安全祈願と出港準備③


 何一つ解決せず、誰にも婚約破棄を認めてもらえないまま、僕は兄たちと共に実家を発つ日を迎えた。


 当日の朝、おめかしをして僕を見送りに来た晴子さんに対して、敢えて邪険な態度を取る勇気すら無い僕は、本当にやっせんぼで、ひっかぶい臆病者だ。

 悄然とした気分で馬車に乗り、駅まで連れて行ってもらい、汽車に乗り換える。


 目指すは、長崎県の佐世保鎮守府。


 長兄の応太郎おうたろうと次兄の豊次郎とよじろうは、揃って不機嫌そうにだんまりを決め込んで、汽車に揺られていた。こういうところを含め、二人は父そっくりだなあと思う。どうして僕だけ、こんなにおどおどした人間になったのだろう。別に、父や兄のようになりたいなどとはちっとも思っていないけれど。


 汽車の中で、一度だけぼそりと長兄が呟いたのは、こんなことだった。

「……お前ごときが、三笠みかさに乗るとはな」

 その不機嫌そうな声音に、僕は無闇に慌てふためいてしまった。

「えっ、あっ、あの、応兄様おうにいさあ?」

「俺が戦艦敷島しきしま、豊次郎が巡洋艦高砂たかさごで……なぜお前が、東郷中将や秋山参謀と同じ、戦艦三笠の配属なんだ」

 僕は内心怯えつつも、愛想笑いをした。

「……これでも僕、軍楽隊の中では、うんと楽器が上手いのですよ」

「そんなお遊びで調子に乗るな」

 次兄も険しい声で言う。

豊兄様とよにいさあ……」

「いざ戦う時になれば、お前は怪我人を運ぶのがせいぜいだろう」

「はい。どんなふねでも、負傷者運搬のための人員は必要ですから」

「ふん、下らん」

「全くだ」


 これはまたひどい言いようである。運搬担当の者とて、砲弾が飛び交う中を命懸けで人命救助に当たる、危険で重要な仕事をするのだ。それに感謝することなく、一方的に軽んじるのは良くない。二人だってもし怪我をしたら、誰かに運んでもらうというのに。

 第一、戦で後方支援を甘く見れば痛い目を見ると決まっている。


 でも僕は何も言わなかった。二人との意思疎通はとうの昔に放棄している。貶されるばかりでは気が滅入るというものだ。そんなことより今は、長らく会わなかった戦友たちとの再会を、楽しみにしておこう。

 みんな、元気にしているだろうか。


 佐世保鎮守府に到着し、僕たち兄弟は特に何も言わず別れた。僕は吹き荒ぶ冬の海風の中を、指定の黒い外套を羽織り、軍艦に乗せる荷物だけを抱えて歩く。

 港に停泊している三笠を目指していると、後ろから「オーイ!」と懐かしい声が聞こえた。振り返るより早く、僕は肩をがっしりと捕まえられてつんのめった。

「うわあ」


 僕のことを掴んだのは、僕と特に仲のいい、軍楽隊では同期の二人であった。

あいさん、りんさん」

 いつも通りの黒い軍服姿を見て、僕は安心感を覚えた。

「待ってたぞぉ祥ちゃん。久しぶりだなあ!」

 小太鼓奏者の藍さんこと吉田藍之丞よしだあいのじょう一等軍楽手は、そう言って僕の背中をバシバシと力強く叩いた。

「あいててて」

「……無事か」

 真顔で短くこう言ったのは、その横に直立不動で立っている、トロンボーン奏者の琳さんこと外川琳輔とがわりんすけ一等軍楽手だ。

 僕は藍さんに揺さぶられながらも、口元を緩めて頷いた。

「久しぶりだね。ありがとう。僕は元気だよ。二人はどう?」

「見ての通りだ」

 藍さんはようやく僕を離して胸を張った。

「……問題ない」

 琳さんも答える。僕は表情を緩めた。

「良かった。また会えて嬉しいよ」

「おうよ。そんなことより、ドイツはどんなところだったんだ? 大学で何やってたんだ? 土産はあるんだろうな? 早く聞かせろって!」

「うーん、そうだなあ。ベルリンでは、本場の音楽を聴けて良かったよ。他の学生と一緒に練習して刺激になったし、教授には僕の知らなかった奏法を教わったりして、色々楽しかった」

