迎え撃て世界最高峰③


 一夜明け、バルチック艦隊はもうほとんど壊滅していた。主力以外の戦艦もみんな沈没した。日本海軍は、散発的な残党狩りを行うのみとなった。勝利は目前である。


「海戦でここまでの圧勝を見たのは、私も初めてだな」

 エデルは、待機中の僕の隣に立ってそう言った。

「普通、どちらもそれなりに損害をこうむるはずだ。というか、君がそう言っていたな。こちらの損害を度外視してでも敵を撃滅する作戦だと。それが蓋を開けてみたら、こちらの被害はかすり傷程度だ」

「エデルが頑張ってくれたから……」

 僕は感謝の思いを込めてエデルを見上げた。ふむ、とエデルは考え込む素振りを見せた。

「確かに私は、戦場の運命を多少変えられるし、人間には不可能な動きであっても容易くできる。だがそれが大きな勝因になるわけではない。結局、物を言うのは戦略と戦術だからな。私でなく、日本海軍の作戦立案が優秀だったのだろう」

「そうなんだ」

「そもそも、バルチック艦隊は、ここへ来るだけでかなり疲弊していた。これは私にも盲点だったな。実際にやり合うまでは分からなかった。どうやらあちらの主力は、出航してからユーラシア大陸を大きく西に回り、猛暑の赤道直下を通過し、アフリカ大陸の希望峰を通って、今度はユーラシア大陸の南側をひたすら東に進んで……。過酷な長旅をしてきたようだ。あちらには、戦略の時点で敗因が存在していた」

「なるほど……」


 僕はロシアの兵たちを気の毒に思った。長く厳しい旅路の果てに日本海までやってきて、不利な条件で戦わされて、こんなにも惨敗してしまうとは。さぞかしつらかったことだろう。


 日本兵とて、少ないながらも死傷者は出ている。琳さんや他の負傷兵は、病院船で佐世保鎮守府の海軍病院に運び込まれ、治療を受けている。海に落ちて死んだものや、砲弾を食らって死んだ者もいる。


 改めて思う。戦争は好きになれないと。


「む。敵が降伏したようだ」

 エデルが敵艦隊の方を見てそう言った。

「え、本当に?」

「本当だ」

「へえぇ……」

 実際にこの目で圧勝する様子を見ていたとはいえ、本当にロシア相手に勝てたとなると実感が持てず、嬉しいと言うよりは何だか妙な気持ちになる。


「ここはまた戦場ではなくなってしまったな。私は去らなければ」

「分かった。本当にありがとう、エデル。とても心強かった。感謝してもしきれない」

「それは何よりだ。──再びドイツで君に会えることを期待している」


 僕が返事をする前に、エデルは姿を消してしまった。


 ──そしてまた、夜が来る。

 三笠は一路、佐世保軍港へと向かって帰還中だ。


 琳さんの居なくなった寝室で、僕たち水兵は、それぞれの釣床に寝転んで言葉少なに過ごしていた。


「祥ちゃんよ」

 藍さんが気怠げな声で問いかける。

「これからどうするんだ。ドイツに行くとか言ってなかったか」

「うーん……。そうなんだけど、しばらくは海軍に留まるよ。ドイツに行けるだけのお金を貯めなくちゃいけないから」

「それなら意外と早く済むかもな。これで陸軍がうまく戦勝したら、ロシアから賠償金をたんまりぶんどれるだろ。そんでもって祥ちゃんの階級は准士官相当だろ。見返りは期待して良いんじゃねえの」

「ああ……そう言われればそうかも」

「そうとも。俺らは国のために命張ったんだ。きっちり金を寄越してくれなきゃあ困る。なあ、山ちゃんよ」


 突然話題を振られて、山取くんは「え」と少しの間固まった。


「……ええ。その通りですね」

「山ちゃんの家、困ってるんだろ。お前だってうんと頑張ったんだし、たくさんもらえると良いな」

「……」

「あ、これ言わなかった方が良かったやつか? すまん、忘れてくれ」

「いえ、仰る通りであります。僕は家を助けねばなりません。そのために何とか海軍に入れてもらったのです」

「何だかんだ良い奴だよな、山ちゃんは。俺も家内と娘に気を揉ませちまったし、帰ったら美味いもんでも食わせてやりてえなあ」

「そうですね」

「琳さんも、これから食うのに困らねえように、それなりの額をもらって欲しいもんだ」

「そうだね」


 寝室はまたしんみりとした空気に包まれた。僕は布団の中でもぞもぞと身動きをした。


「というか祥ちゃん。そうじゃねえよ」

 藍さんがまた急に喋り出す。

「俺は金の話を聞きたかったんじゃねえ。お前、晴子さんには何て言うつもりなんだ」

「何てって……。僕は最初からお断りしてきたし、今まで通り僕の気持ちを伝えて……」

「いいや、生温いね。今まで晴子さんは納得してこなかったんだろう。次だって納得しねえと思うぞ」


 僕はウッと言葉に詰まった。そこへ藍さんが畳みかける。


「断言するけどよ、晴子さんは絶対に佐世保でお前を待ち伏せしてるぞ。可哀想で見ていられんわ。何とかしてとっとと片を付けろ。放っておいたらお前、ちんたら金を稼いでいるうちに、お前らの実家が結婚式までご用意しちまうぞ」

「……だ、大丈夫。僕、准士官だし、そうなる前にお金を用立てる」

「それはそれ、これはこれだ。そうやって先延ばしにするの、良くないと思うぞ」


 正にその通りで、僕はぐうの音も出なかった。


「森元さん」

 今度は山取くんが口を開いた。

「晴子さんという女性との婚約は、親御さん同士がお決めになったと聞いています。お家の意向に逆らうのは、とても難しいと思います。僕にはできなかったことです」

「そうだね」


 僕は沈鬱な気分で答えた。

 山取くんも、華族の家に生まれて、大変な思いをしてきたのだろう。


「日本を出て暮らすのは、もっと難しいでしょう。国から滞在許可が降りるかどうかも分かりません」

「うん」

「それでも僕は……差し出がましいようですが、森元さんを応援しております」

「そうなの? ありがとう」

「森元さんには、たくさんの恩がありますので」

「そうかな?」

「はい。森元さんは不勉強で頑固だった僕に怒りもせずに、僕に合わせた指導をしてくださいました。それによって僕は、己の未熟さが分かってまいりました。もっと精進したいと思えるようになりました」

「そっか。山取くん、フルートは……音楽は、好き?」

「お陰様で、好きになれそうであります」

「それは良かった。本当に良かった……」


 そんな話をしているうちに、消灯時間になった。見回りが来て、艦内はしんと静まり返る。僕たちも黙って眠りについた。

 月と星が輝く空の下、くたびれた水平たちを乗せて、戦艦は静かに航行していく。

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