第2章 強力な加護

第5話

いざ荒れ狂う旅順港①


 出征を間近に控えた二月二日、佐世保鎮守府の港に停泊している戦艦三笠の艦内にて、僕は練習号と呼ばれる定例の合奏練習に参加することとなった。この時までに僕は、不在の間に新しく配られた軍楽の楽譜を急いでさらって、全て暗譜しておいた。


 合奏練習場所に暖炉などはなく、室内は冷え切っていた。僕は身震いした。早く楽器を吹いて体を温めたい。

 温めるべきは体だけではない。金属製のフルートは寒いとキンキンに冷たくなって、普段と比べて音程が著しく下がるので、あらかじめよく息を吹き込んで温めておく。その後、頭部管の位置を微調整する。これも音程を合わせるための基本的な準備だ。


 時間になり、全員が整列したところで、クラリネット担当の軍楽長、駒留吾郎ごろうが僕をみんなの前に呼び出した。

「先日、森元祥三郎軍楽師がドイツより帰国した。よって本日より森元軍楽師を加えて演習を行う」

 僕は一歩前に出て敬礼し、声を張り上げた。

「よろしくお願いします!」

 仲間たちがビシッと敬礼を返す。

「よろしくお願いします!」

 駒留軍楽長は一つ頷いた。

「よし。配置に着け」

「はい!」


 僕と駒留軍楽長が所定の位置につく。立ったまま、練習が始まった。

 いざ演奏となると、全員の背筋はぴんと伸び、楽器の構えは角度までぴったり揃えて、決められた配置通りに寸分の狂いもなく整列する。僕は四年ぶりの整列にやや緊張していたが、叩き込まれた感覚を体はちゃんと覚えているようで、難なくみんなに合わせることができた。


 軍楽においては、演奏法は規律正しく勇壮であることが肝要である。コンチェルトなどは、音に乗って優雅に体を揺らすこともよくあるが、ここでは直立不動。音色も固く、勢いよく。トランペットのファンファーレにも聞き劣りしないような力強さで。


 「君が代」「軍艦行進曲」「如何に狂風」「勇敢なる水兵」など、一通りの曲練習をした軍楽隊は、僕がベルリンで書いて持ち帰った新譜の初合わせを、三曲行なった。

 題名は「蒼海行進曲」「高波を越え」「輝きの航路」。

 それぞれ通しで演奏した後、駒留さんの指示で細かい所を詰めていく。僕も作曲者として、僭越ながら色々な指摘をさせてもらう。

 ぴしりと息の合った演奏ができるようになった辺りで、練習終了の刻限となった。駒留さんはみんなに向けてこう言った。


「ご苦労であった。これにて今日の訓練を終了とする!」

「了解!」

 めいめいが楽器を下ろし、少しばかり肩の力を抜く。隣でピッコロを吹いていた天沢さんが、さっそく僕に話しかけた。

「凄いね、森元くん。音色が前とは全然違う。前ももちろん上手かったけど、今は段違いだ。曲もみんな素晴らしかった。感動したよ」


 手放しで賞賛されて、僕は恐縮してしまった。天沢さんは普段から、皮肉も揶揄もお世辞も口にしない。良いと思ったことは直接言葉にして褒めてくれる人だ。だからこそこの心からの賛美は、僕のように卑屈な人間にとっては畏れ多いように感じられてしまう。


「ありがとうございます……。技術も作曲も、ベルリンに行かせてもらったお礼のつもりで、一生懸命学びました。成果が出せたのはみなさんのお陰です」

「いやいや、森元くんの努力の賜物でしょ。謙遜しないでいいんだよ。誇って良いことだと思う」

「恐れ入ります」

「おいおいおーい」

 藍さんが小太鼓を首からぶら下げたまま、僕の元にやってきた。

「事前に総譜を見ちゃあいたが、やっぱりすっげえ良い曲じゃねえか。フルートもそうだが、作曲の腕も上げてきたな!」

「ありがとう」

 その様子を見た琳さんもトロンボーンを片手に携えてやってきたかと思うと、立ち止まって「……良かった」とだけ言って退室して行った。僕はその後ろ姿にも「ありがとう」と声をかけた。


「祥ちゃんらしい曲だよな」

 藍さんはまだお喋りを続ける。

「俺らがやる曲は大和魂を讃えるような勇ましいのが多いけど、祥ちゃんのは少し違う。基本は押さえつつ、軽妙で楽しい感じに仕上がってる。それぞれの楽器の個性が活きてるし、如何にも芸術をやってるって感じがした!」

