海征く楽師と願いの乙女
白里りこ
第1章 帰還と記憶
第1話
フルート吹きの帰郷①
轟くような寒風の音がする。
彼女との記憶が霞んでいく。
僕は見渡す限り氷雪に閉ざされた湖上を、馬に引かれて橇で進んでいた。
純白の雪の合間に、澄んだ蒼色の氷が覗く。そんな神秘的な絶景も、僕の心を覆い尽くす憂愁を晴らすことはない。
一歩一歩、離れていく。彼女との距離が。彼女と過ごした日々が。彼女との大切な思い出が。
一歩一歩、近づいていく。重苦しい現実に。残酷な末路に。耐えがたく不穏な未来に。
それが虚しくて、切なくて、恐ろしくて、体の芯まで冷えていくようだった。寒さと悲哀がごちゃ混ぜになった苦悩が、耐え難い痛みを伴って僕を襲う。僕は襟巻きに顔をうずめた。
ここは、シベリアの大地で旅人の行く道を阻むバイカル湖。ロシア帝国がシベリア鉄道を敷設するに当たって苦労している難所だと聞く。バイカル湖を迂回する線路はまだ敷けていない。そのため通常は船に乗り換えて湖を渡り、次の駅へ向かうそうだが、今年の冬はあまりにも寒くなったために湖面の氷が非常に分厚く、砕氷船ですら太刀打ちできない。よって今季限りは、馬を頼ることにしたという。
お陰様でひどい寒さだった。
大事な荷物を腕にしっかと抱えて、僕は心細さに耐えた。共に橇に乗っている乗客が何か話しかけてきたが、ロシア語を勉強していない僕にはさっぱり分からなかったので、ただ首を横に振ってやり過ごした。愛想笑いをするほどの気力すら僕には残っていなかった。ドイツ語だったら、まだ何か気の利いたことを言えたかもしれないが。
ベルリンに留学していた僕は、日本政府から緊急の帰還命令を受けたので、こうしてモスクワ発のシベリア鉄道に乗って、大陸の東端にあるウラジオストクを目指している。
今の情勢でロシア国内を横断するのは危険なのではないかと思ったが、ベルリンへ渡った時の経路を逆走して蒸気船でイタリアからスエズ運河を通りインド洋を回って何やかやで約一ヶ月もかけて帰国するのでは、遅すぎると言われた。
予定に間に合わなくなると困るので、身分を文官と偽ってでもシベリア鉄道に乗車し、二週間程度で帰国するよう、公使館から要請されている。
そう、僕は文官ではない。日本海軍に所属している軍人である。とは言っても戦闘要員でもない。軍楽隊という特殊な立場で、行進曲などの演奏により仲間の士気を上げるのが、主要な任務である。中でも僕の担当楽器はフルートおよびピッコロだった。
初めて楽器に触れて以降、めきめきと頭角を現した僕は、遂にベルリンにある音楽大学に留学することになった。そこで四年ばかり忙しく過ごしていたが、昨今の情勢悪化に伴い、即刻帰国し海軍の任務に戻るようにとのお達しがあったという訳だ。
できることなら、彼女と一生を添い遂げるべく、いつまでもベルリンに留まっていたかった。国籍を変える覚悟だってしていた。それなのに、こんなに突然、彼女の元から引き剥がされることになるなんて。
地平線まで続くようなだだっ広い雪景色の中に放り出されて、誰と話すでもなく一人で厳寒に耐え忍んでいると、嫌が応にも寂しさがしんしんと募って、泣きたいような気持ちになってくる。
休憩を挟みつつ、ようやく湖の向こう岸に到着した僕たちは、慎重に橇を降りた。重い足取りで、ざくざくと雪を踏んで掻き分けながら駅に向かう。
ここからはしばらくは、機関車に乗るだけでいい。途中で東清鉄道に接続するくらいで、橇の世話になることはもう無かろう。
僕はポウポウと汽笛を鳴らす汽車に足を踏み入れた。客室にはストーブが焚かれていたので、僕はそそくさと近づいて暖を取った。
ベルリンの日本公使館は、僕の軍楽師としての、つまり准士官としての立場を鑑みてか、二等の乗車券を手配してくれていた。車両に設けられた部屋には二段ベッドが二つ。つまり僕は知らない人たちと四人で過ごすことになるのだが、もっとぎゅうぎゅう詰めにされる三等の車両よりは、遥かに待遇が良い。
