フルート吹きの帰郷②

 一月も下旬だと言うのに、鹿児島はかなり暖かい。僕は襟巻きと手袋を外して黙々と歩いた。

 久方ぶりに見知った道を歩いたところで、懐かしいとか安心するとか、そういう感慨はほとんど湧いてこない。僕は家が苦手だし、地元のことも特に好きではない。


 鬱々とした気分で歩き続けた僕は、到着した実家の立派な門の前で、はたと緊張して立ち竦んだ。

 家族には何と言おうか。

 まずは父に会って、正座をして、それから、ええと……。ああ、帰り道は先行きを憂えて嘆いているばっかりで、身内にどう挨拶をしたものか考えておくのをすっかり忘れていた。いざ久しぶりに父親の前に座ったら、萎縮してしどろもどろになってしまうと分かっていたのに。これだから僕は駄目なのだ。自分で自分が嫌になる。

 逡巡しているうちに、門扉が開いた。箒を持った女性が一人、門から顔を覗かせる。


あらいよあらまあ! 祥三郎様しょうざぶろうさあ!」

 僕は詰めていた息を少し吐き出して、体の力を抜いた。

「おさきさん……。ただいま戻りました」

 お咲さんこと鈴木咲は、実家の森元もりもと家に仕える女中であり、僕の数少ない味方でもある。


「お戻りなさいもんせ! まこて、おやっとさあお疲れ様でございもした! お体の具合はどげんな?」

「大丈夫です。ありがとうございます」

「まあまあ、えんじょ遠慮せんと、ごんごとはやくお入りやんせ。今ちょうど、晴子様はるこさあがおいでじゃっで。お茶ば出しもすで、よろっで一緒に一息つきたもんせ」

「……えっ?」

 思いもかけない言葉を受けて、僕は棒立ちになった。

「晴子さんが? うちに?」

「ですです。晴子様は、祥三郎様のお戻りをずうっと待っちょられもしたがよ。じっぱ立派なおなごじゃなあ」


 何だか猛烈に嫌な予感がしてきた。

 もしかして、事態は僕が思っているのとは真逆に進行しているのではないか。

 ただでさえ憂鬱な帰郷であったのに、突如としてとんでもない厄介ごとまでもが持ち上がってきたような……。


 しかしとにかく、客人がいるならば先に挨拶せねばならない。ぐるぐると逆巻く焦燥感と不安感を抱えながら、僕は靴を脱いで家に上がった。

 どっさり抱えた荷物を部屋に全て下ろし、フルートとピッコロのケースをそれぞれ丁寧に置いてから、畳に座って長々と息を吐く。その後、軽く身だしなみを整えると、お咲さんの後をついて廊下を歩き、客間に足を踏み入れた。


 静かに座布団に座っていた娘が、ぱっとこちらを向いて笑顔になった。

「お帰りなさいませ、祥三郎様! お疲れのところ押しかけてしまって、まこてすみもはん」

 彼女は僕の聞き慣れた声でそう言った。僕は多少面食らった。


 目の前の娘の、どこか切なささえ感じさせる瞳や、その下の泣きぼくろ、軽く引き結んだ口元、小柄な体躯──間違いようもなく、彼女は高蝶たかちょう晴子その人である。

 だが僕が国を出る前と比べて、彼女の印象はガラリと変わっていた。

 高蝶晴子と言えば、髪を日本髪に結い、慎ましやかな着物を着て、純然たる薩摩弁を話す、古式ゆかしい薩摩乙女さつまおごじょであったはずだ。

 しかし今の彼女は、髪を一本の三つ編みにまとめ、若竹色と生成色の棒縞の着物に赤い帯と赤い牡丹の髪飾りを着け、標準語混じりの鹿児島弁を話す──言うなれば今をときめく鹿児島乙女かごんまおごじょであった。


