第4章 掟破りの愛

第11話

勝利に見合わぬ待遇①



こんやっせんぼこの役立たずがぁ!!」


 佐世保鎮守府庁舎の応接室に呼び出された僕は、入室した途端、待ち構えていた父に雷を落とされた。


「ひえぇ!」

「高蝶家ん方からきた聞いたじゃ! わいお前は、まだといえ結婚せんとねずくろっちょ駄々をこねているのか!」


 父はずんずんとこちらに歩いてきて僕の顔に拳骨を食らわせた。

「ぐあっ」

 痛い。フルート奏者の横っ面を殴るとは何たる非道。こんなことをするために、父はわざわざ鹿児島からここまで来たのか。凄まじい執念だ。


「落ち着いて下さい、森元殿」

 同席してくれている駒留さんが父をとりなす。

「念のため、乱暴は控えていただけませんか。顔を負傷してしまっては、祥三郎くんのお役目に支障が出かねません。……どうぞ、おかけになってください」

「ふん」


 父は鼻息荒く、布張りの長椅子にどすんと座った。僕は机を挟んで反対側の長椅子に恐る恐る腰掛けた。


 まさか帰港して数時間もしないうちに呼び出されたかと思えば、無事を喜ばれるでもねぎらわれるでもなく、こんな目に遭うとは思わなかった。


「おいの決めっしととといえせんか」

「お、お断りします」

ないごてじゃなぜだ

「僕には心に決めた人がベルリンにいます。ですから、資金が貯まり次第、この国から去ります」

そんたそれは許さん」

「父上がお許しにならんでも、僕は自分で……ひえっ」


 父がまた立ち上がり書けたので、僕は咄嗟に腕で頭を庇った。しかし今回は二撃目が来なかったので、蚊の鳴くような声で反駁を続けた。


「……自分で出ていきます……」

くせらし生意気な!」


 父は顔を真っ赤にし、肩をぷるぷる震わせながらも、立ち上がるのを我慢していた。


「そげんこつで、高蝶家の方にどう言うつもりじゃ!」

「僕から晴子さんには既に何度も伝えています」

「おいは許しちょらん! むこ向こうのお家も了承しちょらんぞ!」

「父上もお家も大切ですが……僕にも意見が……」

「ふん、馬鹿らしか。子んといえはお家同士が決むっもんじゃろうが。ちごっ違うか?」

「……そいは……違いもはんが……」

「そいならそげんやからわがままをゆな!」


 父の怒声に僕はすっかり縮こまってしまった。

 難儀なことに、父の言うことは正しい。間違っているのは僕の方だ。僕の方が非常識で、わがままを言っている。とかくお家というのは大事なもので、それが士族なら尚更だ。


 僕が言葉に窮していると、コンコンと戸を叩く音がした。

「ごめんください。面会に参りました、高蝶利永としながでございます」

 僕は頭を抱えたくなった。高蝶家の当主まではるばるここに来ているのか。先に言っておいてくれと父に苦情を申し立てたいところだが、もちろんそんなおっかないことはできはしない。


「……どうぞ、お入りください」

 駒留さんが促す。

「失礼いたします」

 応接間に入ってきたのは、中肉中背の男性と、彼に連れられた晴子さんであった。僕はいよいよ頭が痛くなってきた。


 二人にお茶が供される。しばしの沈黙の後、高蝶家当主が真っ直ぐ僕を見た。


「時に、祥三郎くん」

「は、はい」

「晴子との縁談を断りたいそうだね」

「……はい」

「ベルリンに良いお人がおいでとか」

「はい……」


 淡々と冷静に事実を確認しているように見えるが、この高蝶利永という男は、僕の晴子さんへの手紙を勝手に開封して中身を確認した後に勝手に焼却してしまった、とんでもない人物である。油断ならない。


「祥三郎くん。婚約を無視して勝手に出奔などしたら、君は必ず後悔する。そんなことは、森元家と高蝶家、双方のお家の顔に泥を塗る行為だし、産み育ててくれたご実家の恩を仇で返すことでもある。晴子の幸せを踏みにじることにもなるんだ。君の行きずりの恋に、そうまでするほどの価値があるとは思えない。ここは一つ、頭を冷やして考え直してくれないか。私たちの家同士の将来のことを」

「……」


 僕は目を逸らした。やはり、家制度が浸透した昨今、当主の意向に沿わない行動を子が取ることは許されない。たとえそれがただの慣習によるもので、法的拘束力の無い取り決めだったとしても、普通に考えたら、お家同士のの約束事を子が勝手に無視することはありえない。高蝶家当主の言うことは至極真っ当で、僕に反論の余地はなかった。


 それでも僕は、言わなくてはならない。エデルとの約束のために。晴子さんの将来のために。僕の描く夢のために。


 両家の当主と晴子さんがいる今ここで、きちんと言っておく必要がある。

 ここで踏ん張らずして、いつ踏ん張るというのか。


 僕は腹にぐっと力を入れて、拳をぎゅっと握り直して、覚悟を決めて高蝶家当主の顔を見た。


「僕が何に価値を見出すかは……僕自身が決めることです」


 声を、絞り出した。


「誰が何と仰ろうと、僕は婚姻届に署名できません。僕は、僕の好いたお人と一緒に、ドイツで音楽活動をするという未来に……価値を、感じています。人生を捧げたいと思っています。ですから、晴子さんとは結婚できません。晴子さんには、僕なんぞよりずっと良いお相手がいるはずです」