同室の人間は、三人全員がドイツ語も日本語も分からないようなので、僕は挨拶以外は特段何も喋らず、ストーブから離れて椅子に座った。胸ポケットから一枚の金貨を取り出し、窓から差し込む陽光に当ててよくよく眺める。
「君にはお守りとしてそれをやろう。戦場に持って行け。そうすれば私が加護を授けてやる」
灰色の目で僕を見下ろしながら、彼女はそう言って僕の手にこれを握らせた。僕のために特注したという、世界に一枚だけのお守り。僕が彼女に思いを馳せるよすが。金貨の片面には林檎の絵とそれを丸く囲うルーン文字、もう片面には葉っぱの絵とそれを囲うルーン文字が描かれている。
「必ず生きてここに戻って来るよ」
そう約束した時の僕の気持ちに偽りは微塵も無いが、果たして本当に再びドイツの地を踏めるかどうか。何せ、僕がこれから従軍するよう命令されている戦争は、かつて僕が新米だったために参加しなかった日清戦争の時とは訳が違う。
戦う相手は、列強にその名を連ねるここ、ロシア帝国。広大な領土、豊富な資源、屈強な軍事力、最新の技術力──全てを兼ね備えた西洋の大国だ。
日本軍など瞬きの間に捻り潰されて全滅し、日本国の名は地図上から消えてなくなるのだと、ほとんどの西洋人は信じて疑っていない。
少なくとも僕がベルリンで知り合った人々は皆、僕が戦艦ごと海の底に沈みに行くものと決めてかかって、悲しみに暮れていた。僕ごときの命を惜しんでくれたのだから、それはそれでありがたいことではあったが。
……もしこの
僕は金貨を胸ポケットに仕舞った。これは他でもないあの人がくれたお守りなのだから、何か人智を超えた魔法のような効果があるのはまず間違いない。これを持ってさえいれば、僕が九死に一生を得るという奇跡も、あり得る話になってくる。
希望の光はまだ、完全に消え失せたわけではない。
汽車はガタンガタンと大きく揺れながら走っている。ひたすら東へ、まっしぐらに。帰りたくもない祖国への距離がぐんぐん縮まり、ベルリンからの距離はいよいよ遠ざかり、もうどうしたって取り返しがつかない。
黙ったまま、狭苦しくて息の詰まる車内で過ごし続け、幾日もが経過した。僕はようやく、鉄道の最東端、終着点のウラジオストクに降り立った。「東方を支配する町」という意味を持つ縁起でもない地名である。とうとう辿り着いてしまったのだ。東の果てに。
僕の旅はもうじき終わってしまう。帰ったところで、どうせ悪いことしか待っていないのに。良いことは何一つ起こらないのに。
運命の悍ましさに、僕はぶるりと身震いをした。
ウラジオストクの駅から少し歩けば、港に着く。そこからは海路で日本を目指す。僕は商人が使う船に乗せてもらうことになっていた。その船は、一旦は朝鮮半島の
目的の船に乗り込んだ僕は、東アジア人にありがちな顔つきの人物がちらほら見えることに、懐かしさよりも絶望感をひしひしと感じていた。いよいよ故郷が近い。死地へ赴く日もまた近い。
船が出る。
僕は今はまだ穏やかな日本海を越え、南方へと運ばれていった。
憂鬱な船旅だった。鉄道に乗っていた時よりも気が滅入る。
そしてとうとう、僕は大日本帝国まで戻ってきてしまった。
彼女の住処からは遠く離れた、東の果ての小さな島国に。
馴染みの空気に安心感を覚えないわけでもないが、この先に待つのは戦争だ。全く喜べない。下手したら大砲にぶち当たって、一瞬にして海の藻屑と消えてしまって、二度と彼女とは会えなくなるのだ。死そのものも恐ろしいが、彼女を悲しませることになるのはもっと恐ろしい。ますます暗澹たる気分になる。
だが、もう引き返すことはできない。
実家へ向かうために、早く次の船に乗らねばならない。嫌が応でも、先に進まねばならない。
僕はもうしばらくの紆余曲折と辛抱を経て、重苦しい気分を持て余したまま、久々に地元の鹿児島県東部の町まで帰り着いたのだった。
次の更新予定
海征く楽師と願いの乙女 白里りこ @Tomaten
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