さくら貝の瓶詰
樵丘 夜音
さくら貝の瓶詰
両親と過ごした思い出は、とても少ない。
報道カメラマンの仕事をしていた父は、出張や取材が多く、休みも不規則だったので月に数えるほどしか会えなかったので、遊んだ記憶はほとんどない。そのせいか、たまに家族3人で過ごす時間はいつも母が不機嫌で、私は両親が離婚したらどうしようと不安な気持ちを抱えている子どもだった。
小学1年生の時、夏休みに入ってすぐに母方の祖父母の家に行った。小さな港町で、家から5分ほど歩いたところに海岸があった。滞在中は毎日海で遊べるので、祖父母の家が大好きだった。その年は一週間ほど滞在し、明日帰るはずだった日の夕方、母に、
「夕日、見に行こう」と誘われた。
帰り支度を始めている海水浴客を横目に、夕方から海に来たことに少し優越感を覚えながら、砂浜を母と歩いた。
水平線に近付く大きな太陽が、水面と砕ける波しぶきをきらきらと輝かせていた。
あ、と母がかがんで手を伸ばした先に、小さなピンクの貝殻があった。母は拾った貝殻についた砂をそのまま波打ち際の海水で洗い流すと、
「サクラガイ」と私の手のひらにそっとのせてくれた。
「薄くて割れやすいから、そっとね」
サクラガイをそっとつまんでおでこの高さに掲げると、淡いピンク色の貝殻が透けて見えた。
「きれい…」と言いながら、私は三角のいちごみるく飴を思い出して、甘酸っぱさが口に広がり、思わず唾を飲み込んだ。
「サクラガイを拾うとね、幸せになれるの。だから、
母は、海の方を見たまま言った。私も母の見る方を向いた。ゆっくりと傾いていた夕日は水平線に触れた途端に加速して、海に吸い込まれるように一気に沈んで行った。急に訪れた闇に心細くなり、空いていた手で母の手を握った。母が、空を見上げてつぶやいた。
「今日は新月なのね」
月の光が全くない夜だった。静かに歩き出した母と、黙ったまま手をつないで祖父母の家に帰った。
翌朝、目が覚めると母の姿が見当たらず、枕元に、小さなジャムの空き瓶で押さえた便箋があった。
『咲良へ。ごめんね、幸せになってね』
空き瓶の中には、昨日拾ったサクラガイが一枚、入っていた。
母がいなくなったその夏休みが終わる少し前に、やっと父と二人で話す時間ができた。
「お母さんがいなくなって、本当はお父さんが咲良を育てなきゃいけないんだけど、お父さんは出張も多いし時間も不規則だから、お父さんと二人で暮らすのは難しいんだ」
「ふうん」
両親が別れるかもしれないという漠然とした想像はしたことはあったが、まさか両親とも自分を置いていなくなるとは思ってもいなかった私は、内心、不安でたまらなかったけれど、どうしようもないことは分かっていたので、素っ気なく物分かりがいいような返事をしてしまった。だから、大人たちは、
「まだ小さくて、よく分からないよねえ」
と、詳しい説明をしないで済むことに安堵していた。
夏休みが終わるまでにバタバタと転校の手続きや片付けが行われて、祖父母の家に荷物が運び込まれ、私は祖父母との暮らしが始まった。
小さな港町は、可哀そうな私をとても優しく受け入れてくれたので、新しい土地での生活にすぐに慣れた。
祖父母は優しかったし、友達も増えて楽しく過ごせていたが、怖いくらいの寂しさに震える日もあった。寂しくなったり嫌なことがあった日は、海に行ってサクラガイを探した。サクラガイを拾っては母の言葉を思い出し、眠る前に「きっと幸せになれる」と自分に言い聞かせ、母が置いて行ったジャムの空瓶に入れた。
そして、新しいクラスで気の合う友達ができたり、いつもは吠えてくる犬にすり寄られたり、好きな男子と目が合ったりと、些細なことでも小さな幸せがあると、サクラガイのおかげかも、と思うようになっていた。サクラガイの数だけ寂しさが消せた気がした。
中学生になって、友達の
「あ、サクラガイ。名前が咲良だから、集めてるの?」
「ううん、なんとなく。かわいいから」
サクラガイを拾うと幸せになれるんだって、とは恥ずかしくて言えなかった。すると、美夕が言った。
「サクラガイの神話、知ってる?」
「サクラガイの神話?何それ」
美夕はふふっといたずらな目をして言った。
「満月の日にサクラガイを好きな人に渡すと想いが叶うんだって。でも、新月の日に渡すと別れちゃうんだって」
「え…」
「なになに?思い当たる節があるとか?」
「ぜ、全然!全然そんなのないし。神話でしょ?サクラガイなんて、この辺じゃいつでも拾えるし、いつが満月とか知らないし」
私は美夕の話を笑い飛ばしながら、初めて母にサクラガイをもらったあの日が新月だったことを思い出し、神話は本当かも、と思ってしまった。
父は3か月に一度くらい会いに来ていたが、私が専門学校に進学した頃、再婚することになったと聞かされ、母との離婚がとっくに成立していたことも初めて知った。それからは、父とは時々メールを送り合うだけで、ほとんど会うことはなくなった。母とは、小一のあの夏きりだった。祖父母も母のことを何も話さなかったので、私も聞かなかった。
母が私の前から姿を消してから30年が経った。祖父は10年前、私が26歳の時に他界した。
