第4話
シュテルン音楽大学①
ベルリン・フィルハーモニーの公演の次に、僕が鑑賞したいと思っていたものは、オペラだった。ベルリン国立歌劇場、および専属オーケストラのシュターツカペレ・ベルリンは、共に優れたオペラを公演するとの名声が高い。ベルリンで音楽をやるなら、見ておくのは必須であろう。
ちょうど都合の良い日に、ビゼー作曲の『カルメン』という人気も知名度もある演目をやるというので、僕は楽しみにしていた。オペラについてはほとんど何も知らないが、その分きっと新鮮な体験ができるはず。
音大入試の準備を着々と進めつつ公演日を待っていた僕は、先日ベルリンフィルを聴いた時に助けてくれた女性のことを思い出していた。
──また何かを鑑賞したいと思った時は、私を呼びたまえ。券を買う役目を引き受けよう。
あの人はオペラにも興味があるだろうか? 何やら僕の感想を聞くのを楽しみにしていた様子だし、一度お伺いを立ててみようか。券についてはさておき、手紙を送ると約束してしまったし。
それに──僕自身が、もう一度あの人と会いたいと思っていた。今風の瀟洒なジャケットを来て、豊かな赤髪を風になびかせていた、型破りな彼女と、もう少し話をしてみたいと。そう思わせるような不思議な魅力が、彼女にはあった。
僕は連絡先を書いてもらった紙切れを取り出した。便箋に軽い挨拶と日時と場所と演目を記して、丁寧に封筒に仕舞い、手紙を出した。返事はすぐに来て、僕たちは歌劇場の前で落ち合うことになった。
当日、僕がスーツを来て現地に向かうと、彼女は既に待ち合わせ場所に来ていた。その姿は以前と同じ、赤髪を緩く結ったシニョンに黒一色の服装だ。大仰なドレスを着て清楚に歩いて行くご婦人方とは一線を画す、どこか大胆不敵で存在感のある佇まいだった。
「こんばんは。遅くなってすみません」
「こんばんは。何、私が早めに来ただけだよ、祥三郎。では早速、券を──」
「ああ、今日のお代は僕が払います。国から勉強代としてかなりの額を支給されていますから」
「そうか? ならばお言葉に甘えよう。しかしまた揉めても面倒だから、あくまで私が買うという形にさせてくれ」
「助かります」
こうして僕は、豪華絢爛なオペラの鑑賞を楽しんだ。エデルはオペラグラスなる小さな双眼鏡を所持していて、これを僕に貸してくれた。レンズを通して舞台を覗くと、役者の細やかな表情までよく見える、という優れ物である。
今回僕が最も驚いたのは、歌手たちの声量である。
劇場には、舞台鑑賞の邪魔をしないようオーケストラの団員を隠すために低い位置に設置されたオーケストラピットというものが造られている。対して歌手たちは舞台上で堂々と役を演じるのだが、それにしてもフルオーケストラを軽く凌駕するほどの音量で歌うとは尋常ではない。
スペイン風の楽曲や衣装や舞台装置もまた、僕には珍しいものだった。派手で鮮やかで自由奔放、しかしその中に一雫の哀愁のようなものも混じっている。全く新しい独特で抒情的な世界が広がっていて、目が離せない。
物語は大きなうねりのように展開し、衝撃的な結末を迎えて、幕が降りた。僕たちは出演者たちに惜しみない拍手を送り、歌劇場を後にした。後はお楽しみの感想会である。
オペラを楽しんで観ていたエデルであったが、早々に髪を解いた彼女の感想はこんなものであった。
「カルメンというのはなかなか天晴れな女だな。あの尻軽な態度はどうにも好かんが、気の向くままに恋を追いかける情熱的な生き方を貫いた点は評価に値する。それに比べて、ドン・ホセとかいう男はみっともなかったな……婚約者を捨ててまで追いかけた女を刺し殺した挙句にああも嘆くとは、どういう了見だ? さっぱり分からん」
一方、僕の感想は以下の通りだ。
「一番感動したのは、幕間のフルートソロですね。フルートの良さを余さず取り入れた旋律が、とにかく美しくて切なげで、すっかり魅了されてしまいました。中でも冒頭は、特に演奏し易い音域で書かれていることもあってか、奏者の渾身の美音が聴けて非常に良かったです。それから、カルメンが酒場で衆目を集めながら歌って踊っているシーンも楽しかったですね。始まりのフルートアンサンブルはどこか妖しげなリズムとハーモニーで……それが徐々に盛り上がって大合奏に繋がる様は圧巻でした」
エデルは面白そうに笑った。
「劇の感想ではなく音楽の感想か。君らしいな。しかし酒場のシーンは私も気に入ったよ。この世にはあのような愉快な宴も存在するのだな。賑やかで、目新しかった」
あれこれお喋りを堪能した僕は、エデルを送り届けようと申し出た。まだベルリンの町をよく知らない僕は彼女の住所のこともよく知らないが、ベルリン国立歌劇場は、ベルリンフィルのホールとはブランデンブルク門を挟んで反対側にある。あの日彼女は歩いて帰っていたから、ここからだと少し遠いのではないかと推測できる。そんな道のりを夜に女性一人で帰らせるのは紳士的ではない。
「いや、結構だ」
エデルはきっぱり断った。
「でも、危ないことがあったら」
「私なら心配には及ばない」
「そう言われましても」
「楽しかったよ、祥三郎。誘ってくれたことに感謝しよう。次も楽しみにしている」
「待っ……」
彼女はとっとと歩いて行ってしまった。僕は所在ない思いでその姿を見送った。
ひょっとして、僕は頼りにされていないのだろうか。そりゃあ券の一枚も買えないような小さな東洋人など当てにならないと思われても当然というものだが、エデルにそう思われているとしたら悲しいと僕は感じていた。彼女は僕の出自を尊重しつつ対等に接してくれていたし、そんな彼女の態度に僕は好感を抱いていたから。
ぼんやりエデルの後ろ姿を目で追っていると、彼女はさりげなく人混みから外れて、すぐそばのフンボルト大学の前にあるアレクサンダー・フォン・フンボルトの彫刻像に近づいて行った。
──どうして、そんなところに?
不審に思った僕は、後ろからこっそり様子を見ようと、人混みを掻き分けて近づいて行った。
エデルは像の影に入ったきり、一向に出てこなくなった。
何分待っても。
「うん……?」
どうかしたのだろうか。僕は思い切って像のそばまで行ってみた。
エデルの姿はどこにもなかった。
像の周りをぐるりと回ってみたが、エデルは忽然と消えてしまっていた。
「ええ……?」
何が起こったというのだろう。まさか見逃してしまったのか? あまり考えられない。僕はよく注意して見ていたし、あの波打つ赤い髪は目立つから。
とはいえ、しつこくつけ回そうとするのもまた紳士的ではないので、僕は諦めて帰途に着いた。頭の中は、エデルが急に消えたことへの疑問で埋め尽くされていた。狐につままれた気分、というのは、まさにこういう気分のことをいうのだろう。
その後もちょくちょく彼女を誘って様々な音楽を鑑賞した僕だったが、彼女は決して僕と帰り道を共にしようとはしなかった。
そして、注意深く彼女を見守っていても、必ず途中で見失ってしまうのだった。
一度たりとも、彼女の後を追うことは叶わなかった。
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