安全祈願と出港準備②


「うえあ!?」


 思いもよらぬところで許嫁に出くわしたために、僕は変な声を上げてしまい、慌てて口を抑えた。

 晴子さんは読んでいた『竹取物語』の活字本をぱたりと閉じ、ふんわりと笑って立ち上がった。


 今日の晴子さんは臙脂色の大きな花柄のショールを羽織り、小さな左手でその端っこを握っていた。着物は紺と白の滝縞に、麦藁色の帯。髪飾りは菊の花で、髪型はやはり三つ編みにして後ろに垂らしている。


「こんにちは、祥三郎様しょうざぶろうさあ。お待ちしておりもした」

「こ……こんにちは、晴子さん」


 ん? 待っていた?

 僕は首を傾げた。


ないごてどうして僕がここに来るこつが分かったとですか?」

「んー……。そげん予兆を感じもした。恐らく祥三郎様は今頃、ここにいらっしゃると」

「……そげんこつだけで、わざわざ此処へ来て待っちょったがですか?」

「はい」

「そう、ですか……」


 僕は彼女に、若干の畏敬の念すら抱いた。

 高蝶家の血筋の者には先見の明がある、との噂がある。だからこそ、士族の商売であっても順調に繁盛し、富を得られたのだと。


 話半分に聞いていたことだが、ベルリンでの不思議な体験を踏まえると、考えを改めざるを得ない。晴子さんは本当に、第六感のようなものを持っている可能性がある。でなければ、予兆などという曖昧なものを根拠に待ち伏せに成功するわけがない。

 もしかしたら昨日も、僕が帰省する頃合いを知っていて、先回りして家まで来て待っていたのかもしれない。


 晴子さんは、変わらぬ笑みで僕を見上げている。

せっかっせっかくですから、帰りながらゆっくりお話をしていきもはんか」


 そういうわけで僕と晴子さんは連れ立って神社を出た。その間、晴子さんは父君との会話の顛末を教えてくれた。

 確かに高蝶家の当主は、僕からの手紙を晴子さんに見せることなく焼き捨てていたらしい。その件について晴子さんは、ぞんざいながらも謝罪を受けたそうだ。その上で改めて、僕との婚約を確かなものにするようにと指示されたらしい。晴子さんも当然、そのつもりでいる。


「じゃっどん、僕はすぐにロシアとの戦争に出ます。生きて帰れるか分かりもはん。そいでも僕を待つのは、晴子さんのためにならんでしょう」

ないが私のためになるかは、祥三郎様が決めやるこつやなかとですよ」

 晴子さんは柔らかな笑みを絶やさぬまま、穏やかにそう言い切った。

「私は祥三郎様と添い遂げたいち思っちょいもす。そんためならいくらでも待ちもす。そいでも、いけもはんか」

「……はい」

 僕は声を絞り出した。この話を続けるのは心にこたえる。だが伝えなければならない。

「お気持ちはわっぜとてもありがたいです。僕は……僕は晴子さんに不義理をすっつもりはなかとですが、てっきり婚約はのう無くなったち思うちょりもした。そいで先日、ベルリンに住む女子おなごと約束をして来もした。必ず生きてベルリンに帰る、と」


 晴子さんは潤みがちな瞳で真っ直ぐ僕を見上げた。


「……ベルリンに行った後は、どうなさるおつもりですか」


 静謐な声だった。


「え」

「生きてベルリンへお行きになって、その後はどうなさいますか」

「それは……そこで暮らします」

「どう暮らしていくおつもりですか」

「それは」

「これまでは海軍が、留学と生活のためのお金を用意してくれとりもしたが、祥三郎様がこれまでの積み重ねも軍楽師の階級も全部捨ててしまったら、そげなお金は誰も出しもはん。そいで、日本人がベルリンで仕事ば見つけるこつは可能なのですか?」


 流れるように正論を突きつけられて、僕は言葉に詰まった。


「それは、伝手のようなものが、僕にも、一応」

ぐらしかなあお可哀想に


 晴子さんは憐れむような声で続ける。


「祥三郎様はきっと、外国でちっと浮かれてしまって、妙な夢を見てしまわれたのでしょう。じゃっどん、日の本の地を踏んだからにはもう大丈夫です。私が支えて差し上げもすから、よろっで一緒に真っ当に生きて行きましょう」


 弱った。僕の意志を伝えても、晴子さんは一寸たりとも退く様子がない。それどころか晴子さんの提案の方が遥かに説得力と正当性がある。しかし僕とて約束を反故にはできない。どうしたものか。


「……晴子さんは、ないごてそげん僕にこだわるのですか」

「あら……ほんのこて本当に分かりもはんか?」

 晴子さんは困り顔で頬を桃色に染めた。

「私は祥三郎様のこつ、ずっと好いちょっど……です。わっぜ好きです。そいこそ、子どん子どもの時分から」

「え……!?」

むかっから祥三郎様は、素敵なお人でした。この神社でも、ようお一人でお歌を歌うちょりましたね……『数え歌』とか『うさぎ』とか、可愛らしか歌が多くて」

「……そいは……」


 それは、僕が周りの勇ましい男の子たちとは気が合わなくて、一人で暇を持て余していた時によくやっていたことだ。如何にもやっせんぼのやりそうなことだと、家族からも同年代の子らからも馬鹿にされていた遊び。まさかそれで僕に好感を抱いていた人物が居たなんて。こんな僕を肯定してくれる人が、いたなんて。

 嬉しいような救われたような気持ちに、なってしまうではないか。


 蔑まれ続けた歳月が、悲しくなかったわけがない。ずっと寂しかった。ずっと誰かに認めて貰いたかった。誰かに大事にされたかった。

 晴子さんならきっと僕を受け入れてくれる。それがどんなに幸せなことか、僕自身でさえ計り知れない。そしてそれを突っぱねなければならないのが、どんなにつらいことかも。

 今にも決意が揺らいで、折れてしまいそうだ。不安のあまり、呼吸が浅くなる。


 結局、僕はこの日、晴子さんの真っ向からの好意を諦めてもらうことができないまま、高蝶家の屋敷まで晴子さんを送り届けた。別れ際に晴子さんは丁寧にお辞儀をして礼を述べ、こう付け足した。


「婚約については、どうかお考え直しをよろしゅう頼んます」

「あの……」

「そいでは、またおあげもんそお会いしましょう

 彼女はしずしずと玄関の向こうに消えた。


 終始一貫して、彼女は聞く耳を持とうとしてくれなかった。あんなにお淑やかな雰囲気を纏っているのに、その内実は鋼鉄よりも遥かに固くて強い。正に外柔内剛。それ自体は悪いことではないのだが、そのせいで僕はすっかり参ってしまう。

 晴子さんを裏切って傷つけるという罪の重さに、僕はどうやっても耐えきれそうにない。どうしたものか。……どうなってしまうのか。

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