新天地ベルリンにて③

 本日上演予定の楽曲は合計三つ。


 一曲目は、楽劇王とも呼ばれ人気を博したドイツの作曲家、ワーグナーの「ニーベルングの指環」より「ワルキューレの騎行」。


 「ニーベルングの指環」については、ワーグナーの全盛期を目の当たりにしてきたエッケルト先生から話を聞いていた。四部作の歌劇の大作で、ゲルマン神話を元にしているという。

 ワルキューレというのは死の乙女とも渾名される半神の女戦士で、戦場で死んだ者のうち勇敢な者の魂を、神々の世界アスガルトにある館ヴァルハラに連れて行くのが役目だそうだ。

 彼女らは主神ヴォータンの指示通りに仕事をせねばならず、ヴォータンの定めた運命に背いて戦士の生き死にを勝手に決めたりしてしまうと、相応の罰が待っているそうな。

 そしてこの「ワルキューレの騎行」は、「ニーベルングの指環」の劇中において、ワルキューレたちが雄叫びを上げながら現れるシーンと共に演奏される。元が歌劇であるために本来ならばオペラ歌手による歌唱が加わるのだが、今夜はオーケストラ用の歌無し版が演奏される。


 指揮棒が振られると同時に、弦楽器と木管楽器による緊迫感満載の序奏が始まる。次いで、金管楽器による堂々たる主題が出現。重低音を軸に奏でられる、腹の底まで響くような迫力の音色だ。これ以上に格好良いものなどこの世の中には存在しないとまで思わしめる程の、惚れ惚れする勇壮さだ。あまりの威厳に気圧されてしまいそうだ。


 凄い、これが本場の本物のオーケストラ。僕は、体が芯から震えるような感動を体験していた。知らず知らずのうちに拳を握りしめ、瞬きも忘れて食い入るように楽団を見つめる。

 曲はあっという間に終わったが、僕はしばらく興奮が醒めやらず、心臓がばくばくと脈打っていた。拍手喝采。ブラボー。


 続く二曲目は、オーストリア帝国支配下のボヘミア地域に生まれ各国で活躍した作曲家、スメタナの「わが祖国」より第二曲「モルダウ」。奏者の配置換えが行われ、再び指揮者が登場して、曲が始まる。


 モルダウとはボヘミアの中心的な都市プラハの中央を流れる大きな河川の名である。ヨーロッパの河は日本の川のような急流とは違い、非常に広大なものだ。ベルリンにもシュプレー川が流れているが、その川幅の広さには驚かされるものがある。

 モルダウもさぞや規模の大きい河なのであろう。この曲はそんなボヘミア人の心の拠り所とも言える河を、流れの始まりから終わりまで辿るような形で進んでゆく。どんな大きな河も、最初は小さなせせらぎから始まる──その清らかで美しい始点を表現するのが、冒頭で繰り広げられるフルートの連符の掛け合いである。


 僕は軍楽隊員という職業上、勇ましい曲ばかり演奏してきたため、この曲の始まりの繊細で流麗な旋律には感心した。フルートにはこんなことも可能なのか。何と清らかな音色であろうか。是非とも自分で奏でてみたいものだ。


 水の流れはやがて集まって大きくなり、町の真ん中をゆっくりと下って行くようになる。弦楽器を中心としたこの主題は優雅そのものだ。僕は自分もまるで川の中をゆらゆらと揺蕩っているような、不思議な心持ちになった。川は町中を通り、豊かな景色の中を流れ下る。やがて遥か遠くまで流れ去って行き、曲は強音で締め括られる。美しい余韻がホールを包み込んだ。

 凄い凄い、と僕は先程とはまた違った感動に全身が沸き立ち、夢中で拍手した。ブラボー。


 さて、いよいよ今宵の目玉が始まる。ドイツに限らず各所で定番かつ不動の人気を誇る偉大なる作曲家、ベートーヴェンの「交響曲第七番」。四つの楽章で構成されるこの曲は、殊に一楽章のフルートソロが美しいと噂に聞いていた。そのため僕はこの曲に最も期待を寄せている。


 開始──穏やかな曲調。ゆったりとした上向形の音階が期待感を高めてくれる。一旦、静かになった。

 満を辞して展開されたフルートソロは、軽やかで楽しげで、伸びやかで麗しい。その優美な音色に、僕は息も忘れて聞き入った。

 そのフルートを引き継いで、オーケストラ全体が同じ旋律を奏で始める。今にも跳ね回り出しそうな、歓びに満ちた音色。その勢いは終始衰えることなく、堂々と一楽章が終わった。


 続いて、悲しげで時に重々しいものの、明るい和音で終わる二楽章。速いリズムと和やかなテンポが繰り返される三楽章。フィナーレに向かって踊るように駆け抜ける、明るくて元気いっぱいの四楽章。

