迎え撃て世界最高峰②
一瞬の後、僕は自分が爆風で吹き飛ばされたのだと理解した。うつ伏せに倒れた格好である。幸い、僕は手のひらと膝を擦りむいただけで、大きな怪我はしていない。
艦はまだ激しく揺れている。僕は欄干に捕まって立ち上がった。
運んでいた担架を放り出してしまった。乗せていた怪我人は無事だろうか。琳さんは──。
「……くそ」
「琳さん!?」
僕は動揺のあまり、またしても転んでしまった。立ち上がるのももどかしく、琳さんのそばまでばたばたと近づく。
床には、めちゃくちゃに壊された艦の破片が飛び散っている。その中でうずくまっている琳さんの左手からは、真っ赤な血が大量に滴り落ちていた。
「琳さん、手が!!」
「……致命傷、では、ない」
「いや、すごい血だよ! 無理しないで!」
「琳さん! 祥ちゃん!」
藍さんや他の運搬担当者が駆けつけてきた。
「祥ちゃん、怪我は?」
「な、無い」
「ならよし! みんな、行くぞ!」
僕たちが運んでいた怪我人は他の仲間の手に渡り、新しい担架に琳さんが乗せられる。
「森元さん、お怪我は」
遅れて駆けつけた山取くんが尋ねる。
「僕は大丈夫。転んだだけだから」
「それは不幸中の幸いです。……あちらにまだ怪我人が残っております。動けますか」
「うん。問題ない」
「行きましょう」
僕たちは走り出した。
──琳さんの負傷はどの程度だろう。さっきは気が動転していてちゃんと確認できなかった。腕ごと失くした訳ではなさそうだから、止血をすれば命は助かるはずだ。だが、手をあんなにやられて、琳さんはこの先トロンボーンを持つことができるのか……。
涙が出てきて、僕はぐいっと軍服の袖で目の周りを拭った。
泣くな。視界がぼやけていては、充分な働きができない。心を乱されるな。気をしっかり持っていなければ、臨機応変な対応ができない。
エデルの姿はまだ見えなかった。
エデルの指輪が光るのは、金貨を持つ僕に危険が迫った時のみ。僕の戦友の危機には気付けない。
今エデルは、三笠が沈んで僕が溺死する危険をできるだけ避けるために、戦況を有利にしようとして、あちこちの艦を飛び回ってくれている。
エデルも、負傷を厭わずに捨て身の戦い方をしている可能性が高い。怪我がすぐに治るというのだからきっとそうだ。さっきだって、僕には傷一つ負わせなかったのに、自分は額に怪我をしていた。如何にワルキューレと言えど、怪我をすれば痛むだろうに。
どうしてみんな、こんなことをしなければならないのだろう。傷ついて、恐怖して、悲しんで、それでも己を奮い立たせて、殺して、殺されて。
嘆いても詮無いことだ。しかし、こんな愚かな真似をしなくても、何物にも脅かされることなく暮らせる世界があれば、と思わずにはいられない。海軍が、日本軍が、駆り出されることもなく、必要とされることすらないような、平和で安穏とした世の中であれば、どんなに良かったか。
この後、三笠を含む第一艦隊は、一時的に攻撃を中断した。バルチック艦隊と進行方向を違えてしまい、敵の主力艦隊を見失ったのだ。
しばらく僕たちの出番はない。
僕は即座に病室に駆けつけた。
琳さんは左手を包帯でぐるぐる巻きにされて、病室の隅っこの椅子に座っていた。
「……すまない」
僕の顔を見るなり、琳さんはそう言った。
「どうして謝るの」
僕は駆け寄ってしゃがみ、琳さんの顔をよく見た。いつも通りの無表情だが、顔色は悪い。
「怪我、痛むよね。軍医は何て?」
「……。左手の、薬指から小指にかけての部分が、欠損した」
僕は息を飲んだ。琳さんはそんな僕を落ち着かせるように、真顔で首を横に振る。
「……合併症を起こす危険性は、低い。血も、じきに止まると」
「それは、良かったけど」
「……俺は、負傷者の運搬が、できなくなった。すまない」
「そんなことで謝らないでよ。それで、今後トロンボーンは持てるの?」
「……」
琳さんはじっと自分の左手を見た。
「……工夫して、練習をすれば、できなくはない。中指は、残ったから。しかし、……軍楽隊員として、満足な演奏は、できなくなる、と思う」
「そう、なんだ……」
僕はしょげ返った。琳さんはそんな僕に、滅多にしない微笑みを見せた。
「祥、心配いらない。……軍楽隊にいられなくても、人生は、何とかなる。きっと」
「でも」
「……俺のことは、いい。廃兵になっても、生きていける。祥……死ぬな。武運を、祈る」
僕は俯いて、うん、と返事をした。そろそろ軍医が、僕が邪魔だと苛々し始めたので、僕は「お大事に」とだけ告げて病室を出た。
病室の外では、エデルが待っていた。
「琳輔は無事なのか」
「手が欠けちゃったけど、命に関わる傷じゃないって」
「そうか。……すまなかったな。また助けてやれなかった」
「エデルは何も悪くない」
「そうか」
エデルは南東の方に目をやった。
「じきに交戦が再開する。私はかなりこの戦いに慣れてきた。今度は着弾を防ぐだけでなく、弾が爆発する前にバルチック艦隊に打ち返してみるつもりだ」
「……えっと、どういう意味?」
「そのまんまだよ。バルチック艦隊が放った弾をそっくりそのままお返しする。衝撃を与えてから爆発するまでの頃合いを見計らって、敵の艦にぶち当てる」
「そんなことができるの?」
「できると思う」
「すごいな、エデルは……」
「ふっ。お褒めにあずかり光栄だ」
エデルは不敵に笑ってみせた。
およそ三十分の攻撃休止の後、第一艦隊は再びバルチック艦隊の影を捕捉した。
トランペットが合図を鳴らす。砲撃の応酬がまた始まった。
爆炎、黒煙、水飛沫。
エデルは確かに、敵の放った砲弾を何割か撃ち返しているらしい。こちらが撃ってもいないのに、勝手にバルチック艦隊が被弾していく。水兵たちは首を捻り、お化けの仕業だとか、神風が吹いているとか言っていたが、お喋りにかまけている場合ではないので、基本的には目の前の戦闘に集中していた。
僕は一度だけ、「オラァ!!」と猛々しく声を上げるエデルの姿を視認できた。彼女は槍を振り回し、野球よろしく砲弾を敵へと打ち返しているところだった。
その果敢な勇姿に、僕は改めて惚れ直してしまったが、気を緩めている余裕はもちろんなかった。
忙しなく動き回っていた僕は、何度も転んで、打ち身や擦り傷を増やしていった。海水を全身に浴びてしまい、軍服が重く、足取りも重くなる。
これしきのこと、エデルや天沢さんや琳さんに比べたら、あまりにも矮小な問題だ。気にかけるに値しない。彼らの分まで、僕はしっかりと務めを果たさなければならない。
夕陽が空を朱く染め上げ、荒ぶる海面もそれを映してうねっていた。
数多の血を流した海戦の決着がつこうとしている。
五隻もあった敵の主力戦艦は、いずれも沈没、炎上、または中破と相成った。
一方でこちらの艦隊は、損傷はしたものの被害はごく僅かであった。
水平線上に、日が落ちる。
激戦の海原は、夜の闇に閉ざされる。
闇に乗じて、駆逐艦と水雷艇が追撃を加える。夜空の下に、轟音が鳴り渡る。
その間、戦艦三笠の乗組員は、しばしの休息を取った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます