第7話

戦争を甘く見ていた①


「祥三郎、危ない!」


 エデルの鋭い声が飛んできたかと思うと、僕はエデルに左腕で軽々と抱え上げられて、ひらりと宙を舞っていた。丈夫な銀色の甲冑に締め上げられて、少し痛い。

 下を見ると、さっきまで僕がいた場所に、高波が打ち上がり、そして引いていった。もし巻き込まれていたら、今ごろ僕は海に落ちていただろう。


 エデルは甲板の上にストンと華麗に着地して、僕を優しく下ろしてくれた。周りの兵たちに変に思われやしないだろうかと僕は辺りを見回したが、みんな戦闘に忙殺されて僕どころではないらしかった。


「気をつけるんだ」

 エデルは張り詰めた声で忠告する。

「砲弾が海に落ちただけで海面はあんなにも揺れる。波にさらわれて死んだら許さんからな」

「エデル、でも、何で」

「話は戦闘が終わってからだ! この艦が沈められては困る。私が艦隊ごと守護しなければ。──死ぬなよ、祥三郎!」


 エデルはそう言い置いたかと思うと、一瞬にして高く跳び上がり、目の前から消えてしまった。


「エデル!」


 ──確かにエデルは、金貨の持ち主が危機に陥ったら指輪が光ると言っていたし、ワルキューレは戦場であればどこへでも移動できるとも言っていた。

 しかし、エデルの言う加護がこんな形だったとは、思いもよらなかった。


 戸惑っている僕を、激しい振動と爆音が襲った。僕はびくっと体を震わせた。──あちらの方でまた、怪我人が出たかもしれない。僕は走って、音のした方へとまっしぐらに向かった。


 救護活動に勤しみながら、僕は、艦の上を自由自在に跳び回るエデルの姿を度々目にした。

 エデルは黒煙の吹き上がる連合艦隊の上空で槍を振るっては砲弾を打ち返し、帆柱を足場にして更に空高く飛翔し、消えたかと思えば現れて、とにかく神出鬼没に目まぐるしく活躍して回っていた。

 砲弾の秒速は三百メートル以上あるはずで、音速を超えていることも多々あると思われるが、どうしてエデルは逐一反応できているのだろう……などと考えるのは野暮だ。何せ彼女はワルキューレなのだから、それくらいの奇跡を起こすことなどお茶の子さいさいなのであろう。


