中退することを伝えた。ピンケル教授は目を閉じて何か考えている様子だったが、やがてゆっくりとこう言った。
「君は主に軍楽を学ぶためにここへ来た。本来ならば、名誉ある任務へ向かう君を応援し、祝いの言葉をかけるべきなのだろう。しかし……私は一人の教育者として、君の成長を見届けられないことを非常に残念に思う。何より、君のような優れた音楽家を喪うことは、音楽界にとって大きな痛手となるだろう」
「いえ、僕は死ぬと決まった訳ではありませんが……」
「そうか……。いや、多くは語るまい。君の奏でる音楽が、君自身へのレクイエムとならないよう、心から祈っているよ。君に神のお導きがあらんことを」
「お気遣い、誠にありがとうございます。教授の教えを心に刻み、祖国の勝利に貢献できるよう努めます」
さて、この頃の僕は課題曲としてJ.S.バッハの「無伴奏フルートのためのパルティータ」を与えられていた。
およそ軍楽とは真逆の曲調の楽曲である。僕としては幅広い奏法を身につける機会を得られて嬉しい。バッハに代表されるようなバロック音楽は、良い意味で飾り気が無く、そのぶん奏者の力量が如実に表れやすい。何事も、単純明快な表現にこそ、その人の基礎力が求められるものだ。
特にこの曲は、かなりどっしりした音量で変幻自在に中音域を吹かねばならない。アンブシュアには細心の注意を払いつつ、息の量を慎重に調整しつつ、表面上ではいともたやすく吹きこなしているように装いながら、優美な音楽を奏でる。
ピンケル教授の指導はこれまで通り優しく、かつ熱心なものであった。
レッスンが終わり、その後の軍楽の演習も終わった。僕はエデルとの約束の時間まで大学の部屋を借りて個人練習をした。
大学からベルリン大聖堂までは少しばかり遠いので、僕は大学の敷地を出て待っていた。間も無くエデルがコツコツとブーツを鳴らして近づいてきたので、二人して人目につかない場所を探して身を隠し、ベルリン大聖堂付近まで瞬間移動した。
大きくて白い壁に、丸くて青い屋根。いつ見ても壮麗な佇まいである。
中に踏み入ると、外界からすっかり遮断されたかのような気分になる。
彫刻の施された白い壁、ドーム型の丸い天井、光の差し込むステンドグラス、金色の調度品、巨大なパイプオルガン、キリストの生涯を描いた絵画、静かにそれらを見つめている人々。
どれを取っても、神に祈るための場所として相応しい雰囲気だ。
階段を上っていけば、見晴らしのいい高所に出られる。僕とエデルは風に吹かれて、時々喋ったり黙ったりしながら、眼下に広がるベルリンの街並みを眺めた。傾きかけた日の光を反射して、シュプレー川がきらきらと光っている。
「──戦いに出るのは」
エデルは外の景色を見ながら、ゆっくりと切り出した。
「良いことだ。めでたいし、誇れることだ。私は今もそう信じている。それは私がワルキューレだから……そのようにヴォータン様に定められて生まれた存在だからだ。多分そうだと思う」
「うん」
僕は真面目にエデルの話に耳を傾けた。エデルは僕のために一生懸命、考えてきてくれたのだ。きちんとした態度で聞きたい。
「戦で死ぬのは戦士の誉れだ。だが、残される者たちがいる。イルゼやヴァーツラフのように。誉れだ何だと飾り立てようと、彼らが死んだ者に再び会うことはない。この事実が変わることは絶対にない。私も、アインヘリャル以外の死者に会えることなどまずありえないし、それが外国の者であればなお一層会う機会などない。祥三郎が死んでしまうのは、祥三郎に二度と会えなくなるのは、私も嫌だと思った。こんなおかしなことは初めてで……何が正しいのか、私にはもう分からなくなってしまった。あるいは正しさなどというものは、ミットガルトの住人には無いのかもしれない」
「なるほど」
ふう、とエデルは地上に向かって溜息を落とした。
「私自身は、祥三郎が戦争に出るのを、止めたいと思えない。かと言って、嬉しいと思ってもいない。祥三郎が戦いに出るのが、運命だというならば、私も祥三郎もそれに従わなければならない。歓迎はしないが、仕方がないことだ。そんな風に思っている。……いや、より正確には……私は、祥三郎が戦に出るのを止められはしないが、祥三郎には死んで欲しくないと思っている」
訥々と語られるその言葉からは、エデルが今でも深い混迷の中にいることが窺い知れた。ワルキューレとして確固たる使命を持って生まれ、悠久の時を生き、戦場を駆け巡り、死者をもてなしてきた彼女が、たかが一人の戦士に戦死して欲しくないと願ってしまう。激しい自己矛盾を抱えながら、何とか僕と対話しようとしてくれている。
嬉しいような、悲しいような、何とも言えない気分だ。僕なんぞのことをこんなにも心配してくれる人がいるという事実と、そんなかけがえのない人のことを僕はこんなにも心配させてしまっているという事実。
「うん。ありがとう。心配をかけてごめん」
「祥三郎が謝る必要はどこにもない。だが代わりに、私の頼みを二つ、聞いてくれないだろうか」
「いいよ。何?」
エデルは真剣な眼差しで僕を見据えた。
「無事に戦争から帰ってきて欲しい」
「分かった」
「それと、帰ったらまたベルリンに来て、私にフルートやピアノを教えて欲しい」
これはちょっと僕の予想を超えてきた。とはいえ迷う理由は無い。
「分かった」
「即答だな」
「エデルのお願いなら何でも叶えてあげたいからね」
「そうか。感謝する」
エデルはまた、夕焼けに染まる外の景色を眺めた。僕も釣られて町を見下ろした。
ロシアとの戦争から生きて日本に帰り、その上で日本を去ってドイツに舞い戻る。これはまた大変な大仕事を任されてしまったものだ。
エデルがそうして欲しいのなら判断に迷いはしないが、難しい要求であるのもまた本当である。
でも、そうか。僕がベルリンでエデルに音楽を教えるのか。好きな場所で好きな人に好きなことを。最高に素晴らしい未来だ。この機を逃してみすみす死ぬことはできない。必ず実現させなければ。
具体的な目標ができたことで、生還するという目標がより明確になった。
「エデルトラウデ」
僕は呼びかけた。
「必ず生きてここに戻って来るよ。約束する」
「ああ」
「そしてここでエデルと一緒に音楽をやる」
「ああ」
「だからエデルは、僕が帰る時までに、音楽の勉強をたくさんしておいてよ。実技の他にも、頭に入れるべきことがあるから」
「ああ……そうしよう。するべきことがあれば、祥三郎が留守にしている間の寂しさも和らぐだろうしな」
「僕もエデルと会えなくなるのは寂しいけど……これがあるから」
僕は胸ポケットから、以前エデルにもらった金貨を取り出した。
「これを見ながらエデルのことを思い出して頑張るよ」
「ああ。是非ともそうしてくれ」
エデルは微笑んだ。
「それさえあれば、祥三郎は生きて帰れる。何しろ、この私が特別に授けた魔法の金貨だからな。必ず戦場に持って行ってくれたまえ」
「うん」
僕は金貨を夕日に照らしてよくよく見てから、きちんとポケットに仕舞い込んだ。
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