第3話
安全祈願と出港準備①
さあ、大変なことになった。
まさか、四年前にとうに断ったはずの縁談が今もまだ続いているとは、思ってもみなかった。
家の門の前まで出て晴子さんを見送った後、すっかり狼狽えてしまった僕は、廊下をあっちへ行ったりこっちへ行ったりしながら、考えを整理しようとしていた。
そう、まず僕は、この縁談において主導権を握っている父に確認を取らなければならない。というか、帰ったら先に顔を出しておく予定だったのだから、挨拶がてら抗議をしてこよう。
抗議を。……挨拶だけでも気が重かったのに、異議申し立てを。
僕は父の厳めしい顔つきを思い浮かべて嘆息した。
あの頑固者でおっかない父が無理を通しているのを、そう簡単に止められるかどうか。いや、もう間違いなく不可能だ。僕には難しすぎる。
だが、帰ったからには挨拶をせねばならないのは変わらない。ああ、ちっとも気が乗らない。何も言わずして家から出て行ってしまいたいくらいだ。
お咲さんに
四年ぶりに見る父の顔は、少し老けたような、そうでもないような、少し変な感じがした。僕は膝を正して父と向かい合った。
「父上。この度は長らく留守にしもしたが、ただいま戻りもした。これより、ロシアを征伐すべく、出陣いたしもす」
「……ふん」
僕の報告に、父の
「そいで、父上。一つお尋ねしたいのですが。僕はベルリンへ発つ前に、高蝶晴子さんとの婚約をお断りしもした。しかし父上はこいをお認めにならんまま、四年もの歳月が経ってしまいました。一体どげんこつでしょうか」
父は僕の目を見ると、低い声でこう言った。
「……
今にも腹の底から怯えが湧き上がってきそうになる。僕は深呼吸して、膝の上で拳を握り直した。
「僕は、晴子さんを何年も待たせてしまうことになるという理由で、婚約をお断りしもした。僕のせいで婚期が遅れてしまっては申し訳が立たないと思って……。でも実際には、晴子さんは僕の帰りを辛抱強く待って下さいました。これでは取り返しがつきもはん。そいで、僕はこれから戦に出ます。こいがいつ終わるのか、僕は生きて帰れるのか、皆目見当がつきもはん。きっとまた僕は晴子さんを何年も待たせてしまうことになるのです。ですからあの方のために僕は」
言いかけた所で僕は畳の上に横様に倒れていた。父に殴られたのだ。全く反応できなかった。痛みが後からやってきて、ようやく僕は、自分の身に何が起こったのかを理解した。
「良か年して親に反抗すっつもりか。
僕は横倒しになったまま、無意識に頭部を手で庇いながら、縮こまって二撃目に備えた。しかし父は僕に追撃を加えることはせず、僕を見下ろして仁王立ちしていた。
「そげんこつゆて、わいはいつ、
僕は恐る恐る起き上がって、再びちんまりと正座した。
「……戦から生きて帰ったら、考えます」
「そいでは遅か。終わったや
「遅くても構いません。
「嫌? そげん
父は雷のような怒声を放って、ぬうっと立ち上がった。僕はまた腕で頭を庇ったが、予想は外れ、父は僕の鳩尾あたりに蹴りを入れた。
「グエッ」
「わいに嫁ば見しけたおいを
僕はすっ飛んだままなかなか起き上がれず、声も出なかった。父が再び胡座をかいたので、僕は咳き込みながら畳に手をついて体を起こした。
……ありがたいも何も、父は財力のある高蝶家との繋がりが欲しいだけだろうに。恩着せがましいことこの上ない。だが反論する勇気は僕にはない。
「話は終いじゃ。早よ行け」
父は短く言った。
「は、はい」
僕は情けないほどに萎縮しながら小さく返事をすると、そそくさと父の前を去った。ああ、怖かった。まだ頭と腹が痛む。
──士族としては地位の低い高蝶家は、士族にしては珍しく商売に成功し、これまで戦で活用してきた薬などを扱うことで裕福になっていた。
森元家は、海軍からの給金で財を築けているにも関わらず、更なる富を欲して、高蝶家との縁を望んでいる。
高蝶家は、地位の高い森元家とは縁を作っておきたがっている。
父が僕の意見を聞き入れることはまずありえないから、こちらから正式なお断りを入れるのは困難だし、あちらから断ってもらうなんていうことはもっと期待できない。
何より、晴子さんは、僕の帰りを何年も待ってくれる程に一途でいてくれた。
僕だって晴子さんが気の良い
今の僕に、打てる手はとても少ない。
しかし、急がねばなるまい。
僕は明後日には実家を出て軍港に向かい、海軍の日課の訓練に参加することになっている。
それまでに何とかして婚約破棄を認めてもらわないと、晴子さんはまた、生死も分からぬ僕をずっと待つことになってしまう。僕など待たずに、他のお相手を見つけた方が晴子さんのためになる、そう、説明すること自体は可能だろう。だが説得まではできない気がする。
──私、こん四年間ずっと、祥三郎様のお帰りをお待ちしちょったがですよ?
そう言った時の晴子さんの目の真剣だったこと。たおやかな彼女に、そこまでの覚悟と芯の強さがあったとは思わなかった。
僕は晴子さんを嫌いでは決してない。ないのだが、……約束を、してきたのだ。必ずベルリンへ戻ると。あの時はてっきり、晴子さんとの縁談は無くなったと思っていたし……。
仕方がない。明日また会う時に、正直に話そう。悪いけれど僕の個人的な事情により貴女と結婚することはできない、と。今日はあまりの後ろめたさに言い出せなかったことだが、黙ったままでいることこそ最大の不敬であり裏切りだ。きちんと伝えて、懺悔するしかない。
想像するだけでひどく落ち込む。僕は沈んだ気分で自分の部屋に戻り、襖を閉めた。
翌日は、晴子さんが父君に真実を問い質して、報告のためにまたうちにやってくることになっていた。
晴子さんが来るまでに散歩でもして気分転換をしようかと、僕は近所の神社に足を伸ばした。
子どもの頃から馴染みのそこは住吉神社という由緒正しい場所で、境内は広く、例大祭も有名だ。かの名将、島津義久も訪れたという話からも、霊験あらたかであることが窺える。
ご利益としては五穀豊穣や子孫繁栄の他に、国家安泰、武運長久、海上安全まであるものだから、父や兄たちは殊更にありがたがって参拝していた。
僕もその恩恵にあやかりたいところである。僕が海戦から無事に帰らねば、約束だの縁談だの言ったところで何の意味もないのだ。
一の鳥居、二の鳥居をくぐって、長く緩やかな石段を登っていく。その先には大きくて立派な社殿がある。僕は賽銭を放り込むと、柏手を打って熱心に祈った。
神様、どうか僕を、ロシアの艦隊の砲撃から守って下さい。頼んます。
それから、久々に見る御神木や狛犬にご挨拶なんかをして、来た道を戻る。階段を下った先にある道の脇にも、小さな稲荷神社へと続く階段があるのだが──その前に建っている鳥居の下に、晴子さんが座っていた。
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