シュテルン音楽大学②

「何でだろう。あの人、実はそんなに僕と一緒にいたくないのかな」


 僕は無事に入試を突破してシュテルン音楽大学に入学し、フルートを専門に教えているオットー・ピンケル教授に師事するようになっていた。

 同じ時期に入学して同じくピンケル教授に教えを乞うている二人の友人と昼食を摂りながら、僕はそんな愚痴を零していた。


「まあ! 素敵な話ね!」


 イルゼ・クラインフェルトは青い目をきらきらと輝かせた。資産家の娘らしく、金髪をきっちりととしたシニョンに結い上げ、落ち着いた水色のドレスを着用した彼女は、所作や話し方や表情まで完璧に整っているのだが、いかんせん思考回路が斜め上を行ってしまうことがある。


「イルゼ、話聞いてた?」

「もちろんよ。ショウ、あなたその方を好いてらっしゃるのね! 仲良くなりたいとお思いなのでしょう? わたくし、応援しますわ!」

「え、あの、えっと」

「だったらお前はもっと強気で行くべきだ。何を毎回すごすごと引き下がっている」

「ヴァシク……。でも、嫌がっているのを無理についていくのは、失礼なんじゃないかな」

「ショウの気持ちがその程度なら、さっさと諦めるんだな。その人とは友人として接するに留めておけ」


 ヴァシクことヴァーツラフ・ベネシュはボヘミアの商家の生まれで、故郷の文化に貢献せんとここで頑張っている。眼鏡の奥の眼光は鋭く、ズバッとした物言いにはどこか突き放した印象も受けるが、根は優しい奴だ。


「んんん」

「うふふ、やっぱりお友達のままでいるのはお嫌なのね? ショウったら分かりやすいわ」

「んんんんん」

「日本の文化がどんなものかは知らんが、ここではそんな弱腰でいては何も為せないぞ。音楽でも色恋でもな」

「い、色恋って……」


 因みにイルゼもヴァシクもピンケル教授も、僕のことを「ショウ」と呼ぶ。確かに「ショウザブロウ」は長いし、発音も不可解に聞こえるらしい。教授が最初に僕を呼ぼうとして「ショ、ツァプ、ウルォ?」と困惑していたため、僕の方から「ショウとお呼びください」と提案しておいた。

 ──そう言えばエデルは、最初から僕の名前を流暢に発音できているな。なぜだろう。急に姿が見えなくなることも含め、不思議なことの多い女性だ。


「……いや、僕はここで誰かと恋仲になるつもりは無いよ。数年後には国に帰ると分かっているんだ、不義理はしたくない」

「そうだわ、どうせならその方にショウのフルートを聞いて頂きましょうよ」

「へっ!?」


 僕は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。


「どういうこと!? やっぱりイルゼ、僕の話を聞いてないね!?」

「わたくし、毎週土曜日の夕方には、自宅で音楽サロンを開いておりますの。今時ちょっと珍しいでしょう? 参加者が集まりづらくて困っていましたのよ。ショウなら大歓迎ですわ! 何か一曲用意してくださる? ピアノ伴奏が御入用なら、きっとヴァシクが弾いてくれますわよ」

「おい、勝手に決めるな。なぜ俺なんだ。イルゼがやれ」

「まあヴァシクったら、何を仰いますの? それでは元も子もなくってよ。よくお考えになって。ショウが仲良くなさりたい女性の方にソロを聞いて頂くのに、女であるわたくしが伴奏だなんて、とんでもないことですわ!」

「ああ、なるほど。それはそうだな」


 ヴァシクが真顔で納得したので、僕はいよいよ慌てた。


「待って待って。勝手に話を進めないでよ。僕はそんなことやるなんて言っていない」

「あら、そうだったかしら? それならば今お言いなさいな」

「えーっと」

「遅い。さっさと決めろ。俺は忙しいんだ。ピアノの練習をするかどうかで、今後の予定も変わってくるだろうが」

「いや、あの」


 二人が当然の如く乗り気なので、僕はだんだん断れなくなってきた。友人の厚意を無駄にするのも申し訳ない。行くだけ行って、後で何とか丸く収めるのが一番良いのかも……。


「……分かったよ、やるよ。曲は今日中に決めるから、二人ともちょっと待っていて欲しい……」

「わたくしは構いませんことよ」

「俺は早い方が助かるんだが?」

「それは重々承知してるよ。でも」

 僕は腕時計を確認した。

「もうピンケル教授の所に行く時間なんだ。悪いけど後でね」

「ちっ……仕方ないな」

「ごめん、ありがとう。それじゃ」

 何やら話が大きくなってしまった、と思いながら、僕は席を立った。


 楽器と楽譜と筆記用具を持って廊下を急ぎ、レッスン室の扉を叩く。

「こんにちは、ピンケル教授。森元です」

「どうぞ、入りなさい」

「失礼します」


 僕は入室し、急いで銀色に光るぴかぴかの楽器を取り出した。因みにフルートは普段、吹き口のついた頭部管、およびキイのついた腹部管と足部管の三つに分解し、ケースに収めて持ち歩いている。これらを手際良く組み立てた僕は、改めてピンケル教授に挨拶をした。


「ご指導よろしくお願いします」

「うん、始めよう」

 ピンケル教授は頷いた。

「まずは一度、Aアー(ラの音)を」


 僕はフルートを横に構えて、Aの音が出るキイを押さえた。息を吸い込み、口の形を整えて、吹き口に狙い澄まして呼気を当てた。

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