雨に乞う
やあ。僕の名は、先生だよ。本名は、秘密。
あまり、好きじゃないんだ。
垢抜けなくってね。
ちなみに、あだ名の由来は、雨に読み書きを教えていたからだよ。だから、先生。
僕が『月桃』という花の名を知ったのは、そんな雨と一緒に、南国を旅した時のことだったよ。
車中二泊、宿に一泊という、なかなかの強行旅だったけどね。あれは、いい思い出になった。
夜間急行で、午後七時、
船着場の始発は、午前七時半。南国北端の港を経由して目的地に着いたのは、正午前だった。
そんなお疲れさんな僕たちを盛大に迎えいれてくれたのが、港の月桃の花群れだった。
青もゆる、新緑の折。
なんて、気取って言いたいところだけど、南国はすでに初夏の陽気だった。ばかに暑い。
雨が、ハンカチを謎にたくさん持ってきていたのは本当、僥倖だった。将来、いい嫁になれるぞ、と思ったけど、雨は、残念。男の子です。
どこかにこういう女子、いないかしら?
気を取り直して。
僕たちの住む二城は、嘉国の山間の街。
二城には、鈴蘭という花がある。ちょうど残春の今頃、よく、あちこちで咲いている。
南国に咲いていた鈴蘭は、鈴蘭のようでいて、少し、趣が異なっていたんだ。
葉っぱはよく似てるんだけど、花弁の先端は赤く、面長で、まるで多頭の龍頭のように、口をパックリパックリと開けている。
可愛い、というよりは、お客さんを強引に引き摺り込もうとする、色街の場末の娼婦みたいな。そんなちょっぴり、毒々しい花だった。
あれはあれで、いいんだけどね。場末も。
たまに、行きます。
「なんだか、不思議な匂いがするね」
雨が、花弁に顔を近づけて、盛んに匂いを嗅いでいる。花からかな? 葉っぱかな? 首を傾げ、「どっちからだろう?」と、僕を振り返る。
その雨に、僕はこっそりと接吻した。
あの頃は、僕は大変、お盛んだったんだ。性欲の塊だった。今はもうだいぶ、落ち着いてきたけどね。いかんせん、もう、おじさんだから。
その当時は、ひどいものだった。
「これ、なんていう花なんだろう?」
鈴蘭じゃ、ないよね?
雨は、ぷちりと花茎を手折って、それをずっと手にしたまま。
僕たちは、南国のあちこちを見て回った。
美術館、宮殿、海。
アイスクリイムなんてものも、食べた。
冷たくて美味しかったなあ。
やっぱり、花からはあの匂いがあまりしないから、きっと葉っぱなんだよ、だなんて、道中、雨が生意気なことを言う。
生意気は、可愛いの同義語です。
その花のことは、その日の夜、宿屋の女将から
月桃、という名前の花であること。
名前の由来は、葉っぱが三日月で、花が桃に似ているからとも、海外からやってきた品種で、海外の呼び名を当て字にしたと言われている、とも。
「お気に召されたのなら、月桃のお茶や、紙、精油や香水なんかもありますよ」
とても親切なその女将は、自前の香水を取ってきて、僕の喉元に、ちょんちょん、とつけてくださったのだけど、これが、なかなか南国美人な女将さんでね。
あれも、いい思い出になったよ。
後述を参考のこと。
雨は見た目、髪も腰まであるし、何せ、うんと可愛いし、旅だからと、いつもの化粧を施さずにいたけど、何をどうしたって男の子にはまるで見えず、おまけに僕とも年が離れていたから、僕たちは、歳の離れた兄妹、という設定で、宿に泊まらせてもらった。
まあ、笑っちゃうほど似ていないよ。
訳ありの義兄妹ぐらいの、派手な設定にしておいても良かったかも知れないね。
香水の件の、雨のあの時の表情なんて、女将さんは一体、どう思ったんだろうねえ?
雨の、あの、呆れた顔。
えっちで困ったお兄ちゃんを見る妹、だったのかなあ?
