第3章 激戦の海原

第8話

大和撫子は諦めない①

 十二月二十八日、戦艦三笠は広島県のくれ軍港に入港した。港には、鎮守府の関係者や地元の住人たちがこれでもかと押しかけており、大変な賑わいであった。

 僕たち軍楽隊は真っ赤な礼装に着替えて、凱旋の儀式に華を添えた。


 一通り歓待を受けた水兵たちは、久々に日本の地を踏んで感慨に浸っていた。

 演奏を終えた僕もまた例外ではなかった。艦の修理のため、それと戦争の疲れを取るために、呉鎮守府の兵舎に部屋を与えられた僕たちには、しばしの自由時間が与えられた。

 僕は藍さんや琳さんと共に、明るい気持ちで語らいながら艦の階段を降りた。

 軍港の桟橋を歩いていると、人混みの中に、見覚えのある赤い牡丹の髪飾りをつけた三つ編みの娘が、一人で待ち構えていた。


「お帰りなさいませ、祥三郎様しょうざぶろうさあ!」

「うえあーっ!? 晴子さん!?」


 僕はすっかりびっくりしてしまって、二、三歩後ろに下がった。


「ないごてこげんところに……まさか、鹿児島から一人でいらしたんですか!?」

「ですです」


 晴子さんはたおやかに笑った。


「東郷様が呉にお帰りになると、昨日の新聞で読みもした。荷作りは一昨日のうちに済ませちょりもしたんで、すぐに鹿児島を出て来もした。ご無事なお姿をこうして拝見できて、良かったです」

「そ、そうなんですね……。そいで、此処を僕が通っとを、待っちょったがですか……?」

「はい。此処に居れば必ず祥三郎様にお会いできると、確信しちょりもした」

「んんんんん」


 僕は額に手を当てた。


「オイ祥ちゃんや、この子が前に言ってた許嫁の娘さんか?」

 藍さんが横から声をかける。

「うん……」

「そうかー! 初めまして!」

 藍さんと琳さんは揃って敬礼した。

「俺は吉田藍之丞と言います。こいつは外川琳輔です」

 晴子さんは深々とお辞儀をした。

「吉田様、外川様。ご丁寧なご挨拶、あいがとさげもす。私は高蝶晴子ち申します。以後よろしゅうたのみもす」

「よろしくお願いします! 晴子さん、その英吉利イギリス結び、よくお似合いですね」

「ほ、ほんのこてな? そいは……嬉しゅう存じもす。日本は英国と条約を結んじょりもすから、縁起がええち思いもして」

「そうでしたか! そいつは感心しました。しかもお可愛らしくていらっしゃる。祥ちゃんには勿体無いような娘さんだ」

「あらいよー、そげんこつはなかとですよ」


 何故だか藍さんと晴子さんが会話に花を咲かせている。というか、晴子さんのあの一つ結びの三つ編みは、英吉利結びと言うのか。知らなかった。


「そいでは、祥三郎様」

「は、はい」

「少しお時間を頂けもはんか? 二人でお話でもしましょう」

「え、えーっと」


 僕は困惑して、晴子さんと藍さんと琳さんの顔を順々に見た。

 藍さんが僕の荷物を取り上げた。


「行ってやれよ、祥ちゃん」

「あ、藍さん」

「……楽しんでこい」

「琳さん!」

「消灯時間には戻るんだぞー」


 藍さんは僕に手を振りながら、琳さんは僕に背を向けて、二人で兵舎の方に行ってしまった。小さな手荷物だけ持たされたまま、僕は晴子さんと二人きりになってしまった。


「ええー……」

「さあ行きましょう。呉鎮守府の近くには、兵隊さん方のための娯楽施設がたくさんあるそうです。ついでによろっで見て回りましょう」

「あの、……はい」


 僕に会うためだけにわざわざ長旅をしてきた晴子さんを無視するわけにはいかず、僕はやむなく承諾した。すると晴子さんはとても嬉しそうに、僕の手を握った。僕は思わずドキッとしてしまった。


「ほえあ!?」

「うふふ、こちらですよ、祥三郎様」


 晴子さんに手を引かれ、僕は鎮守府を通り過ぎて行った。連れ立っているとどうしても人目につく──物凄く目立つ。演奏会でもないのにこんなに目立つだなんて、恥ずかしくて今にも逃げ出したくなってしまうのに、晴子さんは一向に手を離してくれない。

 少し歩くと、晴子さんの言った通り、行手には賑やかな繁華街が見えてきた。

 主に男衆が行き交う中で、晴子さんの姿は少しだけ異質に見えた。良家の子女らしく、松葉色の矢絣の着物に臙脂色の帯を締め、三つ編みを揺らして歩く晴子さんは、確かに僕などには勿体無いほど素敵な女子であった。