 言った。言うことができた。このおっかない親たちと晴子さんの前で、僕の意見を。

 心に恐ろしいほど負荷がかかる。呼吸が荒くなり、動悸までしてきた。

 だが僕は、遂にはっきりと言うことに成功したのだ。


「わいは!」

 父がまた激昂して立ち上がる。

「まだそげんこつを! げんのね恥ずかしくないか!」


 そうして拳を振り上げかけた父を止めたのは、細くて可憐な声であった。


「おやめくださいませ、森元様」

 晴子さんは、動揺したり悲しんだりする素振りは微塵も見せずに、僕の父を見上げていた。

「祥三郎様は戦からお戻りになられたばかり。お疲れのはずです。こげん所でお怪我をさせとうありもはん」

「……」


 父は硬直していたが、黙って再度長椅子に腰掛けた。

 何だか僕の方が泣きたい気分だった。

 僕なんぞのことをこんなに思ってくれている、気丈で心優しい乙女の人生を台無しにするなんて、僕はひどい悪党だ。いっそ晴子さんが救いようもない悪女だったら、こんなに心を痛めることもなかっただろうに。

 僕の心中を知ってか知らずか、晴子さんは僕に向き直った。


「祥三郎様。まずは、無事にお戻りになられて何よりです。お喜び申し上げもす」

「それは……ありがとうございます」

「結婚のことは、これから時間をかけて、ゆっくり話し合って参りましょう。祥三郎様が納得なさるまで、私は待っちょりもす」

「……いえ、その」

「遅くとも四ヶ月以内に、全ての決着がついているはずです」


 また晴子さんは不思議な発言をして、父親を見上げた。高蝶家当主も重々しく頷いた。


「四ヶ月後に結納ということで準備をいたしましょう。よろしいですか、森元殿」

「ああ、そいでよか」

「父上、お待ちを」

「わいは黙らんか!」

「……あの……」


 僕は更にきつく拳を握った。

 刹那に思い浮かんだのは、砲撃による激しい爆発の衝撃。それから、天沢さんや琳さんの辿った運命のこと。

 父の叱責や拳は、確かに恐ろしい。だがそんなものは、一瞬で飛んできて全てを滅茶苦茶にしてしまう敵の砲弾に比べたら、あまりにも些細な、取るに足らないものだ。

 僕は、負傷も厭わず敵の砲弾に真正面から立ち向かって僕を守ってくれたエデルの勇気に、報いなければならない。

 そのせいで晴子さんの心を傷つけるという罪を背負うことになろうとも。

 今この瞬間が正念場だ。怯むな。臆するな。前へ進め。


「だっ、黙りません。納得もしません」

 僕は重ねて言った。

「やっせんぼとか、くせらしとか、やからとか、面汚しとか、……何と言われても結構です。僕は晴子さんと一緒にはなれません。仮に結納が済んだとしても、僕は必ずこの国から出ていきます」


 晴子さんの瞳が僅かに揺れた。あまりの申し訳なさに、僕は今にも逃げ出したい気分だった。しかしこれは言わなければならないことだ。言わない方が余程申し訳ないことなのだ。

 ついこの間まで、僕には覚悟が足りなかった。

 今は違う──我ながら驚いてしまうほどに。

 僕は晴子さんに向かって深々と頭を下げた。


「すみません。僕にはあなたを幸せにすることができません。今ならまだ引き返せます。僕のことを諦めてください。お願いします」


 その場に沈黙が降りた。


「……お顔を上げて下さい」

 晴子さんは静かに言った。

「了承していただけますか」

「まずは私の話を聞いてくださいませ」


 僕は面を上げ、晴子さんの顔を見た。晴子さんは泣くでもなく悲しむでもなく、凪いだ声でこう告げた。


「祥三郎様に、そげん言えるほどお好きな方がいらっしゃるのは、分かりもした。お気持ちは分かります。きっとそいは、私と同じですから」

「……」

「先程、四ヶ月と申し上げもした。あと四ヶ月、私に時間を下さいもはんか。そいまでにご納得いただけるよう、最善を尽くします」

「でも……僕は、四ヶ月後になっても、納得しないと思います」

「祥三郎くん。良い加減に観念して、納得したまえ」

「お父様は黙りたもんせ」

「なっ……晴子!?」

 高蝶氏は驚愕した表情になった。

「何を……一体何を言い出すんだ!?」

「お父様は黙りたもんせ、と申しあげもした」

 晴子さんは毅然と繰り返した。高蝶氏は完全に固まってしまった。

「祥三郎様、そいでよかですか?」

 晴子さんがしかと僕を見る。僕は慎重に頷いた。

「はい。いずれにせよ、僕はしばらく日本に留まりますから」

「あいがとさげもす」

 晴子さんは丁寧にお辞儀をした。

 短いやりとりをした後、彼らは応接室を去っていった。


 三人を見送った後、ずっと同席してくれていた駒留さんは気の毒そうに声をかけた。

「君も大変だな。あの勇ましい娘っ子と、今の健気なお嬢さんと……随分と振り回されているようだ」

 僕は急に恥ずかしくなってきた。みっともないところを見られてしまった。

「……はい。あの、この度はお見苦しいところを……すみません」

「構わんよ。私から特に口出しはせんが、気疲れして任務に支障を来さぬように。これから祝賀の催しで忙しくなる。じきに訓練も再開されるだろう」

「はい。お気遣いありがとうございます」


 僕はどんよりと疲弊した心持ちを押し隠すように敬礼をした。

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