戦争を甘く見ていた②

 連合艦隊がロシアの艦隊を再び発見したのは、最初の撃ち合いが止んでから約二時間後のことであった。


 海と船とを激震させる砲撃戦がまた始まる。僕がいつでも負傷者を運べるように待機しつつ上空を窺っていると、たちまちエデルが姿を現して、上空を翔け出した。


 時には海面すれすれを跳び、時には煙突の上げる黒煙の中を駆け巡るその姿は、勇猛果敢であると同時に、美しかった。


 しかしじきに、三笠にも砲弾が当たり始め、僕は忙しくなった。琳さんと共に担架を担いでばたばたと走る。怪我人の止血などの応急処置も訓練通りに手早く行う。

 正直、かなり怖かった。

 爆発音がひっきりなしに鳴り、戦艦全体が大きく振動し揺れ動く中で、苦痛に顔を歪める怪我人の手当てをする。緊張するし、恐怖だってある。

 だが、手を止めている暇はない。目の前の仕事に集中することで、何とか恐怖心を和らげていく。


 止血を終えた怪我人を琳さんと共に病室に担ぎ込むと、そこには顔色を真っ青にした藍さんが突っ立っていた。


「どうしたの? ちょっと急ぎだから、通してもらいたいんだけど……」

「天沢さんがやられた」

「……? え?」


 咄嗟に意味が取れず、僕は首を傾げた。じわじわと藍さんの言葉を理解した僕は、完全に息が止まった。立ち尽くしている間に、運んでいた怪我人が寝台に移される。


「……やられた、って言ったの? 天沢さんが?」

 僕はかすれた声で聞き返した。

「ああ」

「息はあるの?」

 藍さんはかぶりを振った。

「敵の弾が着弾した時にちょうど巻き込まれたんだ。頭の三分の一ほどが欠損していた。即死だっただろうな」

「そっ……」


 僕の脳裏を、天沢さんとの思い出が素早く通り過ぎていった。どの記憶でも、天沢さんは笑顔で、優しくて、親切で、ひたむきで──。


「そんな。嘘でしょ……」

 僕は両手で口を覆い、病室の床に膝をついた。

 オイ邪魔だ、どかんか、と言われて立ち上がったが、足の感覚が無い。


 その後のことはほとんど覚えていなかった。


 遺体を安置する場所への立ち入りは許可されなかった。交戦の最中に戦死者を顧みる暇などは与えられなかった。僕は天沢さんのことに思考のほとんどを囚われながら、ただただ機械的に任務をこなした。


 一時間後、敵の主力艦「ツェサレーヴィチ」にこちらの弾が当たり、ロシアの艦隊は大きく統率を乱した。折しも日が暮れる頃になり、戦艦三笠の戦闘行動は終了した。東郷中将は駆逐艦による夜襲にて戦闘を継続することを命じた。


 僕は殉死者が収容されている部屋に赴き、天沢さんの遺体を見つけ、声を立てずに涙を流した。天沢さんの全身には釣床に使う白い布が被せられていた。僕はそれを少しだけどけて、天沢さんの手を握った。

 煌めく結婚指輪が嵌った手は、すっかり冷たくなっていた。繊細な指遣いで流麗に旋律を奏でていた手。楽器を支える時に比重がかかる箇所だけ固くなった、フルート奏者特有の手。