 中には不躾にも晴子さんをじろじろ見る壮年の男性なども居たので、僕はだんだん、晴子さんを庇うような格好で歩くことになった。


「あ、浪花節なにわぶしの演者さんが来てらっしゃるそうですよ」

 晴子さんが急に立ち止まって、寄席らしき建物に添えられた看板を指差した。

 浪花節とは曲師による三味線の伴奏に乗せて浪曲師が語りをする芸の一種である。主に大衆の間で人気の出し物だが、僕は見たことがない。


「試しに行ってみましょう」

「んにゃ、仮にも士族の若い娘さんが、そげんものを見ずとも……」

「あら、たまには羽目を外してみるのも悪くなかとですよ?」

 晴子さんはさっさと二人分の料金を払って建物に入ってしまった。今日の晴子さんは前にも増して強引である。


 中では見物客がひしめきあっていて、狭くて息苦しいほどだった。こういうごちゃごちゃした人混みは苦手だ。

 肝心の演目は「忠臣蔵」であった。途中から鑑賞し始めた僕たちだったが、有名な話なので問題なく聞くことができた。

 七五調に則った語りに合わせて三味線が奏でられる。僕はいつしか吸い込まれるようにして芸に聞き入った。

 浪曲師の節回しはおそらく即興的なものだ。事前の打ち合わせなどもほとんどしていないものと思われる。それにも関わらず、曲師は見事に語りに合わせて三味線を弾いている。速さや強弱も息ぴったりで、何ともわくわくさせられる。これは、僕がこれまで勉強してきたような西洋音楽には無い、独特の文化だ。


 何だかんだで僕は大満足して寄席を出た。近くの茶屋に立ち寄り、晴子さんと一緒に長机に向かい合って座り、みたらし団子と温かいお茶をいただく。

「祥三郎様、浪花節はどげんでしたか?」

「とても良かったち思います」

 僕と晴子さんは互いに感想を伝え合った。晴子さんはおかしそうに笑った。

「さすがは祥三郎です。まこっ本当に音楽やお歌が好きでいらっしゃる」

「そう、ですね」

「軍楽隊でもさぞ活躍されておられるのでしょう? 先の戦いはどげんもんでした?」

「そいは……」


 僕の気分は急激に落ち込んでいった。


「……戦は恐ろしかもんです。僕は仲間を亡くしました。それから豊兄様も」

 晴子さんは息を飲んだ。

「まあ……豊次郎様が……」

「ロシアの艦隊からどっかんどっかん攻撃されて、死にそうになって。音も揺れもわっぜか怖くて……。こげん軟弱なことを言えば、またみんなから叱られてしまいますね」

「……そうでしたか……」

「晴子さん」


 僕は湯呑みを置いて晴子さんを真っ直ぐ見つめた。


「僕は今度こそ死ぬかもしれません。やはり晴子さんとの結婚は……」

「祥三郎様は死にもはん」


 僕は虚を衝かれた。


「ど……どうしてそう言い切れるのですか? 今回亡くなったのは僕と親しい人で、僕と同じ任務についていました。戦場に出る以上、危険は誰にでもありますよ」

「そいは分かっちょりもす。ですが、これは私の勘です。祥三郎様は、絶対に死にもはん」

「勘……」


 普通なら一笑に付すような根拠だが、晴子さんに限っては勝手が違ってくる。戦艦三笠が呉に着くという知らせを新聞で読んだ時点で、長旅の準備を終わらせていた晴子さん。僕が艦から降りるちょうどその時その場所にあやまたず居合わせることができた晴子さん。


「でも僕には……ベルリンで待っている人がいますし……それに、今後はドイツで音楽をやりたいと、強く思っているんです」

「そうですか……。でしたら私は、祥三郎様に、そのお方ではなく私を選んでいただけるよう、気張りもす」

「……えっ!?」

「祥三郎様が呉にいる間、私もここの宿に泊まって過ごしもす。祥三郎様がまた出征なさる時は、必ず見送ります。そしてお帰りを待ちます。いつまでも」

「そ、そいは……やめた方がよかとですよ。いえ、やめてください。困ります」

「んにゃ、天地がひっくり返ってもやめもはん。……今日はもう遅かで、私は宿に戻りもす。またお会いしましょう。では」

「わわ、ちょ、ちょっと待って」


 僕は晴子さんを引き留めた。


「もう暗くなっていますし、一人では危ない。僕が宿まで送り届けましょう」

「ほんのこてな?」


 晴子さんは花が咲いたように笑った。その可憐な笑みに、僕は不覚にも、気持ちがぐらついた。──ほんのちょっぴりではあるものの、確実に。


「嬉しゅうございます。それなら、私は人力車を雇いますで、……乗るところまで、ご一緒していただけますか?」

「分かりました」


 僕と晴子さんは連れ立って繁華街を出た。無事に晴子さんを見送った僕は、凹んだ気分で兵舎に向かった。

 晴子さんの想いをきっぱりと突っぱねられない自分の弱さが、あまつさえ決意が揺らいでしまった自分の情けなさが、悔しかった。

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