実際、香水をちょんちょんされていた時の僕の鼻の下は、うんと伸びていた、と思う。
それは、自信がある。
あの夜、そんなふうなやりとりで、僕たちは宿屋で美味しいご飯をたらふく食べ、街を一望できる貸切露天風呂にも浸かり、お蒲団の中で、静かに、こっそりと何度もまぐわって、普段なら行為の後、雨はすぐ僕から離れてしまうのだけど、あの時は珍しく、僕から離れようとしなかった。
可愛い妹。
これは、犯罪だなあ。
「雨?」
にせものの妹は今、僕のおなかのあたりで、全身すっぽりと蒲団に包まっている。蒲団の中から、僕の犯罪の残り香がぷんぷんする。
「お腹、すいたの?」
いくら男娼といっても、雨はまだ、十になったばかりの子供だ。行きも、夜間急行に乗り込む前に駅売で買ったお弁当を、雨は半分しか食べなかった。宿屋の美味しい夕食も、実はほとんど、僕がたいらげた。海老が好きみたいだったから、海老は全部あげたけど。
僕も一尾ぐらいは、海老を食べたかったよ?
それは、さておいて、よくよく考えたら、雨と一緒に食事をするのも初めての体験だった。
だから、雨の、伸び盛りの子供とは思えない少食っぷりに、ちょっと、あれ? とは、思っていたのだ。
なんか、遠慮したのかなあ、とか。慣れない旅で、それどころじゃなかったのかなあ、とか。
或いは、日々の仕事に疲れていて(なんせ「お休みの日がない」だなんて、車内で言っていたし)食べられないのかな、とか。
そうね。ちょっと心配だったんだ。
僕のそんな問いに、ふるふる、と、雨は首を横に振って。と言っても、彼は蒲団の中にいるから、その辺は肌感覚なのだけど、どうやら、違うらしい。そうして、尚も僕にしがみついてくる。おお、どうした。
本当に、珍しい。
「いい匂い」
雨が、そう言った。
「ん?」
もしや、月桃のことか? それとも、犯罪の方か? 僕には、犯罪の香りしかしないけど。
果たして、どっちの匂いが、いいと言っているのやら。
試しに、蒲団の中の雨を担ぎ上げて、引っ張り出してやる。案外、抵抗もされない。出てきた琥珀色の彼の目を覗き込むと、視点がふにゃふにゃだ。
眠たいのかも。
体も、少し熱を帯びている。
そんな小さな頭を支えて、香水をつけた首筋に近づけてやると、彼はもっと、僕にしがみついてきた。クンクン、と仔犬のように嗅いでいる。
どうやら、こっちの匂いが、正解みたいだ。
「気に入ったの?」
尋ねると、少し愚図った。違うの? どっちよ。
大人はもやもや、子供はモニャモニャ。
雨はふだん、まるで大人のような子供だけど、ふとした折に、子供になる。でもって、確定だ。息が、すうすうとしはじめる。
これは、眠たいだけだ。
結構、寝ぼけてる。もしかしたら、もう半分ぐらい、寝てるのかも。
確かに、昨晩の夜間急行でも、雨はずっと車窓を眺めて寝ていなかったようだったし、今晩はちゃんと、寝てもらわないとな。
仕事中の雨は、決して眠らない。
僕は初めて、雨の寝姿を見るのか。
雨が、寝る。
なんだか、僕のほうが寝れなくなりそう。
可愛すぎて。
「いい」
随分としてから、ふにゃふにゃ、とした声が、返事をした。僕の腕の中で、十の子供が、モゾモゾ、蠢動している。本当に珍しい雨ちゃんだった。可愛い。
僥倖。幸運。レア。役得。
いい思い出!
こんな素直に抱かれてる雨は、初めてです。
よーし。
僕はちっちゃな体を、ぎゅうぎゅうに抱き締めにかかった。
結果。抵抗された。
「いや。いやだ」
思いっきり嫌がられて、僕の腕を力いっぱい跳ねのけて、雨ちゃん、自分のお蒲団に逃げてしまわれた。この子はね、そうなのよ。そういう子なのよ。甘え下手というか、なんというか。
異国語でいう、ビタアな関係を好むとでも言いましょうか。なかなか、メロウにさせてくれないとでも、言いましょうか。
根が職人なのよ。あっさりしてるのよ。
いつも、次があるから、って、ちゃっちゃと衣服を直しちゃうような子なの。
余韻を知らない。
それもまた、いいのだけどね。いじめがいがあって。
はい。僥倖終わり!
