神の世界から来た者②
「カデンツァは良い仕上がりだね」
月曜日の朝、大学の一室にて。僕が一通り演奏を終えると、ピンケル教授はそう言った。
「モーツァルトのテーマを程よく取り入れつつ、ショウの独自の感性も織り交ぜられている。難易度もそれなりに高くて技巧的だから、聞きごたえのある曲になっていると言えるだろう」
「ありがとうございます」
僕は軽く頭を下げた。
「それじゃあ今後のレッスンでは、二楽章と三楽章、およびそれぞれのカデンツァをさらった後、通しで演奏してもらう。それが終わったら、新しい曲に取り組んでもらいたい」
「分かりました。新しい曲は何をやるのですか?」
「今のところ、ライネッケのソナタ『ウンディーネ』をやってもらおうと思っているよ」
「ライネッケ……。名前は存じていますが、演奏したことはありませんね」
ふむ、とピンケル教授は頷いた。
「では、新たなる挑戦ということになるね。とても良いことだ。これは君がまた一歩前進するための糧となるだろう。……ともあれ今はモーツァルトに集中だ。それが終わったらライネッケをやる、ということだけ頭の片隅に置いておきなさい」
「はい。ライネッケの楽譜はどう調達すれば良いですか?」
「大学のものを借りられるようになっている。そこから探しなさい」
「あ、ありがとうございます。了解しました」
「では、レッスンに入ろう。
今日もピンケル教授にしごかれてくたくたになった僕は、空きっ腹を抱えて食堂に向かった。
いつもの場所には、既にイルゼとヴァシクが座っていた。例によって共に昼食を食べることになる。
「ショウ、先日はわたくしのサロンに来てくださってありがとう!」
イルゼは開口一番にそう言った。
「お二人のお陰で大変有意義な音楽会ができましたわ。ショウの曲は他の方にもとても好評でしたのよ。ショウのフルートも、ヴァシクのピアノも、みなさん褒めてらしたわ」
「それは良かった」
僕はイルゼに笑いかけた。
「ふん。当然だな」
ヴァシクはそう
「それで」
イルゼは少し身を乗り出した。
「ショウ、あの後エデルとは何か進展はありまして?」
「あー……、それは……」
僕は言葉を濁そうとしたが、秘密にするのは不誠実だと思い直し、素直に話すことにした。
「あった、と思う」
「まあ! 素敵!」
イルゼは胸の前で手を合わせて微笑んだ。
「一体何があったんですの?」
「それが、その」
僕は気恥ずかしくて、また言葉に詰まった。
「おい、はっきり喋れ」
ヴァシクからさっそく指摘が入る。
「それでは聞こえんだろうが。モゴモゴ言うのはお前の悪い癖だ」
「ご、ごめん」
僕は居住まいを正して、正直に話す覚悟を決めた。
「あの後、エデルと一緒にビアバーに行って、ビールを飲みながらお喋りをしたよ。それで、またいつでも演奏会やビアバーや散歩なんかに呼んで欲しいって、言ってもらえた」
「あらー! 大躍進ね!」
イルゼが本当に嬉しそうに笑う。
「エデルとショウをサロンにお招きして良かったわ!」
「うん。イルゼもヴァシクも、僕のために色々と準備してくれて、ありがとう」
イルゼはウフフと上品に笑い、ヴァシクはまた「ふん」と言いながらパンをちぎった。
「それで、近々エデルとどこかへ行く予定は立ててありますの?」
「ああ……うん、あるよ。今度はベルリン国立歌劇場にバレエを観に行こうって話になった。僕はまだバレエを見たことがないし、エデルも見たことがないって言ってるんだ」
「演目は何だ」
ヴァシクがぶっきらぼうに尋ねる。
「チャイコフスキーの『くるみ割り人形』だよ」
「まあ!」
イルゼは目を煌めかせた。
「そのバレエなら、わたくしは何度も見に行ったことがありましてよ。フルートやピッコロの見せ場も多くて、舞台設備や衣装や踊りも華やかで、とても素晴らしかったわ」
「へえ、楽しみだなあ。──あ、あと、再来週のサロンにも参加したいのだけど、良いかな?」
「もちろんですわ。いつでも歓迎しますわよ」
「伴奏は要るのか」
「あ、いや」
僕は少し悩ましく思って首を傾けた。
「今度は無伴奏の曲を書こうと思ってる。せっかくだからヴァシクにも、ピアノばかりでなくて、フルートを披露してもらいたいからね。伴奏が要るのなら、今度は僕がやるよ」
「そうか」
「次に書く曲は、ヴァシクを見習って、故郷の音楽を取り入れようと思ってる。きっとこちらの人には珍しいはずだから、エデルにもみんなにも楽しんでもらえるかなって」
祖国では脱亜入欧が叫ばれているが、ヴァシクが故郷のボヘミアのために頑張っている姿を見て、僕は考えを改めた。外国の文化も素晴らしく、故郷の文化も素晴らしい。どちらも尊重したい、と思うようになっていた。
ウフフ、とイルゼはまた嬉しそうに笑った。
「ショウったら、だんだん饒舌になってきましたわね。本当にエデルがお好きなのねえ」
「え? いや、あの」
「よくってよ。わたくしはサロンを盛り上げてもらえて嬉しいですわ。それに友人のことは応援したいと思っていますもの」
「あ……ありがとう」
僕は胸の中に温かいものが広がるのを感じた。
こうして自分のために心から喜んだり苦楽を共にしたりしてくれる友人がいるのは、やはり良いものだ。ベルリンに来ることができて、イルゼやヴァシクと出会うことができて、実に幸運だった。
この縁は今後とも──生涯、大切にしていきたい。
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