いざ荒れ狂う旅順港②


 艦隊は順調に航海を進めた。


 出航の二日後、正式に開戦と相成った二月八日、日本陸軍が朝鮮半島の仁川じんせんに上陸したのと同じ日の夜遅く。


 日本海軍は、仁川より更に奥まった場所の旅順港口で眠るロシア艦隊に、駆逐艦を複数差し向けた。

 月は隠れて辺りは暗く、しかも天気は大時化おおしけであった。しかし運はこちらに味方した。

 駆逐艦の魚雷攻撃により、敵の戦艦や巡洋艦がいくつか、中破または大破した。一方こちら側に損傷はなく、死傷者も出なかった。


 この成果を見て海軍は、敵の艦隊と要塞砲台を撃滅すべく、戦艦三笠を含む主力艦隊全てを旅順港に投入することを決定。九日の正午頃に攻撃を開始する。


 僕の乗っているふねが、いよいよ実戦に乗り出す。言うなればこれが僕の初陣だ。怖くて、手先が小刻みに震えてしまう。


 先日に寝込みを襲われたロシア軍は、警戒を強めていた。艦隊および山の上に設置された砲台から、今度は容赦なく弾が飛んでくる。

 すぐに、三笠は右舷を損傷した。

 耳をろうする爆音と激しい振動があった。その凄まじさには、心胆寒からしめるものがあった。救護係として待機していた僕は、思わずよろけた。

「おっ……とと」

「……大丈夫か」

 爆音と風音に負けないように、琳さんの声はいつもより少し大きめだった。

「うん、ありがとう」

「そうか。……恐らく、あちらの方で艦が被弾した」

「そうだね。怪我人が出たかも」

「行くぞ」


 僕と琳さんは担架を持って駆け出した。案の定、砲弾の破片に当たった人がいる。肩の辺りから出血しており、そこを中心に白い軍服が真っ赤に染め上げられている。

「わ、わわ、大変、ど、どうしよう」

「……落ち着け、祥。助けるぞ」

「うんっ……!」

 担架を怪我人の隣に置く。藍さんや天沢さんや、他の救護兵も駆けつけて、急いで簡易的な止血を行い、怪我人を担架に乗せてくれた。僕は担架の後ろ側を持って、揺れる艦上を走った。

 訓練通りに、と念じる。いつも通りやれば大丈夫。この人の命はきっと助かる。助けるために、僕たちは訓練を積んできた。


 病室には、患者をきちんと寝かせるために、釣床ではなくベッドが用意されている。後の処置を軍医に引き継いで、僕たちは持ち場に戻った。また誰かが負傷した時に備えて、すぐ動くことができるように。


 午後二時を回った頃、双方の艦隊が退き、戦闘は終了した。

 今回は殊に、ロシア側が艦隊および砲台から射撃を好きなだけ浴びせられるという状況で、日本側は不利にならざるを得ず、主力艦のほとんどが損傷を受けていた。

 このことに味をしめたロシアの艦隊は、旅順港から出てこなくなってしまった。こうなると、日本の艦隊が攻撃を加えて作戦を成功させるのは、不可能に近い。


 日本海軍は方針を変更した。

 日本が制海権を得られないならば、ロシアが旅順港を使用できない状況を作り出せば良い。閉じ込めて、動きを封じる。

 旅順港は出入り口の幅が三百メートルにも満たない。この狭い場所に何隻か、石を乗せた古い船などを沈めて、通行不能とするのだ。

 名付けて、旅順口閉塞作戦。


 作戦を実行に移すまでの二週間、三笠は応急的に修繕が行われた。その間、軍楽隊には、兵たちの士気を維持したり、娯楽を提供したりすることが求められた。

 海上でも日課の任務が課されるが、陸に上がれない分、水兵たちは気鬱になりがちだ。そういう環境において、音楽というものは侮り難い力を発揮する。


 僕が書いた曲は、主にこういう時の娯楽用として演奏された。「蒼海行進曲」を聞いた兵たちは、いくらか緊張を和らげ、うきうきと楽しそうな表情になった。

 他人に楽しんだり喜んだりしてもらえるのは、作曲家冥利に尽きるというものだ。もちろん演奏者としても非常に嬉しい。


「今日も疲れたー!」

 藍さんはそうこぼしながら、麦飯を掻き込んだ。

「演奏は俺たちにも気晴らしになって良いけど、体力も気力も持って行かれるよなー」

「……楽しかった」

 琳さんは缶詰の肉を飲み込んで、それだけ言った。

「えー。ぶっ続けで演奏したけど、琳さん唇は大丈夫かよ?」

「……問題ない」

「そっかー」


 金管楽器は常に唇を震わせないと音が鳴らせないため、本気を出して長時間吹奏すると唇が非常に疲れるらしい。しかし琳さんのトロンボーンの音色はずっと変わらず朗々としたものであった。