高校2年の文化祭の後、満月の日にサクラガイを渡したことがある先輩の守山和人と、専門学校時代に偶然再会した。高校の時は、和人がすぐに卒業を迎えてしまったので、私の恋心はあっという間に消えてしまっていたのだが、小さな映像会社でアルバイトを始めたら、その会社に和人がいたのだ。私は、そのまま社員登用で就職させてもらえることになり、やがて和人と付き合い始めた。6年前、私が30歳になる直前に結婚した。私たちは結婚後、そのまま祖母の家に同居させてもらうことになったのだが、安心したのか、結婚したその年に、祖母は急逝してしまった。
結婚してすぐに子どもを授かったので、私は一旦仕事を辞めて育児に専念することにした。和人の仕事を理解していたが、華やかな業界との付き合いも多く、時間も不規則で、いつも不安にさせられた。家事も育児も一人でこなすのが当たり前だった。
…もう無理…
祖父母も両親もいなくなり、自分の仕事もない。強烈な孤独感から、ある日突然、限界を感じて何もかも捨てて逃げ出したくなった。
夕日が沈んだ頃、6歳になった娘の
月のない夜で、仄かな外灯の光を頼りにサクラガイを見つけると、母が私にしたように、汐里の手のひらにのせて言った。
「サクラガイを拾うとね、幸せになれるんだって。汐里は必ず幸せになれる」
母が何をしたかったのかは知らないが、あの日、私を置いてでも自分の人生を生きたいという気持ちと強い覚悟が、分かるような気がした。
私も、自分の人生を優先していいのだろうか。サクラガイを暗い空に掲げている汐里の無邪気な横顔に、胸が締め付けられた。
翌日、朝日の出かかった頃に、私は6歳の夏から拾い続けてサクラガイでいっぱいになった小瓶を抱えて海岸に行った。
瓶のふたを開けて、手のひらにさらさらとサクラガイをのせると、海に向かって思い切り撒いた。
「ちっとも幸せになんかなれてない!」
花びらのように風に舞い散り、波打ち際に落ちたサクラガイたちが、時々濡れた砂に引っ掛かりながら波にさらわれていくのを見つめていると、背後に人の気配を感じた。
振り向くと、白い小犬を連れた六十代くらいの女性が立っていた。そして徐に
「サクラガイを拾うとね、幸せになれますよ」と言った。
一瞬、母かと思ったが、その女性は私の記憶の中の母の顔とは似ても似つかなかった。
「すみません。昔、母が同じことを言っていたので…もういないんですけど…」
サクラガイに八つ当たりしているのを見られてばつが悪く、急いでその場を離れようとすると、
「本当の桜の花びらが舞っているみたいだった。でも貝殻を海に返しただけ。幸せを捨てたわけじゃないわ」
優しく微笑んだ女性はそう言って、愛おしそうに白い小犬を抱きかかえて、去って行った。
私はハッとして踵を返すと、家に向かって走り出した。汐里が起きる前に、手紙を片付けなければ。母と同じことをしようとした自分が情けなくて涙が溢れた。
それから20数年、なんとか夫との関係を立て直し、親子3人の生活を続けてきた。今は汐里も結婚して隣県に住んでいる。
お盆が過ぎた週末の花火大会の日、汐里が帰って来ていた。花火が終わり海岸から見物客が引けた頃、汐里から、
「海まで散歩しない?」と誘われた。
賑やかな空に静寂が戻り、波の音だけが鳴り渡り満月が水面を照らしていた。
ゆっくりと砂浜を歩きながら、汐里が言った。
「お母さん。私が小一の時、家を出て行こうとした?」
不意打ちを喰らってすぐに言葉が出なかった。
「した?」
もう一度聞かれて、
「汐里を置いて出ていくはずないじゃない!」
きっぱりと言った。
不安げだった汐里の目が力強く私を見返し、笑みが戻った。満月の光は、驚くほど明るかった。
翌朝、私はまた海岸に行った。自分が逃げようとしていたことを汐里に気付かれていたなんて。どんなに不安だっただろう。自分のしようとしたことの重大さに今さら気付き腹が立った。
花火の見物客に踏まれて砕けたサクラガイが落ちていた。欠片を集めて、手のひらで元の形に紡いでいると、
「サクラガイを拾うとね、幸せになれるのよ」と声がした。
前に会った女性かと振り返ると、スケッチブックを抱えた90歳前後と思われる小柄な老婦人がいた。
「え…?」
「サクラガイを拾うとね、幸せになれるのよ」
もう一度、その老婦人は言った。
私は欠けていないサクラガイを探して拾うと、どうぞ、と手渡した。
老婦人は、サクラガイをのせた手のひらをおでこの高さに掲げると、
「きれい…」と目を細めた。
その横顔を見て、一瞬、息が止まり胸が轟いた。
「…お母さん…⁈」
ゆっくりと私の方に顔を向けた老婦人は、不思議そうに首をかしげて言った。
「残念ながら私には子どもがいないの。私は絵を描くのが好きで、夫を置いて絵の勉強をしにフランスに行ったの。そのままフランスで細々と絵描きの仕事をしていたのだけれど、歳を取ってきたから3年前に帰国して、昔来たことのあるこの海が懐かしくなってね」
老婦人は、私があげたサクラガイをハンカチでくるみ、浜辺の流木に座ると鞄から出した色鉛筆とスケッチブックを広げた。
開いたページには、一枚のサクラガイが入った小さなジャムの空き瓶の絵が描かれていた。
〈 了 〉
さくら貝の瓶詰 樵丘 夜音 @colocca108
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