 僕が驚いているのを見て取ってか、晴子さんは頬を赤らめて三つ編みの髪に触れた。

「あの、こ、これ、ハイカラ過ぎましたでしょうか。妹が、ヨーロッパ帰りの殿方に相応しい格好をするよう言いもして……。うぅ、ちっとげんねちょっと恥ずかしい……」

「んにゃ、そういうこつではなかとですが……。あの、よくお似合いです」

「まあ……! あいがとさげもす」


 京都からの帰途では、もっと派手な花柄の着物や袴姿の婦女子を見てきたものだから、晴子さんの格好を特に奇抜には感じなかったし、これが彼女なりの精一杯のおめかしであることは充分に伝わってきた。

 だが問題はそこではない。

 僕は腹にぐぐっと力を溜めて、こう切り出した。


「晴子さん。僕は国を出る前に、貴女との婚約をお断りしましたよね」

 晴子さんは遠慮がちに首肯した。

「ですです」

「ならば、ないごてどうして……」

じゃっどんですが、森元家の御当主様は婚約破棄を許可しておられもはん。婚約はまだ続いちょりもす」

 僕の言葉を遮って放たれた晴子さんの言葉に、僕は唖然とした。

「……はい?」 


 いや、確かに父からは、婚約破棄について一言も貰ってはいなかったが、父が無口なのはいつものことなので気にしていなかった。

 だが父が意図的に僕の申し入れを黙殺していて、僕に無断で婚約が継続していたとなると、只事ではない。


「ですから私もそのつもりで、祥三郎様を思うてお手紙を送りもした。住所もアルファベートで書きもした。あの、届いとりもしたでしょうか。お返事が頂けもはんでしたで……」

 晴子さんは細い眉を八の字にして寂しげに微笑んだので、僕は慌てて訂正した。

「んにゃ、お返事はちゃんと出しましたよ。『お気持ちはありがたいですが、先日お話しした通り、結婚のお約束は致しかねます』と。その後も三通ばかり送りました」

んだもしたんなんですって!?」

 晴子さんは本気でたまげた様子だった。

「私、そげん手紙は受け取っちょりもはんが!?」

「え!? そ、そんなはずは……。何かの手違いでしょうか? 住所はきちんと書きましたのに」

「ど、どげんこつでしょう……」


 僕と晴子さんは束の間、訳も分からず互いを見つめていた。そこへ、緑茶と茶菓子を出しに来たお咲さんが、さらりととんでもないことを言った。

「そいならきっと高蝶家ん方々が、晴子様に見られん内に、お手紙を捨てやったんじゃなかとです?」

 コトンと置かれた湯呑みには目もくれず、晴子さんは口を手で覆い、僕は頭を抱えた。

「ええーっ!? ほ、ほんのこてな!?」

「そ、そ、そいは……! もし本当だとしたら……わっぜか大変なこつことだがよですよ!」


 もちろんお咲さんの言葉は推測に過ぎないが、如何にも有り得そうな話ではあった。何しろ森元家と高蝶家は、僕たちの婚約に非常に乗り気だったのだ。


「あああ、あんの馬鹿すったれお父様! ないしちょっとよ! ああ、困りもした……私は……私は……」

 晴子さんはしばし激しく動揺していたが、呼吸を整えて落ち着くと、きゅっと拳を握り、しっかりした声で僕にこう言った。

「……お手紙んこつは、これから家ん者に確認しもす。じゃっどん、祥三郎様……これだけは先に確認さして頂きます」

 彼女は潤んだ黒い瞳でおずおずと僕の顔を見た。

「祥三郎様は、私との結婚はお嫌ですか? 私んこつは、好きじゃなかとですか?」

「んんんんん」

 僕はすっかり参ってしまって、渋い顔をした。

「必ずしも、そういうこつじゃなか……です。でも僕には、その……」

 言い淀む僕に、晴子さんは身を乗り出して言い募った。

「そいなら、ないごてお断りになっとです? 訳を説明してくれもはんけ? こんままでは、私は納得がいかんです。私、こん四年間ずっと、祥三郎様のお帰りをお待ちしちょったがですよ……?」

「んんんんん」


 晴子さんの言い分は尤もだったし、僕も彼女の気持ちを無碍にすることなどできなかった。若い娘の四年間を棒に振ってしまった罪は重い。僕は悩ましさのあまりぎゅっと目を瞑った。

 瞼の裏に、ガス灯の光の下で夜風になびく豊かな赤い髪が浮かんだ。

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