深夜に起きた大惨事②

「エデル」

 僕は呼ばわった。

「どうして──」

「すまない」

 エデルは短く言った。

「全員は助けられなかった。祥三郎も頭を打ってしまった。……私の決断が遅かったせいだ」

「何を──」


 盾の向こう側に目をやった僕は息を呑んだ。

 廊下は完膚なきまでに破壊されていた。爆発で犠牲になった人々が折り重なって息絶えていて、床に空いた穴からは彼らの血潮がとめどもなく滴り落ちていた。遺体は手足が千切れていたり、首がもげていたり、もはや誰なのかも判別がつかないほど損傷した肉塊のようになっていたりしていた。人の血の匂いと、人が焼け焦げた匂いが混じって、吐き気と怖気おぞけが込み上げてきた。


「ひっ……」

「先に行け。急いで甲板まで退避しろ。もう間も無くこの艦は沈む」


 はっきりそう言われて、僕の全身が打ち震えた。激戦を経て勝利したばかりだというのに、こんなにも呆気なく自沈するというのか。この戦艦三笠が。

 しかしエデルの言う通りで、廊下がさっきよりも大きく傾き始めていた。艦全体が傾いでいる。どこかで浸水が始まったのだ。


「行くぞ、祥ちゃん。立てるか」

「う……どうだろう」

 僕は立ち上がってみたが、頭に靄がかかったような感覚がして、足がよろよろとふらついてしまう。

「ちょっと今は難しそう。藍さん、山取くん、先に行ってて」

「馬鹿を言うな。肩を貸せ。山ちゃん、手伝え」

「了解」

 藍さんが僕を背負い、山取くんが後ろから僕を支えた。

 ちろちろと残り火が燃えている廊下を通り抜け、なるべく急いで階段を上り、甲板まで脱出する。


 三笠の周りでは、既に多くの船と人手が動員され、消火活動に勤しんでいた。だがもう手遅れだ。三笠は、ど真ん中から猛烈に炎を上げ、周囲に激しい渦を巻き起こしながら、確実に水底へと沈み始めていた。


 みるみる船体が傾いていく。甲板は、もう立ってはいられない角度だ。このままではまずい。落ちてしまえば、いくら水泳の訓練を積んだ僕たちといえど助からない。今まさに三笠が沈みながら起こしている渦に巻き込まれて、脱出できずに溺れ死んでしまう。


 甲板まで避難してきた兵士たちが口々に何か叫んでいる。

「皆、何かに掴まれ!」

「諦めるな! 救助を待て!」

 僕は手すりにぶら下がるようにしてしがみついた。しかし手に力が入らない。近くにいた藍さんと山取くんが、それぞれ片腕を差し出して僕を支えてくれている。重いだろうに、危険を犯してまで僕を助けてくれるなんて……。


「祥三郎! 藍之丞! 孝六!」

 後ろから、エデルの声が飛んでくる。切羽詰まった声音だった。

「君たちだけでも脱出するぞ。捕まれ!」


 艦の傾斜をものともせずに軽々と跳躍してきたエデルは、あっという間に僕を右腕に抱えた。次いでひょいと藍さんを背中に乗せる。藍さんが懸命にエデルの首に手を回してしがみついた。エデルは左腕で山取くんを抱え上げると、ダンッと甲板を蹴った。僕たち四人はふわりと空中を舞った。


「うわあー!」


 月の光と炎の色を受けて煌めく鎧が、真っ黒に渦巻く海面の上を、弧を描いて跳んでいく。

 ガチャン、と見事に桟橋に着地したエデルは、僕たちを丁寧に降ろしたかと思うと、ガクッと地に膝をついた。


「エデル!?」

「やった……今度は何とか……助けられた……」

「気分が悪いの? ひどい顔色だよ」


 ふふ、とエデルは自嘲気味に笑った。


「ヴォータン様の言いつけに背いて、戦場ではない場所に来て人を助けた。私は……今、充分に力を発揮できなくなっている。じきに神性が奪われるだろう」

「そんな……!」

「そんなことより」


 エデルは藍さんと山取くんを見上げた。


「君たち、怪我はないか」

「ああ、問題ねえ」

「はい」

「なら良い。すまないが、少し休ませてくれ。君たちは祥三郎を連れて先に病院へ──うっ」

 エデルは口元に手をやった。

「エデル……!」

 僕はふらつきながらも、必死にかがみ込んでエデルの顔を覗き込んだ。

「どうしよう、エデルに何かあったら、僕は──」

「気にするな。今の私ならまだ……すぐに回復できるはずだ。君こそ早く……」


 エデルが言葉を切った。

 からからと早足の下駄の音が近づいてくる。

 僕は後ろを振り返った。


「祥三郎様!」

 ひどく心配そうに、晴子さんが僕の名を呼ぶ。

「早く病院へ行きたもんせ! 私がお供いたします!」

「ほう……」


 エデルはゆっくりと立ち上がった。赤い髪が潮風に煽られてもみくちゃになっていた。


「察するに、君が祥三郎の許嫁だな」

「ひゃあ!?」

 晴子さんは素っ頓狂な悲鳴を上げた。

たまがったおどろいた!! だいじゃしか誰ですか!?」

「私の名はエデル。祥三郎を助けるために、ドイツから来た」

「はあ、わざわざドイツから……。つまり……」


 晴子さんはどういうわけか、束の間険しい表情になったが、一つ深呼吸をしてエデルを見上げた。


「私は晴子と申します。ご挨拶をしとうございますが、今はとにかく、祥三郎様を病院へお連れしましょう」

「そうだな……病院まで抱えていかなければ」

 エデルは悩まさそうな顔つきで、僕を見下ろした。


「瞬間移動はできないのでありますか」

 山取くんが尋ねたが、エデルはかぶりを振った。

「戦場の気配や特別な道具など、目印となるものが無い限り、知らない場所に飛んでいくことはできない。悪いが君たち、病院まで私を案内してくれないか。祥三郎のことは私が運ぶ」


「いや」

 藍さんが口を出した。

「あんたがいきなり病院に現れたら、今みたいにびっくりされちまう。救助係の人に引き渡した方が面倒を起こさずに済む」

「……そうか。その者たちはどこだ」

「私が呼んでまいります」

 晴子さんが、細く、されども凛とした声で名乗り出た。

「空いた担架を持っているお人が誰か、何となく予測できます。すぐに呼びますから、祥三郎様は安静になさってくださいませ!」


 晴子さんは人混みに向かって駆け出した。その後ろ姿が、不意にぐにゃりと歪んだ。


「うぐっ」


 急速に気分が悪くなっていく。視界が歪み、耳鳴りも酷くなった。頭の中がぐるぐる掻き回されているようだ。


「ごめん、僕、ちょっと、もう、無理かも……」


 僕は立っていられなくなり、あえなくエデルの足元に倒れ伏した。

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