でもね。今日は、秘策があるのだよ。
「?」
僕にされた『或る事』に、雨は、まるで仔猫のような反応をした。
そうね、なんていうか、またたびの匂いを嗅いだ猫みたいな。
飛び起きた。
ふふ、と僕は内心でほくそ笑んだ。
そう、実は、僕は食事の後、月桃の香水をもらったのだよ。あの南国女将からね。
お代金は、暫しの愛撫でした。短時間だったけどね。結構、エグいこともしたよね。
気前よく、香水をいただきました。
それを、雨に垂らしつけたのだ。黙っててごめんね。
まさか、雨が月桃をそんなに気に入ってるとは、思ってなくてさ。
どっちかというと、僕が欲しくて、そうしたんだけどね。
雨は、そんな僕の述懐をよそに、首元に垂らされた液体を手で拭って、クンクン、嗅いでいる。何した、みたいな感じで、僕の方をまっすぐに見ている。実に、ピュアだ。
雨の目の色って、薄い琥珀色で、闇夜だと本当に白目しかないように見えるんだけど、今、まさに、真っ白なんですけど。
なんていうかなあ。この子は、猫だよね。さっき、犬みたい、なんて思ったけど、猫です。
目もそうだし、雨自体が、兎に角、猫っぽくて。
可愛いし。
怒ると本当に、ご覧のようにご立腹だし。
気に入った玩具があると、ずっとそれを触ってて。最近だと、キャルト・ア・ジュエだよね。昨秋に売られ始めた、異国の
まさか、君が南国の旅にキャルト・ア・ジュエを同伴させてるとは夢にも思わなかったよ。
夜間急行の通路で君が骨牌をばら撒き始めた時は、おじさん、どうしようかと思いました。七並べ、じゃないっつーの。
結局、周りの酔っ払いの大人たちを巻き込んで、ちょっと、やったけども。
そんな、感じだし。
悟りを開いてるふうで、そうでもなし。こんなふうに、匂い一つで、夢中になったりする。
頭が良いけど、馬鹿みたいに素直、というか。意外と、何も気にしていなかったりね。
まあ兎に角、猫だ。
あなたは、猫です。ニャア。
「はい」
僕は、香水の瓶を、雨に手渡した。
「好きに嗅ぎなさい」
雨は、香水の瓶を「どうしたの、これ?」といった面持ちで見つめている。そして、本能のままに嗅いでいる。そうよ。あなたは猫。存分に、嗅ぎなさい。
よほど、気に入ったんだなあ。
「明日、いっぱい買って帰ればいいさ」
そう言うと、雨は、瓶を抱きしめて、こっちに戻ってきた。僕の犯罪後の蒲団に、いそいそと潜り込んでくる。どうしたの。今日は、随分と甘えん坊だな。
そして、ピッタリと抱きついてきた幼い体を、僕は手繰り寄せる。
えっと。
楽しかった、のかな?
「楽しかったね」
僕がそう言うと、楽しかった、と雨が言った。「もっとお休みを貰えばよかった」
はは、と、僕は笑う。可笑しな話だよ。
「十歳の仕事人にしちゃあ、殊勝すぎるね」
「しゅしょう?」
僕の胸元から、可愛らしい顔がぴょこんと飛び出てきた。いやあ、君ならその言葉分かるでしょう? と思ったけど、彼は五歳児ような、まるで無垢な様子だったから、ああ、そっか、と思う。
この子には、まだきちんと結びついていない言葉が、意外とたくさんあるのかもしれない。
「健気、ってことさ」
「?」
首を傾げる子供を、僕は抱きしめる。雨は、抵抗しない。
「じしょ、」
うん。眠たいね。
そのまま、お昼になるまで、一緒に寝た。
善い夜だった。
僕は、その夜からずっと、月桃の香水を使っていた。
そうだね。
あの時も、僕は確かに、月桃の香水をつけていたよ。
だってまさか、登庁した途端、いかつい兵隊さんたちにとっ捕まえられて、噂にしか聞いたことのない
寝ぼけた頭が、一気に冴えたよ。
あの時の君は、確かに君だったけど、まるで君じゃあなかった。
一言で纏めるなら、そういう表現になる。
君は恐ろしいほど、傷だらけだった。そうだなあ、あのクーデター。
僕も、あのクーデターを目の当たりにした。一応、官吏だからね。
あの場所に、当然、僕もいた。君が撃たれた瞬間を、見ていたよ。
伏せろ、と、叫んでいたね。
そして女王陛下を、庇おうとした。
君の死は、報道で知ったよ。
強烈だった。復讐をも、考えた。
君の前に連れて行かれたのは、その二、三週間ぐらい、後のことかな?
