戦争を甘く見ていた③

 ロシアの艦隊を追い払うことに成功した日本海軍は、ひとまず遼東半島に上陸し、戦死者を荼毘に付した。軍楽隊は厳かに葬送行進曲を奏で、海軍軍人たちは弔銃をもって彼らに追悼の意を表した。


 この後しばらく、艦隊は旅順港の警戒を続けることとなる。散発的に撃ち合いなどが起こったが、何もない日は海軍の面々はいつもの日課をこなすこととなった。

 八月十日の戦いが終わってから最初の練習号の時間になり、軍楽隊のみんなは配置についた。こうなるとどうしても天沢さんが定位置に居ないことを意識してしまう。みんな沈んだ表情で、音出しにも力が入らない様子だった。

 僕は隊列から外れ、一歩前に出た。


「駒留軍楽長。少しよろしいでしょうか」

「どうした、森元」

「この度、立派に務めを果たし殉死された天沢二等軍楽手を悼み、無伴奏のフルート曲を作りました。今この場で演奏してもよろしいでしょうか」


 本当は、目立つのは好きでも得意でもない。だが楽器を持ってさえいれば、何も怖くはなくなる。フルートを介してならば、僕はどんな役でも演じられるし、素直な気持ちを吐露することだってできる。


 駒留さんは一つ瞬きをした後、「よろしい」と頷いた。


「ありがとうございます。では、しばしお時間を頂戴します。お聞き下さい──題名は、『浪風の挽歌』です」


 僕はフルートを構え、大きく息を吸い、吹き口に呼気を当てた。


 始めは、地を這うような低音。フルートは高音域を得意としており、低音域を綺麗な音色と充分な音量で奏でるには苦労するのだが、僕はあえてこの音域で曲を書いた。

 ずしりと重い音は、心に重石がのしかかったような気持ちを表すのに適している。短調で遅い旋律は、悲哀と喪失感を演出してくれる。

 そこから音形は徐々に上がり、中音域にまで到達するも、最後にはまた沈むような低音へと戻っていく。どうか安らかに眠って欲しいと、祈りを捧げるかのように。


 演奏を終えた僕は、楽器を左手に持ち、右手で敬礼した。みんなも黙って敬礼で応えた。

 言葉は不要だった。音楽が全てを物語っていた。


 それから僕たちはいつも通り、駒留さんの指示の下、練習を始めた。


 さて、陸軍は旅順の攻略にかなり手こずっているようで、海軍も旅順港から離れられないまま時が過ぎた。時折船を動かして、ロシアの艦隊の残党に対し大砲や魚雷などで攻撃を行う。

 海の上で過ごす僕たちの元には、本国から物資だけでなく、手紙なども届けられた。手紙は大抵まとめて送られてくるので、届いた時にはみんながはしゃいで、艦内は大騒ぎになる。それぞれ自分に宛てられた手紙を受け取った者たちは、親や妻や子からのねぎらいの言葉を読んでは、故郷に思いを馳せている。

 僕のもとには親からの手紙は来ない。兄たちのもとには、行っているかもしれないが。

 まあ、今更そんなことで落ち込んだりはしないし、むしろ来ない方が萎縮せずに済むくらいだけれど──。


「森元、お前にも一通来てるぞ」

「え? 僕に?」


 僕は目をまん丸にして慌ただしく立ち上がった。渡されたのは草花の模様があしらわれた可愛らしい封筒だった。差出人の欄には、高蝶晴子、と記されていた。


「あー……」


 僕は嬉しいやら気まずいやら、複雑な気持ちになった。手紙の内容は、僕の体を心配するもので、ちゃんと食べているか、眠れているか、といったようなことが綺麗な筆遣いでしたためられていた。そして最後に、お帰りをお待ちしております、と。


