深夜に起きた大惨事③

 つん、と医薬品の匂いがする。瞼が鉛のように重くて開けられない。ただ、何やらエデルと晴子さんが話している声だけが聞こえてくる。


「私は、わっぜ狡い人間です」


 晴子さんは涙声であった。あんなに気丈で強かな晴子さんが弱気になるだなんて、尋常ではない。一体エデルに何を言われたというのか。


「私は、お家の意向だからと言って、祥三郎様を縛って、私の思い通りにしようとしました。使える手は何でも使って祥三郎様を引き止めようとしました。ずっと待っていたと言えば、負い目に感じてもらえるとも思っていましたし、お家の意向だと言えば、あの方は逆らえないだろうとも思っていました。それより他に、祥三郎様を引き止める方法が分からなくて……」

「ふむ。なるほど」


 エデルが相槌を打っている。その声音からは意外にも、苛立ちや敵愾心などといったものは感じ取れなかった。晴子さんを責めている様子もない。ただただ淡々と言葉を連ねるだけである。


「だが、先程はっきりしたな。祥三郎を守れるのは、君ではなく、私だということが」

「はうぅ……」

 晴子さんは小さく言った。

「そう……非常に……非常に悔しいですが……、私がいくら引き止めても、祥三郎様のお心までは手に入らないのですね。私は祥三郎様を傷つけるばっかりで……肝心な時にお助けできなくって……」


 ああ、そんな風に自分を責めないで欲しい。

 晴子さんは何も悪くないのに。悪いのは僕の方なのに。


「ただ、君は狡くなどない」


 エデルが低い声で続ける。


「持てる武器を全て使って戦うのは、誰に恥じることもない、立派な行いだ。実際に君は、君の願いを叶えるために、全身全霊をもってして戦った。だから祥三郎も、君のことを大切に思っているはずだ。君のことを、素敵な女性だと言っていたよ」

「……。そう、でしょうね。分かります。祥三郎様は優しいお人です。いつも、私の幸せを思ってくれていました。……私も、好きな人には幸せになって欲しいと願っています。たとえそれが、自分の思い描いた形ではなかったとしても」

「……そうか」

「四ヶ月前は、自分がこんな結論を出すとは思っていませんでした。漠然と、何かが起こる予感しかしませんでした。エデルさんのことも、祥三郎様をたぶらかす悪いお人なのだろうとばかり思っていました。でも、どうしてでしょうね。こうしてお話ししてみれば、あなたが良い人であることが分かります。あなたは祥三郎様を幸せにできるお人だと。……私は、ここで手を引くべきだと。祥三郎様の、幸せのために」

「……」


 少しの間、静寂が辺りを包んだ。衣擦れの音がして、晴子さんがまた口を開く。今度はいくらか吹っ切れたような口調だった。


「運の良いことに私は、エデルさんほどではありませんが、特別な力を持っています。これから私は、この力で適切な入婿を選んで、家業の商売でも頑張るとしましょう。十年も経てば、また戦争があるはずですし、薬などの需要は充分に見込めます。その時に備えて、諸々の準備を進めたいと思います」

「おや、随分と切り替えが早い」

「いえ……気持ちの整理はちっともついておりません。ですが、今日が期限だと、私の勘が言っているのです。これより先に、希望は持てないと……」

 晴子さんの声がまたも沈んでいく。

「そういうものなのか」

「ええ。ですからエデルさん、あなたは、私がして差し上げられない分、必ず祥三郎様を幸せにして下さい。……でなければ、平手打ちの刑ですからね」

「ほう。君が、この私に、平手打ちを」

「はい。それはもう、きつい一発を」

「ふふ、それは面白いな」

「本気ですからね……!」


 この辺りで僕はようやく気力を取り戻したので、頑張って瞼をこじ開けた。

 枕元の椅子に座っている、黒いジャケットを着て琥珀のブローチをつけたエデルと、萌葱色の着物を纏って海老茶色の帯を巻いた晴子さんを見上げる。


「……エデル……晴子さん……」

「……えっ? 祥三郎様、お目覚めに……!?」


 晴子さんは顔を赤くして、両手を頬に添えた。その目は微かに充血しているが、涙を流した様子はない。いつもの、物腰柔らかでありながら毅然とした、鹿児島乙女かごんまおごじょだ。


「ももも、もしかして、今の聞いてらしたんけ!?」

「あ、はい、聞いていました……。その、晴子さん。エデルと喧嘩をするのはやめた方がいいと思います」

「ええと……そいは、エデルさん次第でございもす」

「……そうですか……」


 僕は口ごもった。


「あの、すみません。僕は自分の都合で、晴子さんを傷つけてしまって……本当に申し訳ない」

「いいえ」


 晴子さんはきっぱりと首を振った。


「どうか謝らないでください。祥三郎様にわざと罪悪感や後ろめたさを感じさせたんは、他でもないこの私自身です。じゃっどん、私は気がつきもした。こんまま私たちが結婚しても、誰も幸せにならないということに。ですからせめて、祥三郎様にだけは幸せになって頂きたいと思っちょりもす。そのように、エデルさんと話していたところです」

「そう……ですか……」


 そう言われても、いたたまれなさが消えるわけではない。しかし晴子さんは、構わず話を続けた。


「ですから祥三郎様、エデルさんとどうかお幸せになりたもんせ。私は私で、家業を陰ながら支えることで生きていこうと思っておりますので、ご心配なく。……そいでは、私はお邪魔でしょうから、この辺で失礼さしていただきもす。祥三郎様、どうぞお大事に、……お幸せに」

「あ……晴子さん」

さいなあさようなら、祥三郎様」


 晴子さんは最後に少し湿っぽい口調でそう言うと、深々とお辞儀をし、からからと下駄を鳴らして病室を去った。

 もう、再び会って話すことはないであろうその背中を、僕は哀しげな気持ちで見送ることしかできなかった。

 エデルもまた、少しだけ寂しそうに晴子さんの背中を見ていたが、晴子さんの姿が見えなくなると、ゆっくりとこちらに向き直った。


「……祥三郎。容態が落ち着いたら、話し合おう。今後の私たちの生活について」

 見上げるその顔は、静かで落ち着いた、どこか冴えない面持ちであった。

「……うん」

 僕は小さく返事をした。まだエデルに聞きたいことや、話したいことが色々あったけれど、急に強い眠気に襲われたので、やむなく僕は目を閉じた。すぐに意識が、深い眠りに引き摺り込まれていった。

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