新天地ベルリンにて②

 さて、僕はレッスンと練習の合間に、ドイツの文化を見聞きするつもりでいた。西洋式の音楽をやるからには、その音楽が育まれた場所の風土を体験することも肝要だと思ったからだ。


 異国の町の情景と空気を存分に味わうのも大変結構なことだが、僕がまず行きたかったのは、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会であった。日本でもオーケストラの演奏を聴いたことは幾度もあるが、本場の本物は桁違いの実力者揃いに違いない。


 その日、僕は練習を早めに切り上げ、背広を着て演奏会場へ向かった。赤い絨毯を踏みしめて、うきうきしながら鞄を持ち上げ、券を買うために職員に近付く。

 職員の男性は、妙な顔でこっちを凝視していた。僕がやや緊張しながらも券を買いたい旨を告げると、彼は鼻で笑った。


「ここはアジア人のガキの来る所じゃあない。ママと一緒にとっとと田舎に帰りな」

 僕は首を傾げた。

「えーっと……? とりあえず、僕は二十一歳です」

「はあ? そのナリでか? ハハッ、冗談はよせよ、劣等人種。なあオイ」


 彼は丁度通りかかった別の職員に話しかけた。彼もまたニヤニヤと笑って僕を見下ろしていた。僕が再度、券を買いたいと伝えると、二人は声を上げて笑った。


「誰がお前なんかに券を売るかよ。もったいないね!」

「黄色いチビ猿が、伝統ある高尚なクラシック音楽を理解できるとは思えないなア」


 うーん、と僕は考え込んだ。

 馬鹿にされるのには慣れているからこの際どうでもいいとして、このまますごすごと引き下がっては、再び券を買いに来るのが難しくなる気がする。

 だって、こいつらが明日もここに居たら? 明後日に居るのもこいつらと似たようなやつらだったら? ──いつまで経ってもベルリンフィルの生演奏を聴くことができない。それでは困る。うんと学びを得るつもりで、せっかくここまではるばる来たのに、このままでは満足に勉強ができないではないか。


 一体何と言ったら券を売ってもらえるだろうか。僕が考え込みながら突っ立っていると、背後から女性の声が降ってきた。

「失礼。券を買いたいのだけれど。今いいかな?」

「ええ、もちろんですとも。ほらよガキ、さっさとそこをどきな。お客様の邪魔だ」

「むむ……」


 僕の横に割り込んだ女性は、二枚の券を求めた。僕がさっき買おうとした席より一つ上の等級の券だ。

「どうぞ。毎度ありがとうございます」

「こちらこそ、ありがとう」

 女性は微笑んで券を二枚受け取ると、くるりとこちらを向き、券を一枚僕に差し出した。

「はい、これは君の分だ。私の隣の席だが、それで良かったかな?」

 職員二人は息を呑んだし、僕もびっくりして声を失った。


「あの、お客様?」

「うん? 何か問題が?」

「いえ、問題は無いですが。しかし……」

 はあ、と彼女はややわざとらしく溜息を吐いた。

「さっきの君たちの様子は見ていたよ。随分と理不尽なことを言うじゃないか。いいかい、この青年は、わざわざ遥か遠方の地から来てまで、この国の音楽を聴こうとしてくれているのだぞ。ありがたいことだとは思わんのかね」

「ええと……」

「むしろ歓迎して然るべきではないか? これはドイツ文化の威信を世に知らしめる好機なのではないか? それを雑に追い払おうだなんて、全くもって理解に苦しむね。……さあ行こうか、異国の人。入り口はあちらだよ」


 僕はまだ呆気に取られていて、目を丸くして彼女を見ていた。少し風変わりな格好をしているその女性を。

 ──シニョンの形に緩く結われた赤い髪、鋭い目つきと灰色の瞳、比較的がっしりとした長身。男物のような黒いジャケットと、すらりとした直線的な作りの黒いスカートに、黒革のブーツ。


 彼女はスタスタと先を行ってしまった。僕は我に返って彼女を追いかけ、上ずった声で礼を述べた。

「あのっ、ありがとうございました。今、代金を……」

「ああ、そんなものは良いよ。これは先程の職員の非礼の詫びだ。ベルリンに住む者の代表として、私に奢らせてくれ」

「でも、助けて頂いて何のお礼も無しなんて」

「それで構わない。私がやりたくてやったことだからね」

「……」


 僕が言葉に詰まっていると、彼女は僕を振り返ってニッと口角を上げた。

「もしそれで君の気が済まないのであれば、一つ頼み事をしよう。いいかな」

「あ、はい。何なりと」

「今宵の演奏会が終わったら、君の感想を聞かせて欲しい」

「感想を?」

「ああ。私は音楽にはさほど詳しくなくてね。この会場にも数えるほどしか来ていない。しかし音楽というのは興味深い文化だと考えている。そこで今思いついた。他人の意見を聞けば、多少は理解が深まるのではないかとね」

 僕は瞬きをした。

「その程度でよろしければ、喜んで。僕もオーケストラには詳しくありませんが」

「問題ない。交渉成立だね。よろしく頼むよ」

 彼女は再び颯爽と大股で歩き出した。会場の横に取り付けられている扉からさっさと中に入る。未だ当惑が拭いきれていない僕が、後に続く。


 目が眩むような、大きなホールだった。

 このような演奏会場は、設計の時点で、楽団の音の響きを良くする工夫がされていると聞いている。壁や屋根が反響板の役割を果たすのだ。僕は物珍しい気持ちであちこち見渡した。

 きらきらと豪華絢爛な装飾が施された会場の全体はやや暗く、舞台だけが最新型の灯りで照らされている。客席にはずらりと赤い布張りの椅子が並んでいる。こんなにも沢山の席が用意されているというのに、そのほとんどが人で埋まっていた。後方の立ち見席にも人が押しかけているようだ。大変な盛況ぶりである。

 僕は指定席に座り、そわそわと開演を待った。


 やがてオーケストラを生業とする人々が次々と舞台上に上がり、最後に指揮者が登場した。周囲の人々が拍手をしたので、僕も真似をして拍手した。

 すぐに、演奏が始まる──指揮棒が、振り下ろされる。

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