第6話
神の世界から来た者①
「ワルキューレなんだよね、私」
イルゼ・クラインフェルト主催の音楽サロンが、お開きになった後のこと。頑なに家まで送り届けるのを断る理由を尋ねた僕に、エデルはこっそりとそう打ち明けた。
「はい?」
僕は反応に困って首を傾げた。
「ワルキューレって、ゲルマン神話にある、あの半分神様の……?」
「そうだ」
「えーと……それは、どういった冗談ですか?」
「いや、冗談ではない。と言っても信じないだろうから、証拠を見せよう」
エデルの姿が一瞬にして僕の目の前から掻き消えた。突然の珍事に僕があんぐり口を開けていると、少し遠くの方、クラインフェルト家の屋敷の陰から、エデルの声がした。
「おーい、祥三郎。こっちだ」
「えっ!?」
棒立ちになった僕の前に、エデルはまたも瞬間移動で現れた。
「この通り、ドイツ国内なら自由に移動可能だ。だから夜道を行くのに危険は無く、送迎は不要なんだよ。分かってもらえたかな?」
僕はまだしばらく呆然としていた。神話に登場する存在が実際に目の前に現れたことへの驚きは、並々ならぬものであった。だが、それよりももっと気になることがある。
僕は恐る恐る口を開いた。
「どうして、そのことを僕に?」
「それはだね」
エデルは少し僕から目線を逸らして、咳払いをした。
「祥三郎、君がわざわざ私のために、素敵な曲を披露してくれたから、かな。先程の演奏を聴いて、私はとても感動した。そのお礼だと思ってくれないか」
「そう、ですか……」
「もちろん、このことは他言無用だよ。私は、祥三郎だから教えたんだ」
僕は少し頬が熱くなるのを感じた。
「承知しました。他の人には絶対に言いません」
「ありがとう。……あ、そうだ」
エデルは懐中時計を見た。
「まだビアバーが開いている時間だ。少し飲みながら、二人で話でもしないか?」
僕は、心臓が跳ね上がるような気分がした。まさかエデルの方から誘ってもらえるとは。
「そっ、それは、お誘いありがとうございます。是非そうしましょう」
「ビアホールという手もあるが、ビアバーでも構わないか?」
「どちらでも、お好きな方へ」
「よし、では私の腕に掴まってくれ」
エデルは無造作に、飾り気の少ない黒いドレスを纏った腕を僕の方に突き出した。
「掴まる? 良いのですか?」
「その方が手間が省ける。遠慮せずとも良い」
「では、失礼します……」
僕がそっとエデルの腕に右手を添えた瞬間、シュンッと謎の音がして視界が真っ暗になったかと思うと、僕たちはどこかの裏の路地に到着していた。
「ひょわあ!」
僕は胃の辺りがヒュッと妙な風に縮んだような感覚がした。エデルは僕にニッと笑いかけた。
「便利だろう? ヴォータン様が特別に下さったお力なんだ」
「ヴォータン様……ゲルマン神話で一番偉い神様、ですよね」
「そうだ。私たちワルキューレは、戦が起きたらすぐに戦場に駆けつけられるように、瞬間移動の能力を授かっている。ヴォータン様からは、戦場以外へ無闇に瞬間移動するのは禁じられていて、この言いつけを破れば、最悪の場合、ワルキューレは神性を失ってしまう。だが今回は特別に、ドイツ国内ならばどこへでも自由に行って良いとの許可も頂いているんだよ。よって、このくらいは造作もない」
「へえ、凄いですね。びっくりしました……」
それと同時に、色々と納得が行った。僕がいつもエデルを見失ってしまうのは、こういうわけだったのか。その場からいなくなっていたのだから、見つかるはずがなかったのだ。
「ふふん」
エデルは得意げに笑って、ビアバーの入り口まで歩いて行った。
「失礼するよ」
戸を開けると、カランカランと小さな鐘が鳴った。
店内には他に客はなく、ビアバーの店主らしき人物がグラスを磨いているだけだった。
「ここは知る人ぞ知る幻のバーでね。〈戦士の休息所〉と呼ばれる」
エデルは結い髪を解きながら、そう説明してくれた。
「店主はアスガルトの関係者だ。ヴォータン様が支援金を下賜しておられるから、私たちは無料でいくらでも飲み食いできる」
「へえ」
