シュテルン音楽大学③
「──そこまで」
僕は一旦楽器を下ろし、何やら考え込んでいるピンケル教授の白髪頭を見つめた。
「ふむ……。前回から気になっていたのだが、どうも君の音色は軍楽に特化し過ぎているね。金管楽器と張り合いながら勇ましい音楽を奏でるための、力強さに重点を置いた厳めしい奏法だ。確かに今は軍楽が流行しているし、君が間違っているわけではない。しかし軍楽に相応しい奏法は、フルートの持つ可能性のほんの一部にすぎない。ここではより多彩な表現を身につけて欲しい」
「はい」
「そうだな。一度、モーツァルトのフルートコンチェルト第二番の第一楽章を吹いてみて欲しいのだが。知っているかい」
「ええ、日本の音楽学校で吹きました」
「よろしい。暗譜は?」
「できています」
「では早速やってみなさい」
僕は息を吸い込み、最初のソロパートを一通り演奏した。休符を挟んで続きを吹こうとする前に、ピンケル教授は口を開いた。
「そこまで。やはり技術力はきちんと備わっているね。特に素速い跳躍のフレーズはよく練習してあるようだ。だが……」
彼はちょっと可笑しそうに言葉を続けた。
「その鬼気迫った様子と如何にも軍人らしい固さは、あまりモーツァルト的ではないな。彼はあれでも宮廷音楽家という一面を持っていたんだ。優雅で軽やかで華やかで輝かしくなければね。特に
僕も釣られてへにゃっと笑った。
「恥ずかしながら、あそこはもう精一杯で。
フルートはその華奢な外見にそぐわず、吹奏に必要な息の消費量が管楽器の中でも一、二を争うくらいに激しいと言われる楽器だ。そのため息継ぎ無しに音を長く伸ばすことには困難が伴う。
「肺活量の問題でしょうか」
「それも大切だが、その限りではない。例えばイルゼはこの曲が大の得意だよ。この冒頭の伸ばしも最後まできっちりと余裕のある演奏をするし、
「えっ」
それは、凄い。女性ならばどうしたって男性より身体能力が劣ってしまうのに。
「なぜだか分かるかい」
ふむ、と僕は考えた。東洋人とはいえ、仮にも男性で軍人である僕が、肺活量や体力でイルゼに負けているとは考えにくい。恐らく彼女は、その不利な条件を克服し得るような工夫をしているのだ。
「……息の量を多くすることは、必ずしも響きを豊かにすることには繋がらないからですね。今の僕ではまだアンブシュア(口の形)が未熟ということでしょうか」
僕が言うと、ピンケル教授は大きく頷いた。
「その通り。アンブシュアを改善すればほとんどの問題は解決する、というのが私の持論だよ。もちろん君は、そんじょそこらのフルート吹きと比べたら格段に優れたアンブシュアを習得できているが、まだまだ口周りの筋肉には改善の余地がある」
「はい」
「『点』を意識することだ」
ピンケル教授は人差し指を立てた。
「フルートの吹き口には、最も良い音が鳴る点が、必ず存在する。他の場所にずれたり広がったりすること無く、正確にその点を当てられるよう、息の細さと角度と速度をミクロン単位で調整すること。今の君は息の量を増やし息を太くすることで『打率』を上げている状態だが、それは悪手だ。息がもったいないし、音色も濁る。……アンブシュアを直しながら、モーツァルトらしさを研究することだ」
「分かりました」
フルートの管楽器としての最大の特徴の一つが、吹き口である。他の木管楽器には一枚ないし二枚の、リードという薄い木の部品があり、息を吹き込んでこれを振動させることで音を出す。金管楽器にはなべてマウスピースという部品があり、唇を震わせてこれに振動を伝えることで音を出す。
しかしフルートにはそれらに相当する部品が存在しない。エア・リードとか、ノン・リードとか言われている。ではどうするのかというと、ただ吹き口の丸い穴の縁に真っ直ぐ息を当てることで、息を二方向に分散させ、空気の流れに変化を与える。ほとんど何物をも介さずに空気を動かすぶん、音を出すという最も基礎的な段階からアンブシュアへの依存度が非常に高いのが、フルートの特徴だ。アンブシュアを重視するピンケル教授の方針は、理に適っている。
殊に僕は、波に揺れる船上で演奏することも度々ある。最低限、陸の上でのアンブシュアを崩さずに確立させることは必須事項だ。
「さて、一度、小さな音で綺麗な音色を出してみなさい。
「はい」
僕は楽器を構え、点というものを探りつつ口周りの筋肉を調節して、なるべく小さくて綺麗な音色を出してみた。うんうん、とピンケル教授は頷く。
「今はそれで合格としよう。ただ、軍楽を専門とするフルート奏者は、繊細な
強音のために弱音を? 僕は首を傾げたが、一拍置いて納得した。
「確かに、息を細くしなければ音は小さくなりませんから……弱音の演奏時は、点への打率が大幅に下がりますね。逆に、綺麗な弱音を出せた時は、きちんと点に当てられていることを意味しますから、その時の感覚を体に覚え込ませればアンブシュアが改善する。それは強音の質の向上にも寄与する……」
そうそう、とまた教授は何度か頷いた。
そんな調子でレッスンは続き、僕は次回までの課題として、弱音の基礎練習と、モーツァルトの二番の復習を与えられた。
「ある程度まで仕上がったら、ショウにはカデンツァ(ソリストによる伴奏無しの即興部分)を考案して貰うよ」
「あ、僕が作曲するということですか?」
「そうとも」
有名なコンチェルトには、多くの演奏家が作った様々なカデンツァが存在する。ソリストはそれらを借用することも多いが、今回は僕が書くというわけだ。確かに僕はフルート科の他に、軍楽科と作曲科も受講しているし、作ってみるのも一興かもしれない。
「さあ、時間だ。今回はここまで」
「はい。ありがとうございました」
僕は深々とお辞儀をして、楽器を分解してケースに仕舞い、レッスン室を辞した。その足で、個人練習のために予約しておいた部屋に向かう。
──とりあえず、イルゼのサロンにモーツァルトを持っていくのはやめよう。今の段階ではイルゼに聞かせられない。
それに、サロンにはもっと軽やかで短い曲の方が相応しかろう。いっそ、自分で書いた曲の中から何か一つ選ぼうか。どれにしよう。
ああ、忙しくなりそうだ。
だが、楽しい。
ドイツでは今までよりうんとのびのびと練習ができるし、何もかもが刺激的だし、勉強になることがたくさんある。僕にとっては楽園のような環境だった。
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