第47話 記憶
家族がそろって暮らせるという、それだけのことがずいぶん幸せに思われる場所だった、と思う。周りは母子家庭や父子家庭、祖父母と孫みたいな家庭が多かった。仕事と言えば自分たちの家族と村人を養うための農業くらいで、あとは不定期に回ってくる「外へ行く仕事」がせいぜいだった。外へ行く仕事にありつければ金も稼げるし、腹いっぱい食べられるという話を聞いて、自分も早く大きくなって外へ行く仕事をやりたいと思っていたものだ。
父親が「外から来た人」だということは、小さいころからなんとなく知っていた。父が周りの大人たちより体格がいいのは、外でいいものを食べて育ったせいだと噂されていた。母親はその村の出身だったし、母も姉も他の村人同様に小食で痩せてたけれど、俺は他の子どもより大食漢で、食費がかかると母親を嘆かせていた。
なんでこんな子どもの頃のことを思い出しているんだろう。ああ、まだここにいるせいだな、と気づく。俺は目をあいたまま、背中を少し丸めた体勢で斜め下を向いていた。地上まではどのくらいあるのだろう。俺の視界には3人の空中で止まっている奴が見えている。そして、地上よりは近いところに、何日か前までいたマティの台地のはしっこ、切り立った崖が見える。そういえば下からあの基地を見上げたことはなかったな、と思い出す。
俺たちはなぜ落ちないんだろう。途中までは確かに落ちていたはずなのに。気のせいとか走馬灯がとかいう、くだらない話ではない証拠に、俺たちは落ちないまま夜を迎え、朝が来て、もうじき夕暮れが近いはずだ。
まあ落ちれば落ちたで命はないのだろう。傭兵として志願してマティに来た時から、覚悟はしていた。ふと父親は今どうしているだろうか、と思う。あれほど帰りたがっていた「地上の東京」に正規ルートで下ろしてやってから何カ月経った?
俺が小学校を卒業するちょっと前、村はつぶされることになり、全員立ち退くことになった。なんでそんなことになったのかは、よくわからないのだが、村を統廃合することはときどきあるそうだった。父の意向で俺たち家族は海に面した、鉄道の通る大きな町へ引っ越した。両親に新しい仕事が決まり、姉も近所の工場へ見習いで通うことになったある日、事件は起こった。
港に、一隻の漁船が入ってきたのだ。この町の船ではなかった。なぜなら海で魚を捕るということ自体この町ではほとんど行われていないのだから。その船がもたらした海産物は街を驚かせ、あっという間に高値で売られていった。味を占めた漁師は「また来る」と言って帰っていった。数か月後、同じ船はまた来た。今度は魚だけではなく、5,6人の乗客も乗せて。
「本当だ、ここにはまだ女がいるぞ。」
乗客は男ばかりだったそうだ。漁師と男たちは酒と女の楽しめる店に行き、翌朝また船で出て行った。
翌日から悲劇は始まった。夜の店の女たちが軒並み体調を崩して寝込んだ。最初は例の漁師と男たちが入った店の女たち、ついでその家族や近隣の人々、病院の看護師。恐ろしいのは寝込んだ女たちが数日後にはみな死んでしまうことだった。町はパニックになった。
不思議なことにこの病気にかかるのは女ばかりだった。女でも小さな子どもと年寄りはかからない。だいぶ後に女性ホルモンにかかわるウイルス性の病気だとわかったが、深刻なのは百パーセントに近い致死率だった。町からは女たちの姿は消えた。みな感染を恐れて、自宅や病院に併設された隔離室に閉じこもったのだ。もちろん母と姉も大きくもないわが家の一室に閉じこもった。同じ家に住んでいるのに、声だけしか聞けないという日々が何日も続いた。
そんなある日、例の漁船がまたやってきたのだ。だが、町の人たちはウイルスを持ち込んだのは彼らだと決めつけ、手ひどいリンチを加えた。警察が出動したころには漁師たちは瀕死の重傷を負っていた。町が騒然としているすきに、父がとんでもないことを言い出した。
「あの船を奪って脱出するぞ。」
母と姉にウイルスを通さないフィルターだというマスクをさせて、俺たちは着の身着のままで、漁船に乗り込んだ。幸運なことにエンジンはかかった。どこへ行くのか、と聞いたら「東京だ。」と父は答えた。東京が首都で大都会なのは知っている。だがどっちに向かうと東京があるのかわからない。当時の俺はその程度だった。けれど父は
「大丈夫だ、この船で行けば着けるはずだ。」
と言い、とんでもない話をし始めた。
それは父の生い立ちだった。父は東京で生まれ育ち、仕事に就いていたそうだ。ある時友人たちと酒を飲んでひどく酔っぱらった父は、帰りの電車の中で眠ってしまった。眼が覚めたら電車は知らない名前の駅に止まっており、車内には誰もいなかった。乗り過ごしたと思った父はその駅で降りたが、時間は深夜で駅員のいない小さな駅だったという。仕方なく始発で戻ろうと駅のベンチで再び眠ったのだそうだ。そして翌朝目覚めてみると、父は母の生家の前で寝ていたというのだ。
「変なの。わけがわからないよ。」
と俺は言ったが、父も
「俺もわけがわからなかった。」
と答えた。かろうじて服は着ていたが、持ち物は一切なくなっていて、父の主張は村の誰にも聞きいれられなかった。あっちこっちに問い合わせてもらって、父は外から来た人、という扱いで村に住むことになったのだ。そして父はここは元居たところとは違う世界なのだと思い、もう帰れないとあきらめていたという。
「この船のメーカーを、俺は知ってる。この船なら俺の生まれたところにきっと戻れるはずだ。東京で暮らそう、おまえにももっとましな教育を受けさせてやれる。」
と、父は興奮したように話し続けた。
突然、海の真ん中で船は何かにぶつかったかのようにガクン、とゆれた。「キャッ」と姉が叫んだのを俺は聞いている。とっさにふりむいたとき、おれは信じられないものを見た。
姉と母が消えていく。
二人の後ろから見えないカーテンのようなものがせまってきて、まず母が見えなくなった。姉は母が消えたことと、自分も消えかかっていることに気づいて大声を上げたが、声ともどもゆっくりと薄れていって、やがて消えてしまった。
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