死よりも、ひどい。
鉄枷に嵌められた君は、まるで、君じゃなかった。
ボロキレ、なんて安易な表現じゃいけない。ここは、ちゃんと、言おう。
まるで、亡霊だったよ。
御伽話に出てくる、お化け。人じゃあ、なかった。
そもそも、死んだと聞かされていたから、あの時は本当に、お化けだ、と思ったんだ。猫だから、化け猫だね。
顔も、体も、干からびて、縮んでいた。
君は、鼻を削ぎ落としたくなるような、異様な匂いを発していたよ。
目も窪んで、ただ、虚ろ。
半開きでどことも視点を結ばず、薄暗いせいか、折角の琥珀の目色も、干魃の、乾き切った大地のように見えた。
あけっぴろげな口元は
それが君なのだと、すぐには分からなかったよ。
少しして、君は、顔を上げた。
左頬にある、星座のような三つのほくろを見つけて、ああ、これは、雨だ。
本当に、
ようやく聞き取れた譫言は、僕の名前。
先生。
うっかり、泣いちゃった。
「燦国の、処刑人になれ」
本当に、ひどいことをする。
というか、雨も、雨だよ。そんなふうになるまで、頑張っちゃって。
この、頑固者め。
実際は、そんなふうに、おちゃらけては考えてなかったと、思うけどね。僕は、真面目に考えるのがどうにも似合わない性分で。どうしても、こうなっちゃう。
ただ、あの時の、雨の、決死の覚悟! みたいな姿を見た時は、僕、心底、暴れました。
暴れたというか、ジタバタした、というか。
そういうのを言うのも、なかなかに恥ずかしい。
兎に角、あの時の僕は、悪いことをしたら死刑、っていう新しい法律も、自分が官吏だ、ということも失念して、全力で雨に、「しね!」って、何度も言った。
しね!
いいから、しね!
ひどいことを、言ったもんだ。
あの状態の雨が、それをまともに聞いていたとは思えないことが、救いだけど。
しね。
僕を、同伴しろ!
僕を同伴して、そして、しね!
あの時は、もう、それしかないと思ったんだ。雨が、総裁の命令に背く。身代わりに、僕が死ぬ。雨も衰弱して、いずれ死ぬ。
ちょっとした、心中。
死者の国へと同伴だ。いっしょに行こう。いっしょの舟に乗りましょう。
でもね。
お化けは、こう応えたのよ。
「死なせない」
なんて、
ばか!
何を、言ってるの!
僕は晴れて解放されて、通常勤務に戻らされたけど、もうね、仕事なんて、無理です。すぐ、早退した。お暇も出した。
で、昼間っから浴びるようにお酒を煽って、その夜、戀港行きの夜間急行に飛び乗ろうと、ハイヤアを急かして駅まで行ったけど、駄目だった。国境封鎖です。
夜間急行自体が、なくなっていた。
代わりに、最終便の列車で燦国南端まで行って、新たに開かれた戦争の最前線を見てきた。二週間くらいだったかなあ?
明媚な運河に沿って広がる、死体と瓦礫の山。
全く、嫌になる。
香水は、運河に捨てちゃった。
復職して与えられた新しい任務は、国民へお届けする公開処刑の御招待状の、名簿の管理と監督。
のちの死の媛の、お助け係のようなものさ。
なんとも、骨身に染み入る話だね。
目の前の壇上を、死の媛が彷徨い歩いている。
何度、この光景を見たのやら。
拳銃片手に、いつも物騒ね。
今日は、いつもよりなんだか、やる気がなさげね。
急に辺りを見回しちゃって、どうしたの? 鳥でも低空飛行してたのかい?
君がそうするたびに、僕は慌てて後ろを見ちゃう。
ああ、今日は、
本音を言うよ。
もう、なにもかも、いや!
君を見ると、本気で死んでしまいたくなる。
でも、ご存知のように、僕、へたれでね。
死ぬ勇気もまるで覚えず、最近じゃ毎日が二日酔い、女を買い漁って借銭まみれ。すっかり、質屋のおばさんとも仲良くなっちゃった。
まるで、白痴だよ。
とんだお困りものの、厄介なおじさんさ。
そんなやつを庇うだなんて、君は、ばかだよ。
大ばかだ。
死にたい。
早く、お迎えがきてほしい気分だよ。
でもね。
死の媛の姿を見てると、死にたい反面、やっぱり、自分から死んじゃあ駄目だな、とも思うんだ。
悲しいし、くやしいし、くるしいけれど。
君はよく、生きている。
月に乞う/雨に乞う 凛々椿 @rinrintsubaki
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