 新しいお相手を見つけた、と書いてあることをうっすら期待していたが、やはり事はそううまくは運ばないようだ。晴子さんは今でも、僕を待っている。

 僕が生きて帰れる保証なんてどこにもないのに。黄海での戦いで死んだのが、天沢さんではなく僕だった可能性だってあるのに。


 その日の夜、三笠は旅順港内に入って少しばかりロシアの船とやり合った。怪我人は出ず、僕はじっと待機していた。

 エデルが来て、暗がりに隠れていた。戦闘中なら、エデルは僕のそばにいられる。


「エデル。ずっと言えていなかったことがある」

 僕は小声で切り出した。腹に力を込めて覚悟を決めながら。

「どうした」

「僕には昔、高蝶晴子さんという婚約者がいた。ベルリンに行く前に、僕は婚約をお断りしておいた。だからもう縁は切れたものと思っていた。──でもそうじゃなかった」

「ほう」

 エデルは眉を上げた。

「それで?」

「晴子さんは、婚約破棄は無効だって言ってる。僕の父も晴子さんと結婚しなさいと。知らなかったとはいえ、僕はエデルにも晴子さんにも、すまないことをしてしまった」

「ふむ」


 エデルはさほど動揺した様子もなく、腕を組んだ。


「つまり、私には恋敵がいたということだな」

「うん」

「祥三郎はどうしたいんだ?」

「……僕が?」

「当たり前だろう」

「……そっか。そうだよね……」


 僕は暗い海原に目をやった。


「僕はエデルが好きだし、ベルリンに戻りたいと思ってる。でも日本では、父親の決めたことに逆らうのはとても難しい。僕一人の力で断れるかどうか、自信がない」

「……そうか」


 エデルの声音がやや低くなった。


「では私は、祥三郎に私と駆け落ちしてでも一緒に居たいと思ってもらえるように、努力しよう」

「えっ」

「気弱で控えめな祥三郎には、難しい選択かもしれないな。しかし駆け落ちをしない限り、私と君は結ばれないのだろう」

「えっと、まあ、そういうことになる……のかな」

「ワルキューレには、願いの乙女という呼び名もあるそうだ。その由来はもう誰にも分からないけれどね。私は、一人の願いの乙女として、自分の願いを叶えたいと思う」

「……」


 ふふ、とエデルはおかしそうに笑った。


「これまで私はいくつもの戦いに参加してきたが、恋の戦いをするのは初めてだ。面白い。必ず勝ってみせよう」

「恋の戦いって」

「今度、私の恋敵について、もっと教えてくれ。高蝶晴子、だったか? 祥三郎が判断に迷うくらいだ、きっと素敵な女性なのだろうな」

「えっと、まあ、否定はしないけど、その……」

「今日はもう危険はない。私は一度戻る。──また会おう」


 エデルは物陰から姿を消していた。


 それから僕は、晴子さんと手紙のやり取りをしながら、戦闘の合間を縫ってエデルと会話するという、奇妙な生活をすることとなった。それも、四ヶ月ほど。


 季節は冬になり、雪がちらつく日も増えた頃、日本陸軍はようやく旅順での戦いの形成を逆転させた。これは、二〇三高地の占領に成功し、ロシア軍に対し大砲を浴びせられるようになったことが大きい。

 ここまで来ればロシアは総崩れになる。旅順港のロシア艦隊も壊滅に追いやれる。日本海軍は張り切って敵艦に弾を撃ち込んだ。


 ところが十二月十三日、巡洋艦高砂が機雷に接触し、撃沈した。

 海中に設置された機雷に触れて沈没した艦は他にも多数あったが、今回の高砂には、次兄の豊次郎が乗っていた。彼は助からなかったと、僕は聞かされた。


 身内が亡くなったというのに、僕はあまり悲しくなかった。次兄はいつも僕に冷たかった。ただ、まだ僕が幼かった頃には、僕を嘲ったり侮ったりせずに、可愛がってくれたような記憶がある。朧げながらも、その記憶は確かに存在する。だから、少しばかり気が滅入る。


 ──勇敢に戦って死んだ豊兄様は、森元家の誇りだと思ってもらえるのだろうな。


 そんなことを考える僕を乗せ、日本軍は旅順港のロシア艦隊を掃討し終えた。十二月二十五日、僕たちは帰還の途についた。次なる戦いに備え、しばしの休息を得るために。

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