 艦を足場に、海鳥のように宙を舞う。真夏の陽光を浴びて鎧が煌めく。風の中で赤い長髪が振り乱れる。


 僕の恋人は何と勇猛果敢で格好良いのだろう。改めて惚れ直してしまう──などと、感慨に浸っている場合ではなかった。

 とかく今は、きびきび働かねばならない。一人の気の緩みが大惨事に繋がりかねない。それが戦争というものだ。

 統率を乱してはならない。規律に従うこと以外は考えるな。兵たちの動きを邪魔するな。余所見などせず、訓練通りに、ひたむきに任務に当たるべし。

 そのことが僕には少し窮屈に感じられたのだが、僕がフルートに出会えたのは紛れもなく海軍のお陰なのだから、お役目をきっちり果たすのは当然のことだった。


 戦闘は、砲撃開始から約二時間に渡った。やがて、ウラジオストクへと逃げ延びようとするロシア艦隊との距離が開いてしまったため、砲撃は一時中断となった。


 攻撃が止み、怪我人をみんな搬送し終わって、僕たち救護隊はほっと一息ついた。

 日本の連合艦隊は、ロシアの艦隊に追い縋るべく、全速力で海上を進んでいる。


 僕は壁の陰にこっそりと身を寄せた。疲労困憊とまでは行かないが、本格的な戦闘が一度止んだこの隙に、少しでも体力を回復しておきたかった。

 藍さん、琳さん、天沢さんなど、たまたま付近にいた軍楽隊員も集まってきた。


「艦が敵に追いついたら、また大わらわになるな」

 藍さんはまだ緊張が抜けない様子で言った。他のみんなも似たようなものだった。

「ところで森元くん」

 天沢さんが僕に話しかけた。

「はい?」

「さっきから空中を飛び回っていた赤い髪の娘さんは誰かな? あんな真似をできる人なんて、初めて見たよ」

 僕は愛想笑いをしたまま硬直してしまった。

「あの、えーっと、それはですね」

「私のことか?」


 エデルが不意に僕たちの目の前に現れた。その背丈はその場にいる兵たちの誰よりも高い。銀の鎧は傷一つなく、陽光を浴びてぴかぴかと輝いている。


「わっ、びっくりした」

 他のみんなが仰天して恐れ慄く中、天沢さんはやや目を見開いた程度で、比較的平然としていた。

「あなたは誰ですか? 森元くんと仲が良いように見えましたけれど」

「私はエデルトラウデ・エリオンス。ここには、恋人の祥三郎を助けに来たんだよ。ワルキューレだから、戦うのは得意だ」


 どよどよ、と更なる驚きの声が上がる。いついかなる時も無表情な琳さんでさえ、口が半開きになっていた。

 そんな中、天沢さんだけが感心したようにしげしげとエデルを見ている。

 僕は今の今まで、天沢さんがここまで豪胆とは知らなかった。いや、どちらかというと、柔軟で寛容と言うべきか。


「ワルキューレって、ワーグナーの『ニーベルングの指環』に出てくるような?」

「そう思ってくれて構わない」

「へえ、凄いなあ」

「ふふ。君、ちっとも狼狽えないね。名は何と?」

「天沢正巳。森元くんと同じ、フルート奏者ですよ。森元くんの方がうんと優秀ですけどね」

「ほう、君が正巳か。祥三郎から話は聞いているよ。とても気の良い先輩がいるとね」

「そうだったんですか? あはは、何だか照れちゃうな」


 そんなことを話しているうちに、何事だ、と上官の怒声が聞こえてきた。みんなは慌てふためき、揃ってビシリと敬礼をした。


「貴様ら、こんな時に騒ぐとは──」

 顔を出した上官が、エデルの姿を見て凍りついた。エデルはガチャンと鎧を鳴らして上官に向き直った。

「どうも。エデルトラウデ・エリオンスだ。以後よろしくな」

「な、な、な……」


 そういえばエデルはさっきから日本語で話しているな、と僕は今更ながら気がついた。ワルキューレは各地の戦争に首を突っ込む役割を担っているそうだし、元から誰とでも話が通じるようにできているのだろうか。 


「何だ貴様は! いつからこの艦に乗っていた!」

「私はワルキューレだ。この艦にはさっき来たばかりだよ」

「わ、わる……? さっき? ……訳の分からんことを言いおって! さてはロシアの諜報員だな!? 即刻拘束する!」

「おっと、それは困るな」


 エデルはパッと姿を消してしまった。


「なっ──」

 上官は白目を剥いて、卒倒した。

「おっと」

 天沢さんが急いでその身を受け止める。僕たちは顔を見合わせた。

「どうする? 病室に運ぶ?」

「いや、怪我人が優先だろ。普通に寝室に連れて行ってやろうぜ」

「それがいいな」


 上官を寝室に運び込み、釣床を用意して寝かせた僕たちは、少しの間だけ会話をした。


「いやあ、思ってたより百万倍は勇ましかったな、祥ちゃんの恋人ってのは」

「うん……ここまで来てくれるとは、僕も思ってもみなかったよ」

「……瞬間移動ができるとは、聞いていない」

「言ってなかったからね……。こんなの、信じてもらえないだろうと思って」


 しかし今は交戦中。上官の言う通り、無駄口を叩いている暇はない。僕たちは怪我人の治療の補助や濡れた甲板の掃除など、人手の足りないところに散り、じきに来る可能性のある二度目の砲撃戦に備えた。


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