 全てが終わり、一瞬、会場が静寂に包まれる。すぐに、万雷の拍手が巻き起こった。


 何だ、これは、そう、まるで、まるで──人生への讃歌とも言うべき、喜びに満ちた大作だ。生きることとはこんなにも美しく、歓ばしく、素晴らしいことなのだ。

 全て聞き終わるまでに時間がかかったはずなのに、僕にはあっという間の出来事のように感じられた。

 僕は今夜最大の感動に身を打ち震わせ、全力でオーケストラと指揮者に拍手を送った。本当に素晴らしかった。ブラボー、ブラボー。


 僕は興奮のあまり顔を上気させて、ホールを出た。外の寒さも忘れるくらい、僕の気持ちは昂っていた。

 改めてお礼を言うために、僕は隣を歩いていた赤髪の女性を見上げ、帽子を取った。


「お陰様で素敵な体験ができました。本当にありがとうございました」

「ならば良かった。君に喜んでもらえて私も嬉しいよ」

 彼女はそう言うと、おもむろに後頭部に両手をやった。僕が訝しく思ってその動作を見ていると、彼女はあっという間にシニョンの髪型を解いてしまった。

 ガス灯の明かりの下、豊かに伸びた長い癖っ毛が、ふわりと夜風に舞い上がる。僕はポカンと口を開けて、思わずそのうねる赤毛に見惚れていた。

 ドイツでも淑女の身だしなみのマナーは厳しい。公共の場では、髪をきっちりまとめ上げるべし、というのが当たり前だった。


「結い髪はどうも窮屈でね。苦手なんだ」

 彼女は何でもないことのように言った。

「さあ、約束通り、君の感想を聞かせてもらいたい。今宵の演奏会をどう思ったかな?」

「あ……はい! まずはですね……」

 僕は慌てて背筋を正し、今日の演奏を聴いて思ったことを素直に話した。彼女は時折頷きながら、僕が喋り終わるまで真面目に耳を傾けてくれた。

「……と、僕は思いましたが……如何でしょうか」

 ふふっと彼女は笑った。

「いや、感心したよ。君は私より遥かによく音楽を知っているようだ」

「あはは……。こう見えて、僕はフルートを仕事にしているのです。ベルリンにはフルートを学ぶために来たんですよ」

「何と、そうだったか。なるほどね。しかし……一つ気になる事がある。聞いても良いかな」

「はい。何でもどうぞ」


 彼女の髪が、遊ぶように風になびいている。

「君はベートーヴェンに関して、生きる歓び、という言葉を用いた。しかしさしずめ、君は軍人で、軍楽隊に所属しているのだろう」

「えっ!?」

 僕は若干身を引き、目を丸くして彼女を見つめ直した。

「どうして分かるのですか?」

「私は勘が良くてね。そういうのが自然と分かるんだ」

「そんなことってあります?」

「あるよ。まあ、そんなのはいい。君は軍人である以上、戦いに出て危険な任務に就くこともあろう。死することも覚悟せねばなるまい。むしろ戦死を誉れとするのが軍人というものの性質だし、死をも厭わずに果敢に戦うために皆の士気を鼓舞するのが、軍楽隊の役目だ。にも関わらず、君はあの曲から、生きる歓びを読み取った。何故だろう」

「……うーん」


 僕は頭を捻った。


「……確かに僕は軍人ですが、正直なところ、軍人には向かない性格をしています。僕は全く勇敢ではありません。むしろ臆病者なのです。それでも軍人になったのは両親の決めたからで、僕自身は戦いを好みません。ただ、僕は……音楽をやって初めて、人生に楽しみや面白みを見出せました。僕にとって音楽は、生きるための希望なんです。だからきっと、そのように思ったのでしょう。……多分」


 僕がそう伝えると、彼女は考え込むような表情になった。しかしそれも束の間、彼女はすぐに破顔した。

「興味深い意見をありがとう。お陰様で私も、視野が広がったような思いだ。君と演奏会を楽しむ事ができて、私は幸運だった」

「そんな、お礼を言うのは僕の方です。助けて下さってありがとうございました」

「礼には及ばないよ。……そうだ!」

 彼女がいきなり声を大きくしたので、僕はびくっとした。

「また何かを鑑賞したいと思った時は、私を呼びたまえ。券を買う役目を引き受けよう」

「えっ? いえ、そこまでお世話になるわけにはまいりません」

「気にするな。私は次も、君の意見や感想を聞かせてもらいたいのだよ。君、何か書くものは持っているか」

「あの……ええと、はい」


 僕は鞄から紙と鉛筆を取り出した。彼女はそれを受け取ると、さらさらと文字を書きつけて僕に返した。そこには住所と名前が記載されていた。彼女の名は、エデルトラウデ・エリオンスというようだ。


「その住所に手紙を送ってくれ。待ち合わせをして共に音楽を鑑賞しよう。きっと楽しいことになる」

「でもエリオンスさん、僕は……」

「ああ、エデルと呼んでくれ。そんなに堅苦しくしなくて良い」

「ではエデル、僕は、その」

「ありがとう。よろしく。また会おう」

 彼女は軽く手を振ると、僕に背を向けてさっさと歩き出してしまった。僕は呆然として立ち尽くし、その後ろ姿と、大きく広がって揺れる赤い長髪を見ていた。


 ──あれ、そういえば、僕は名乗っていなかった。これはとんだ無礼をしてしまった。

「あの! ……エデル!」

 僕は声を張り上げた。

「──うん?」

 エデルが足を止めて振り返った。周囲の人々もこちらを見ている気がしたが、今更引っ込んではいられない。

「僕はっ……森元祥三郎といいます! 手紙、送ります!」

「ああ」

 エデルは口元を緩めた。

「楽しみにしているよ、祥三郎」

 

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