店はあまり大きくない。煤けたランプが薄暗い空間を仄かに照らしている。古びたビール樽や不思議な置物などがあって、独特の雰囲気を感じられた。
木でできた長机の向こうでは、白い髭をたくわえた気難しそうなおじさんが、煙草を吹かしている。その後ろには、ビールの他にも、ワインやスピリッツや蜂蜜酒などのボトルが置かれていた。
「久々だな、
エデルがおじさんに声をかけながら、丸椅子に座った。僕もエデルに倣い、隣の椅子に腰掛ける。
「今日は連れがいるんだ。とりあえずビールを二杯もらえるか? どちらもピルスナーで頼む」
「はいよ」
すぐに僕たちの前に、ビールがなみなみと注がれた大きなジョッキが置かれた。
エデルはぐいぐいとビールを飲みつつ、こんなことを打ち明けてくれる。
「私はアスガルトという、神々の世界に住んでいた。ミットガルト、つまり人間の世界のどこかで戦争が起きたら、そこに降り立ち、運命に従って戦い、戦死者を選んでその魂をヴァルハラに連れて行くのが役目だった」
「はい」
「だがワルキューレには他にも、ヴァルハラでアインヘリャルを──連れてきた兵士たちを、もてなす役割がある。宴会で酒を注いだり、余興で盛り上げたりね」
「あ、そうなんですね」
それは知らなかった。僕は己の勉強不足を恥じた。今度、本屋に出かけて神話の本を見繕ってこなければ。
「ところが私は戦いばかりが得意でね。人を喜ばせるということはからっきしだ。私がまだワルキューレの中では若手なせいもあるだろうが、それにしてもなかなかうまくいかない。そこで、ヴォータン様から修行を言い渡された。ミットガルトに降りて、百年ほど人間の文化を勉強して来いとね」
「百年……人間の文化を」
「そう。それでアインヘリャルたちをきちんともてなせるようになれ、と」
エデルはビールを飲み干し、フォークでヴルストを突き刺して豪快に齧った。空のジョッキは回収され、新たにビールが入ったジョッキがドンと置かれる。エデルは二杯目にも躊躇いなく口を付けた。
「だから祥三郎にはとても助けられている。人間と仲を深めるのは私にとって容易ではない課題だが、なぜか祥三郎は私に親切にしてくれるからね」
「そんな」
僕は首を振った。
「親切にしてもらっているのは僕の方です」
「そうか? それならば尚更、私たちは仲良くなれそうだな」
「それは良かったです。その、僕も……」
僕は口ごもった。
「うん? 何だ?」
「……僕も、あなたと仲良くなりたいので」
「ほう、それは良いことを聞いた」
エデルは上機嫌な様子で言った。
「ではまず、その堅苦しい喋り方はやめてもらおうか。遠慮などせず、普通に話してもらえないだろうか」
「あ、分かりました……じゃなくて、分かったよ、エデル。それじゃあエデルは、今後とも僕と会ってくれるの?」
「もちろんだ。演奏会でもサロンでもビアバーでも散歩でも、何でも気軽に呼んでくれ」
僕は心底安心すると同時に、俄然わくわくしてきた。
「良かった、嬉しい。それじゃあお近づきの印に、次にサロンに出席する時は、エデルのために新しい曲を書いて持ってこようかな」
「おお、それは楽しみだ。文化の勉強にもなるし、もっと祥三郎と仲良くなれる。素敵な案じゃないか」
その後、他愛のないお喋りをしてからビアバーを出て帰途に着いた僕は、すっかりどきどきしてしまっていて、なかなか眠る気になれなかった。
エデルは僕のことが嫌いなわけではなくて、むしろ好いてくれているのだ。特別に、大切な秘密を教えてくれるくらいに。
サロンのお陰で、思った以上にエデルとの関係が進展した。機会をくれたイルゼと、ピアノ伴奏をしてくれたヴァシクには、深く感謝せねばなるまい。
いずれ日本に帰ることが決まっているからと、慎重になっていた僕だけれど、そんな心構えを吹き飛ばしてしまうくらい、エデルと過ごす時間は楽しいものだった。エデルといると、先行きへの不安が徐々に融けてなくなって、ただ幸せな気持ちに包まれる。
こんなことは初めてだった。
僕は確かに、エデルに強く惹かれていた。
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