「へえ、どんなのだ」

「前に先生方も言っていたけれど、芸術のための音楽って、軍楽とはかなり違ってね――」


 しばらく僕たちは、わいわいと土産話と昔話で盛り上がった。


「それで、向こうの飯はどうだった? 酒は? 良い娘さんとかいたのか?」

 藍さんに尋ねられ、僕は内心どきりとした。

「えっと、それは……うん、美味しかったし、……その、良い人もいた……」

「何ーッ!?」

 藍さんは一際大きな声を出した。

「何だよ何だよ! 何があったんだよ! おい琳さん、こいつはただごとじゃあねえぞ!」

「……話せ、祥」

「え、ええーっと」


 その辺りに関してはちょっと都合が悪いというか、今は新たな問題も浮上しているし、あんまり話したくないというか何というか、要するに恥ずかしいので逃げたい。


「い……今は着いたばかりだし、その話はまたいずれ……。ああ、そうだ、先に挨拶して回らないといけない人がいるんだった。駒留こまどめさんや天沢さんはどこか分かる?」

「何だよ、俺らがせっかくお迎えに来てやったってのに! この薄情者っ!」

 藍さんは不満そうに言うと、一際強く僕の背中を叩いた。

「痛い」

「……薄情者」

 琳さんまで便乗してそんなことを言う。


「ご、ごめん。二人にここまで会いに来てもらえるなんて、本当に嬉しいよ。ありがとう。話なら後でちゃんとするから、勘弁して。あ、お土産は先に渡そうかな。はい」

 僕は鞄の中からごそごそと土産物の入った小さな紙袋を二つ取り出した。藍さんは早速バリバリと袋を破り、中身を手のひらの上で転がした。


「何だこれ」

「ブランデンブルク門の置物」

「ほお? これ門なのか。城門か何かか?」

「ううん、町を守る門だったって。本物は凄く大きいんだよ」

「へー? ありがとな」

「……感謝する」

「どういたしまして! では、また後で」

「おう。駒留軍楽長なら三笠の上甲板にいらっしゃったぞ。天沢さんは後で合流するって言って寝室に残ってたから、まだいるかも」

「あっ、ありがとう」


 僕は急いで三笠に乗船し、割り当てられていた寝室に荷物を置きに行った。扉を開けると、軍服の人物が一人、大きな白い布を壁から吊るしている所だった。

「天沢さん!」

 僕と同じフルート奏者にして僕の最初の師匠、天沢正巳二等軍楽手は、ひょいとこちらを振り返った。


「あれ、森元くん?」

「はい、僕です! ご無沙汰してます」

「久々だね。元気そうで良かった」

「天沢さんこそ」

「そうだね。……今は荷物を置きに来たんだろう? 用事が済んだ後にでも、ゆっくりベルリンのこと聞かせてよ」

「天沢さん……!」

 僕は感激して荷物を床に下ろし、天沢さんの手を取った。


「ありがとうございます! さっき藍さんと琳さんにも会ったんですけど、二人ともひどいんですよ。話の続きは後でって言ったら、僕のこと薄情者だって言うんです」

「あはは、言いそう言いそう。さあ、荷物は預かるから、早く用を済ませておいで」

「いえ大丈夫ですよ。自分でやります」

「良いから。長旅お疲れ様ということで」

 天沢さんは僕から荷物を取り上げて、ポンと肩に手を置いた。

「ふふ、上官の君にこんなことをしたら失礼だけど。でも、本当にお疲れ様。また会えて嬉しいよ」

「失礼なんてとんでもない。僕も嬉しいです。あの、そいでは……ちっと挨拶回りをして来ます」

「行ってらっしゃいませ」

 天沢さんがニコニコと敬礼をしたので、僕も敬礼を返し、部屋を出た。


 その後、何かと忙しく駆け回っているうちに、三笠に乗る兵たちがわらわらと寝室に戻る時間になった。藍さんと琳さんと天沢さんは、僕と隣り合わせの釣床ハンモックで休む決まりだ。藍さんはボフンと釣床に寝っ転がると、僕を急かした。


「おい祥ちゃん。そろそろ話を聞かせろよ。消灯時間になっちまうじゃねえか」

「……早くしろ」

「僕も聞きたいな。ベルリンはどうだった?」

 天沢さんも言う。周囲の軍楽隊員たちも何だ何だと顔を上げる。

 んー、と僕は思考を巡らせた。今更ながら、こうして大勢がいるところで話をする方がよほど恥ずかしいということに気が付いた。とはいえ先に話しておいたところで、みんなの前でもう一度話せと迫られるのは確実だから、そんなに違いは無かったかもしれない。

「何から話そうかな」

 僕はゆっくりと言葉を選んだ。

「とにかくすっごく沢山、勉強することがあってね──」

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