勝利に見合わぬ待遇②


 鎮守府庁舎を出た僕は、真っ先に海軍病院に向かった。

「琳さん!」

「……祥か」

「おっ、祥ちゃん」

 藍さんも見舞いに来ていたところらしい。寝台のそばの椅子に座っている。

「用は済んだのか? というか、何か顔がちょっと腫れてないか?」

「えっ嘘……いや、僕のことはいいよ。琳さん、傷の具合はどう?」

「……痛むが、他は問題ない」

「そっか……」

 確かに顔色は悪くないし、表情もいつも通りに見える。尤も琳さんは常日頃から感情が表に出ない男なので、内心どう思っているかまでは計りかねたが。


 病院はまだ負傷者の治療でばたばたとしており、忙しそうだった。琳さんの診察の番が来たので、僕たちは挨拶をして病院を出た。


 軍港の方から、カンカンカンとしきりに金属を叩く音がする。出陣していた艦の修理が早々に始まっているのだ。

 僕たちは数日間だけ、佐世保鎮守府の兵舎で過ごすよう言われていた。そろそろ暗くなる頃合いだったので、僕と藍さんはぶらぶらと兵舎に向かった。


「それで、頬を殴られたのか」

「あ、うん、そう。父上に。はあ、このままじゃフルートが満足に吹けなくなっちゃうよ。良い迷惑だ」

「おう……祥ちゃんが親父さんを悪く言うのは初めて聞いたな」

「だって、せっかく戦争から無事に帰ったと思ったら、縁談のことで親に殴られてアンブシュアが崩されるなんて……あまりにも理不尽だと思わない?」

「怒る理由がいかにもフルートお化けだよな……。そんで、やっぱり縁談の話かあ」

「そう。藍さんの言った通り、はっきり言わせてもらったよ」

「えっ、親父さんの前でか」

「うん。晴子さんにも、晴子さんのお父上にも聞いてもらった。僕の意見を」

「おおー。祥ちゃんもやればできるじゃねえか」

「うん、頑張った」

「本当だよ。見直した」

「へへ」

 僕は照れ笑いをした。


 軍港では、艦の修理が昼夜を問わず続けられた。数日もすると戦艦三笠の簡易的な修理が完了したので、僕たちは再び艦内で寝泊まりするようになった。

 石炭を積み込んだ三笠は、対馬から鎮海湾にかけての海域を航行した。日本海海戦の勝利を祝う儀礼やら、勲章の授与式やらを行うためである。

 軍楽隊は赤い礼装に身を包み、それらの式典を彩った。幸い、頬の腫れは三日ほどで引いたので、僕のフルートは華々しいファンファーレに華を添えたり、重厚な行進曲で旋律を奏でたりした。


 やはり僕は、人を戦いへと駆り立てるための音楽よりは、勝利を寿ことほぐための音楽の方が、どちらかというと性に合っている。戦争に関係ない音楽であれば、尚良しといったところだが。


 半月後、連合艦隊は再び鎮海湾に出向き、軍事演習を開始した。

 日本陸軍はまだロシア軍を相手に戦っている。海上の安全を守るのは海軍の大切な役割だ。


 その間、三笠で生活する僕には、たまに晴子さんからの手紙が届けられた。内容は慎ましく微笑ましい近況報告であった。晴子さんがここぞとばかりに結婚を主張するものと思っていた僕は、拍子抜けしたくらいだ。

 晴子さんを無碍にするのはやはり気が引けるので、僕も簡単な近況を手紙に記して晴子さんに送った。


 そんな調子で一ヶ月が経ち、三笠は本格的な修理のために呉に向かった。生憎かなりの悪天候で航行には苦労したが、やっとしっかり艦を直せるところまできた。

 陸軍は最後の大詰めで、樺太にてロシア軍と戦っているそうだが、海軍の出る幕はもう無い。ロシア海軍はもう無力化されているのだから。


 それから一月半ほど、三笠は呉で修理を続けた。

 この間に、とうとうロシアは降伏した。極東の小国である日本が、北の大国であるロシアに、戦争で勝ったのだ。

 国中がお祭り騒ぎになった。呉軍港でも万歳の声が響き渡り、軍楽隊はまたも祝賀のための演奏で忙しくなった。


 さて三笠は、佐世保に戻って再び連合艦隊の旗艦となり、石炭を積み直して訓練に参加するようになった。


 それからすぐのこと。


 明治三十八年九月五日、日本とロシアの間で講和条約が調印された。

 ポーツマス条約と呼ばれる、アメリカが仲介したその条約では、日本は満州南部の鉄道および領地の租借権や、大韓帝国に対する排他的指導権などを得た。しかし同時に、ロシアは日本に対して賠償金を支払わないことが決まってしまった。


 このことは人々の心と懐事情に甚大な打撃を与えた。

 その日のうちに、東京の日比谷で暴動や放火事件が起きたほどだった。


 これでは、戦争のせいで使い込んでしまったお金の穴埋めがまるでできない。

 だいたい、他ならぬロシアの脅威を退けるために、日本が大金をはたき、日本兵が命を懸けて戦って、見事に打ち勝ってみせたというのに、当のロシアが金を出さないとは何事かと、みんなは怒り狂っていた。

 僕も激しく衝撃を受けたし、仲間たちもそうだった。


「馬鹿にしやがって!」

 藍さんは、佐世保に停泊している三笠の床を不愉快そうにだんだんと踏みしめて、食堂の席にどすんと座った。

「俺らは世界最強とも謳われる艦隊に完全勝利したんだぜ!? こんなに小さな国が、あんな大きくておっかない国からの侵略を防いだんだ!! それに対してビタ一文もねえとはどういう了見だ!? ここまで戦ってもまだ、欧米の奴らは日本を見下してやがるのか!?」

「うーん……。僕も報奨金とかを当てにしていたんだけれど、それよりも……」

 僕は沈鬱な気持ちで、琳さんの顔を思い浮かべた。

「琳さんは戦争で怪我をして廃兵になったのに、軍から今後の生活のための補償金すら充分にもらえないのは……流石に気の毒すぎる……」

「だよなあ! こんなの割に合わねえぜ。ふざけるなってんだ。政府も何を考えてやがるんだよ。せめてみんなが安心して暮らせる分までむしり取るのが、筋ってもんだろうがあぁ!」


 藍さんの不機嫌は収まらない。これ以上ないほど不服そうな表情で、麦飯を口いっぱいに頬張っている。

 僕とて予定が狂ってしまった。早めに海軍を辞めてドイツに渡りたいのに、これではお金が貯まらない。困った。


 二人で不満を言い合って昼休みを過ごしているところへ、また手紙がまとめて届けられた。中には晴子さんからのものもあり、僕は気が滅入るのを感じながら封を開けた。


 また他愛のない話が書かれているのだろうと思ったが、その予想は外れた。


「今すぐにでも海軍を辞めて、船を降りて下さい」


 ──時候の挨拶も何も無しに、唐突にこんなことが書かれている。あからさまに異様な雰囲気だ。僕は首を傾げ、続きを読んだ。


「あと一ヶ月もしないうちに、三笠で良くないことが起こります。危険なので今すぐ逃げて下さい」


 良くないこと? 危険? 逃げる?

 何のことだか分からない。いつもの予知能力なのだろうが、それは僕にとってはあまりに曖昧すぎて、海軍を今すぐ去る理由にはなりえない。たった今、お金が足りないという話をしたばかりなのだ。


 僕は、よく分からないがそれはできない、と返事を書いて送った。


 それから数日後の、夜更けのことだった。

 晴子さんの言った通り、突如として、とんでもないことが起きた。

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