 ──奥さんもお子さんもいらっしゃるのに。さぞかし無念だったろう。


 僕は静かに合掌して、つと立ち上がった。甲板に出て、真っ黒な夜の海をぼんやり眺める。

 爆発音が断続的に聞こえた。まだ戦闘は続いている。

 いつの間にか隣にエデルが立っていて、黙ってそばに寄り添ってくれていた。


「……天沢さんが亡くなったって」

「そのようだな。私の力が及ばぬせいで、祥三郎の恩人を守れなかった。すまないことをした」

「エデルは何も悪くないよ」

「そうか」

「僕は、戦争を甘く見ていた」

 沈み切った声で、僕は言った。

「人がどんな風に死ぬか、ちゃんと考えようとしなかった。自分の仲間は無事なはずだって、根拠もなく信じ込んでいた……」


 すっかり落ち込んでいる僕を見て、エデルは自嘲的に笑った。


「私は駄目だな。半分、人ではないからだろうか。戦場で人が死ぬのを見ても、何とも思わない。ワルキューレとして賜ったお役目のことしか考えられない」

「……そうなんだ……」

「ああ、そうだ。ただただ、そいつが勇敢に戦って死んだのかどうかを判断して、選ばれた者をアインヘリャルとしてヴァルハラに連れて行くのみ──だから、戦死者のことを歓迎こそすれ、悼むことはしてこなかった」


 僕の頭のてっぺんに、温かい手のひらが触れた。エデルが僕を撫でてくれている。


「祥三郎は優しい。少し臆病なところがあるから、アインヘリャルにはなれなさそうだが。そういう所も含めて好きだよ」

「えっと……どういう意味?」


 僕はようやく海面から目を上げて、エデルの灰色の瞳を見た。エデルは目線を逸らすことなく、じっと僕を見つめ返した。


「祥三郎は私にないものを沢山持っている。私の知らなかった魂を持っている。君は軍人であるはずなのに、いつも幸せそうに、音楽のもたらす楽しさや、生きる喜びを語る。そして、戦で仲間を喪ったことを嘆き悲しみ、涙を流す。そういう心を持っている。──君は美しくて尊い人だよ、祥三郎」

「そうかな」

「私はそう思う」

「そっか。それなら、そうなのかもしれない」


 エデルは海風に髪をなびかせて、海の方を振り返った。いつの間にか、爆発音は途絶えていた。


「──駆逐艦が仕事を終えたようだな。この海は戦場ではなくなった。ヴォータン様のお定めになった掟があるから、もう私はここには居られない」

「……うん」

「また会おう、祥三郎」


 エデルは音もなく居なくなってしまった。

 僕は海の底に届きそうなほど長く深い溜息を吐き出して、寝室に向かった。天沢さんの居なくなった寝室に。


 藍さんと琳さんは先に戻っていたようだ。釣床がいくつも部屋にぶら下がっているが、天沢さんの分は無い。二人ともさすがに意気消沈して、動かずにじっと座っていた。


 僕は黙って小さな戸棚の前に向かい、ペンと五線譜を取り出した。棚を机代わりに、ガリガリと紙に音を記していく。


「どうしたんだ、祥ちゃん」

 藍さんが覇気の無い声で問う。

「作曲。……天沢さんに挽歌を贈ろうと思って」

「なるほどね。そいつは、良い案だな」


 僕はランプの光を頼りに、集中して音符を連ねて行った。その間、琳さんだけでなく、藍さんも言葉を発することはなかった。


 天沢さんとは、もっと話したいことがあった。そう思いながら、僕は黙々とペンを走らせた。もう再び語り合うことはできない、そんな悲愴な気分を音符に乗せる。

 ……いや、本当はこんなものに意味なんてものはない。どれほど気持ちを込めて書いたとしても、天沢さんがこの曲を聞くことはないのだから。こんなものは、残された僕たちが、悲しみを乗り越えるのに少し役に立つだけだ。ただそれだけのものなのだ。

 また涙がこぼれて、インクが少し滲んだ。


 やがて消灯時間になって巡検の兵が回ってきたので、僕はやむなく作曲を中断し、道具を仕舞い込んで釣床に身を横たえた。

 戦争とは、僕が思っていたより遥かに、悲しく痛ましいものだった。そしてそれ以上に、無益極まりないものだった。戦ったところで、誰も幸せにならない。味方も、敵も。

 その事実を噛み締めながら、僕は目を瞑った。

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