第10話

迎え撃て世界最高峰①


 明治三十八年五月二十七日未明。

 日本海軍の艦隊に、無線の報告が入った。

 ──敵艦隊見ゆ、と。

 場所は、対馬海峡の西方。


 鎮海湾で待機していた戦艦三笠は、並み居る艦隊を引き連れ、直ちに対馬海峡方面へ出撃。そのまま航行を続けることおよそ九時間、こちらも敵艦隊の姿を発見する。天高く日が昇っており、波もまた高い。いよいよ──。


「いよいよバルチック艦隊のお出ましだな、祥三郎!」


 甲板に出ていた僕の前に、銀色の甲冑姿のエデルが現れて、ぶんっと槍を振るった。


 異人の妖怪が出たぞ、と水兵たちが遠巻きに話している。これまでの海戦で好き勝手に暴れていたエデルは、今やすっかり兵たちに馴染んでおり、戦神だとか化け物だとか色々と噂されるようになっていた。


 ああ、と僕は己の不甲斐なさを恥じた。晴子さんの行動力に気圧されて流されていた自分が心底情けない。こうして会うとしみじみと実感する。僕が好きなのは、僕が選びたいのは、エデルなのだと。


「しかしこの陣形で行くのか」

 エデルはひょいっと帆柱のてっぺんまで跳んで海上を見渡し、また甲板に戻ってきて言った。

「確かにこれなら敵に大砲を集中的に浴びせられるが、敵がそう易々とそれを許すかな。恐らくこれは……互いに弾を撃ちやすく食らいやすい形になる」

 うん、と僕は首肯する。

「東郷中将がそう決めたんだよ。こちらにどれだけ損害が出ても構わないから、確実にバルチック艦隊を全滅させるって」

「全く……。簡単に言ってくれるな。守ってやる私の身にもなってくれ。……まあ良い」


 エデルは腰を低く落として、しっかと槍を構えた。


「ワルキューレとして、私は戦場の運命を変えてみせる。君に祝福と勝利を授けよう!」


 ダンッ、とエデルは甲板を蹴って軽々と宙を舞った。その動きはこれまでより遥かに洗練されており、とても目では追えない。


 僕が感心していると、どおん、と腹の底まで震えるような轟音が立て続けに起こった。心臓がひっくり返る気がした。バルチック艦隊がこちらに砲撃を始めたのだ。

 すぐにこちらも配置につき、バルチック艦隊に砲撃を浴びせる。

 撃ち合いの開始だ。

 それぞれの艦上の煙突からは黒煙が勢いよく上がり、海上には砲弾による水柱が激しく上がる。

 僕は恐怖でわなわなと手が震えるをぐっとこらえて、怪我人が出たらいつでも駆けつけられるように位置についていた。


「うおらーっ!!」


 雄叫びが上がり、僕の真横で砲弾が爆発四散した。砲弾の欠片は全て弾き返されたようで、こちらは傷一つ負っていない。


「祥三郎、無事か!?」


 エデルが額から一筋の血を流しながら僕の前に現れた。


「エデル、また粉砕したの!? そっちこそ怪我が……!!」

「私ならたちどころに治るから心配無用だ。既に出血は止まっている。──君が無事ならそれで良い」


 エデルの姿は再び掻き消えた。

 僕の隣で待機していた山取くんが、口をぱくぱくさせて何か言いたそうにしていた。


「あ、山取くん。エデルに会うのはこれが初めてだったね」

「……水兵たちが……幽霊だ何だと戯言を言っていると思ったら……まさか本当だったとは……!」

「彼女はワルキューレのエデルトラウデ・エリオンス。僕の恋人で、戦闘になったらああして来てくれるんだ……」

 僕は手で顔を覆った。

「血が出ていた。エデルが怪我をしたのは、僕のせいだ」

「……何を仰っているのか分かりかねます」

「まあそうだよね……」

「ひとまず、お顔を上げてください。周りが見えなくては危険であります」

「うん──」


 爆音と共に足元に衝撃が走り、艦がぐわんと大きく揺れた。

 僕はパッと音のした方を向いた。

 噴き上がった潮水が、甲板をざあざあと洗うように、押し寄せては引いていく。


「三笠が被弾した! 行くよ、山取くん」

「了解」


 そこからはもう目まぐるしく戦況が変化して、僕たちはてんてこ舞いになった。

 僕も山取くんも藍さんも琳さんも、艦の上を駆けずり回り、怪我人が出たのを確認し次第、応急処置と運搬に携わった。


 すぐに、一時間ほどが経過した。


 今のところ、戦艦三笠の乗組員に死者は出ていない。戦闘不能な艦もまだない。一方の敵は、こちらの放った大量の砲弾により、主力を担う戦艦が二隻、大破して火災を起こしている。そのせいで他の艦は今にも散り散りになりそうだった。


 小国日本の海軍艦隊は、大国ロシアの最強艦隊を相手に、十二分に戦えている。それどころか、圧倒的な優勢に立っている。

 この調子ならば、ベルリンにいるみんなが危惧していたような悲劇的な状況にはならないだろう。

 世界をあっと驚かせるような奇跡が起きようとしている。勝利は目前だ。


 それでも、やっぱり、──怖い。

 戦場は怖い。

 こんなのはもう、去年だけでたくさんだったのに。


 炎に巻かれて焼け死ぬロシア兵の上げる絶叫が聞こえるような気がする。落ちれば溺死、留まれば焼死、そんな状況に陥ったロシア兵の苦痛と絶望は、察するに余りある。

 こちらが食らった命中弾による日本兵の負傷者も、血を流して朦朧としていたり、あまりの痛みに耐えかねて喚きそうなのを我慢していたり、とにかく目を背けたくなるような惨状だ。

 戦場はどこも苦悶で満ち満ちている。


 それなのに、水兵たちの士気は非常に高く、普段より興奮した様子できりきり働いている。

 どうして。目の前にある光景は、凄絶な地獄そのものなのに。そんな平気な顔で。むしろ嬉々として。怖気付くこともなく。


 僕だけがこんなに怖がっていて、つらい思いをしていて、死者や負傷者の痛みを我がことのように感じてしまって、足をがくがくさせながら走って……。

 これは、僕が情けないのか。それとも、戦争という状況が異常なのか。

 ──きっと両方だ。


 それに加えて、去年の天沢さんのあまりにも呆気なく儚い戦死が、確実に僕の心を抉っていた。二度とあんな思いはしたくない、という気持ちが、僕を更なる恐怖へと駆り立てていた。


 こんなものは、早く終われ。早く目の前から消えて無くなれ。早く。早く。


 そんなことを頭の中で念じながら、僕は琳さんと協力して担架に乗せた怪我人を運んでいた。怪我人には意識があり、痛みに耐えて呻いていた。

 早く助けなくては。早く病室へ連れて行かなくては。急げ。走れ。きびきび動け。命を守れ。早く、早く、早く。


 そうして、琳さんと息を合わせて、甲板を降りようという時だった。


 一段と大きな爆発音が間近に聞こえた。視界が真っ白になり、全ての音が消え去り、何も分からなくなった。

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