「あんまりお喋りしてると怒られちゃうよ」

 天沢さんが控えめに注意した。藍さんは「そうですね」と改まった態度で姿勢を正した。

「さっさと食いましょう。話は休み時間に入ってからだ」

「うん」

 僕はそう言って漬物を箸でつまんだ。


 さて、旅順口閉塞作戦を実行に移す日が来た。戦艦三笠は、沈没用の船を援護すべく出撃した。

 船を狙った位置に沈めるのを邪魔しようとするロシア軍に対し、こちらからも攻撃を繰り返す。それに伴い、僕は救護係として艦上を駆けずり回った。


 結論から言うと、作戦は三度に渡って行われ、その全てが失敗に終わった。ロシアの艦隊と砲台からの激しい攻撃があったため、船を意図した場所に沈めることができなかったのである。ばらばらの場所に沈んだ船の帆柱が、あちこちに突き出ている海面は、依然として普通に航行可能なままであった。


 予定通りとは行かなかった今回の作戦であるが、戦果としては、ロシアの艦隊を引き続き狭い港に留めさせたことが挙げられる。

 日本からの攻撃を避けるために、いよいよロシア側は港に引きこもることを余儀なくされた。港を物理的に閉塞するという目標は達成できなかったものの、実質的にはロシアの艦隊は動けなくなったのだった。


 三度目の作戦が終了する頃には、月日が経っており、五月になっていた。

 しばらく、海の上では睨み合いが続く。

 水兵たちは海上の艦の中で、きびきびと日課をこなす。


 事態が動いたのは、八月に入ってからのことだった。その間、軍楽隊は手を替え品を替え、みんなが鬱憤を溜め込まないように様々な演奏を披露した。

 僕の書いた「高波を越え」はみんなの心を奮い立たせ、どんな困難にもめげずに意気揚々と立ち向かう勇気を与えた。「輝きの航路」はみんなの心を明るくさせ、鬱屈した気分を晴れやかなものへと塗り替えた。

 演奏を聞いた水平たちが楽しそうな表情をしているのを見ると、やはり音楽は良いものだなと再認識できる。ここが戦場でなかったら、言うこと無しなのだけれど。


 そして八月十日、旅順にいたロシアの艦隊が、ウラジオストクに向けて出航したとの報告が入った。

 いよいよ、敵がしびれを切らして、艦隊を動かした。待ち侘びた時が来たのだ。

 東郷平八郎中将はすぐさま、ロシアの艦隊を撃滅して制海権を得るべく、全戦隊を黄海に配備した。


 黄海とは中国大陸と朝鮮半島に囲まれた、比較的小さな海域の名である。旅順の艦隊がウラジオストクに向かうには、ここを通らざるを得ない。


 その日のうちに日本の艦隊は、黒煙を上げて航行するロシアの艦隊を発見した。トランペット奏者が合図の音を鳴らす。艦が大砲の射程距離まで距離を詰める。砲撃の応酬が始まった。


 黄海海戦の開幕である。


 僕はエデルにもらった金貨をポケットに仕舞い込んで、任務に当たった。

 容赦なく飛んでくる砲弾。三笠に命中した時の激震と爆発音は凄惨を極める。いつあれが自分に当たるか分かったものではない。僕たちは膝の震えをぐっと抑えて、勇気を奮い立たせて、人命救助に勤しむ。


 僕が上甲板を走っている所に、その時は来た。

 ずどーん、と僕の間近で激しい爆音がした。目を瞑る暇すら無かった。

 爆炎が上がり、砲弾が木っ端微塵に吹き飛んだ。その様子を僕ははっきりと見ていた。


 砲弾は間違いなく、艦に着弾していなかった。爆発は、艦から少し離れた空中で起きていた。砲弾どころか、弾の欠片が飛び散ってくることすら無かった。


 そして僕の目の前には、いつの間にやら、銀色の甲冑で全身を包んだ、背の高い女性が立っていた。

 彼女は、身の丈ほどもある頑丈そうな槍を堂々と前に突き出していた。その足元には鋼鉄の破片のようなものが散らばっている。


 ──まさか、槍で砲弾を粉砕した上に、欠片が飛び散るのを全て弾き返したのか?


 槍をくるりと回転させて持ち直した彼女は、にやりと不敵な笑みを浮かべて僕を振り返った。


 その顔立ちを、強風になびく赤い癖っ毛を、僕が見紛うわけがなかった。


「エデル!?」


 僕は驚愕のあまり大声を出していた。


「どうしてここへ!?」

「言っただろう。加護を授ける、と」


 エデルは軽く頭を振って赤毛を払いのけ、槍の石突きをドンと床に打ちつけ、ガチャンッと鎧を鳴らしてこちらを向いた。


「祥三郎。君が生きてベルリンに帰るという約束──私が必ず守らせる」

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