 僕は照れ笑いをした。

「うん。みんなを勇気づけたり励ましたりするのは、勇壮な曲ばかりには限らないと思って」

「なるほどなあ。俺も祥ちゃんの曲に合うように、叩き方を研究しねえとな」

「藍さんは小太鼓にかけては本当に厳格だよね」

「フルートお化けにだけは言われたくねえな」

「そう? ……あ、駒留さんが呼んでるみたいだ。行くね」

「おう、行ってこい」


 その後、駒留さんとあれやこれやと音楽の話をした僕は、楽器を拭いて磨いて片付けを済ませ、日々の任務に舞い戻った。


 水兵たちには、戦艦上にて毎日決められた規則と作業がある。

 冬の朝は午前七時に朝食。食休みを挟んで日課手入れ──即ち、中甲板と下甲板の拭き掃除と、小銃と大砲の手入れ。

 次いで、軍艦旗の掲揚。これは軍楽隊の演奏付きで行われる。

 その後、九時十五分より各々の訓練や仕事に従事して、掃除をして、十一時四十五分に昼食。食休みと仕事。また掃除、午後三時四十五分に夕食。一時間後に甲板掃除、軍事点検。武器の状態を確認して上官に報告をする。

 それから別科教育。救急法、伝令と報告、信号など。戦闘要員の者は体操や銃剣術や武術の訓練。軍楽隊が練習をするのもこの時間帯だ。

 日没を迎えたら軍艦旗の降下、やはりこの時も軍楽隊の出番である。明かりを付けて、釣床を釣る。その後は自由時間。

 午後七時半に巡検、不備がないかどうかの確認。午後十時に消灯し、一日が終わる。


 そのように日課を繰り返して、数日が経過した。二月四日には、日本がロシアと戦争することが正式に決定となった。


 翌日、出発を間近に控え、戦艦にはありったけの石炭が積まれた。

 地上から直接積み込みを行えるのはこれで最後だ。これから先、どれほど長く航海をするのか、予測がつかない。石炭が足りなくなったら、本国からわざわざ運ばないと補充ができない。よって今回の積み作業には一際気合いが入っていた。

 みんな防塵のため布で口を覆い、真っ黒になって重労働をしている。彼らを鼓舞するのは、軍楽隊の重要な役目だった。少し離れた所で、僕たちは休みなく演奏を続けた。

 演奏にも体力は必要なので、僕はすっかりくたびれてしまった。しかし石炭を積む方がずっと大変な作業なので、口には出さないでおいた。


 そして来たる二月六日、日本政府がロシアとの国交を断絶したのと同時に、僕たちは出陣の時を迎えた。

 いよいよ戦場に向かうのだ。


 軍楽隊が、華々しく船出の時を演出する。

 特別な日なので、僕たちは軍装ではなく礼装を身につけていた。赤い上着に黒い詰襟、七つの金色のボタン、ズボンは濃紺で左右に赤い線が走っている。帽子も赤で、ふさふさした白い毛の飾りが付いている。それから、金色の紐でできた肩章、黒いカフス、白手袋、そして短剣。


 輝き渡る音楽に乗せて、人々は旗を振り、水兵たちは敬礼する。抜錨。号令。進水。

 戦艦三笠が率いる連合艦隊が、海へと乗り出す。


 目指すは、遼東半島の先端、旅順港。


 ――いかなる戦いにおいても、補給路の確保は重要な課題だ。


 今回の戦いに臨むに当たって、シベリア鉄道を使って陸路で悠々と物資を補給ができるロシアとは違い、日本が戦場に物資を届けるには海路を使うより他ない。

 だが今の状況では、ロシアの艦隊が邪魔で、日本の船が輸送を行うには常に危険が伴う。


 何をおいても、まずは制海権。

 ゆくゆくは日本海全域を支配下に置かねば安心できないが、喫緊の課題は、ロシア艦隊の集結している旅順港を制覇することである。


 ふねはすっかり陸を離れて、軍楽隊の演奏は終わった。

 僕はフルートを布で磨き、丁寧にケースに入れて蓋をした。

 ……とうとう始まってしまった。ここまで来たら、勝つまでは日本には戻れない。

 少し、怖かった。

 だが、僕たちは必ず勝つ。負けることは許されていない。

 士気高揚は僕らの務め。どんなに立派な軍艦を持っていても、乗組員の士気が低ければ、勝てる戦も勝てなくなる。だから僕たちこそ、誰よりも士気を高く持たねばならない。


 僕は大きく深呼吸をしてから、軍装に着替えるべく、上着の釦を外していった。

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