月に乞う/雨に乞う

凛々椿

月に乞う


 或る夢の途中で、目が覚めた。


 先生と、見知らぬサンルームで、パンを食べていた。

 珈琲が、添えられている。

 無花果いちじくのジャムの瓶には、ティースプーン。

「僕の家には、バターナイフがなくってね」

 先生の声。とても、懐かしい。


 目覚めの景色は、白と灰の幾何学模様。

 天井は、手が届きそうなほどの高さ。


 人が、動いている。

 僕を覗き込んで、

 起きたぞ。

 手燭を、持ってこい!

 反応は、あるか。

 おい。

 おい!

 そう、言っている。


 いろんな、声と、物音。

 ひどく物々しく、ひどく、寒い。

 サンルームの夢は、とても暖かかった。

 懐かしい、追憶のよう。


 雫が一つ、僕の頬をぴしゃりと、跳ねた。


 雨? 

 でも、雨音はしない。雨の匂いもしない。

 血の匂いは、する。

 血の匂いしか、しない。

 ああ、そうか。

 まばたきをする。


 僕は、撃たれたんだ。


 少しずつ、思い出していく。少しずつ、わかってくる。

 僕は、撃たれた。

 女王陛下の演説の直後、観衆席から狙撃された。

 燦州さんしゅう内乱平定、九周年の、記念演説。

 あの日、僕は、陛下をお守りする警護の配置図を、全て把握していた。燦州、僕の故郷。

 政治的に、心の許せない、故郷。

 だから、徹底的に、警護を手厚く、手堅くするよう、方々に求めた。その上で臨んだ凱旋だった。

 だからあの時、在るべきところに、警護兵が配置されていないことに、気づいた。

 僕は、叫んだ。


 ここは、病院じゃない。


 僕は今、仰向けで、寝台に寝かされている。

 少しずつ、明瞭になっていく視界の片隅には、吊るされた点滴袋。半分ほど、減っている。

 視界の下半分ほどが、呼吸に合わせて霞んだり、晴れたりしている。人工的な空気音が、連続している。胸が、自動的に、上下に動いている。人工呼吸器、というやつか。大病院にしかない代物だ。

 ならばここは、病院か?

 手首に、誰かの指が柔らかく添えられる。脈は、安定しています。そう、聞こえる。知らない声。女性の声だ。看護婦かも知れない。

 首を、少しだけ、左にもたげた。

 手が届きそうなところにある壁は、石造りだった。錆びついた鉄製の枷が、ふたつ、だらりと垂れ下がっている。窓はない。

 やっぱり、病院じゃあ、ない。

 牢獄か?

 いや。ただの牢獄なら、こんな物騒なものは、ぶら下がっていないはずだ。

 ならば、ここは。

 拷問用の部屋。牢獄の、最奥。


 あの時、在るべき場所に、警護兵がいなかった。

 観客席の、一番肝要な下座にあるべき、三人の、選りすぐりの警護兵。

 選んだのは確か、燦州の、軍総司令官だったか。

 燦州の兵士が、配置されたはずだ。


 もたげた首は、誰かの手によって、直された。押さえて。薬を。

 そんな、声がする。

 右腕を、動かそうとした。

 革帯のようなものが、僕を拘束していた。全く、動かせない。

 この部屋と、あの、鉄枷。この、拘束。

 ああ、なるほど。僕はどうも、恐ろしいことになっているみたいだ。

 ここは、間違いなく、燦州。

 おそらくは敵になってしまった、僕の故郷。

 故郷が、僕たちを狙撃した。僕は、その虜囚だ。

 生かされようとしている。

 その理由を知る者らも、おそらく、近くにいるんだろう。

 ひどいな。

 最悪だ。


 警護兵がいないことに、僕は気づいた。

 叫んだ。

「伏せろ!」

 見回した観衆席から、複数の銃口が覗いていた。散弾銃だ。

 陛下、とお呼びする間もなく、銃口は一斉に火を吹いた。

 陛下は、あれから、如何なされただろう?

 きっと、ご存命でない。

 僕一人では、守りきれなかった。


 左派、か。


 また、随分と長く、僕は眠ったようだった。

 目覚めは、良好だった。痛みもない。

 夢を見た記憶も、ない。

 そして、僕は、寝台の上にも、いなかった。


 あの鉄の枷に、繋がれている。


 手の届きそうな場所に、無人の寝台が一基、眠っている。雑然と放置されたようで、充実した医療器具と、未使用の輸液たちは、共に主人の帰りを待っている。

 君たちが待っているのは、僕でしょう?

 その存在が、それを立証している。

 これが、夢であればいい。

 でも、夢ではないのでしょう?


 最悪、か。


 僕は、ひどく重たく、錆びた鉄に両手首を嵌められたまま、室内でひとり、その時を待つ。

 心は、これは、雨のおかげかな。私は、自分に嘘をつくことに慣れている。危ないことに、慣れている。

 平常だ。

 手首は、不穏。

 体は、嘘をつけない。心がたじろぐほど、僕の体は、ひどく、怯えている。ふるえて、まるで落ち着かない。

 離して欲しい、と訴えている。

 寝台越しに見える、開けっぱなしの視察窓には、先ほどから、顔が二つ、三つと、交錯している。

 枯れ葉のちらつきのようだ。こちらの様子を、掠るように伺っている。

 そうして誰かのおとなえを、待っている。


 僕はあの時、撃たれた。

 女王陛下のお体を、咄嗟に懐へと引き寄せたけど、間に合わなかった。

 陛下の血と、僕の血が、合わさる。

 ひどく、めまい。


 気づくと、或る見知った男が、僕の前に立っていた。

「あ、」

 声は、出せなかった。男から発せられるポマードの匂いには、血の匂いが少し混じっている。ひどく、懐かしい匂いだった。

 黒髪を後方へまとめ上げ、黒の洋装を纏う。

 あの頃と、まるで変わらない。

 幼かった僕に、あなたが、十年戦争のことを教えた。

 そうでしたね。

 男は、僕を、じろりと見下ろしている。

 それもあの頃と、何も違わない。

「なぜ、認めた」

 この人の問いには、いつも主語が欠けている。

「なぜ、そうした」

 主語を問うても、答えないのだろう。ひどく、懐かしいやり取りだ。僕は、欠けた言葉たちを探す。

 答えは、簡単だ。

 私は、女王陛下に求められた。

 市井や、宮殿の人たちまでもが好んで用いた『女王の飼い猫』とは、なんとも可愛い表現だ。これは、皮肉じゃない。

 彼らは、何ひとつ、間違っていない。

 女王の飼い猫になった理由。

 それは、その人が、私を、求めたから。

 その人が、平和を求めたから。

 ただ、それだけだ。


「始めるよ」

 静かな会話は、或る、別の野太い声に遮られた。

 革の手袋を嵌めながら、僕たちの前へと歩を進める、恰幅の良い、長身の男。

 真新しい軍服に、身を包んでいる。

 この人を、僕は知らない。

「始めるよ」

 二度、言葉を繰り返す。非常に、朗らかだった。こういう人は、大概、危ない。

 人を、平気で殺せる人だ。

 言葉と表情が、合致しない人というものは。

 警鐘が、鳴る。

 軍服は、革手袋を左から嵌めながら、僕たちの前へ、ゆるりと歩を進める。

 おもむろ拳銃嚢ホルスターから短銃を取り出して、その右手に握る。

 彼にとっては、お箸のようなものだろう。

「初めまして、天渺宮てんびょうのみやさま」

 にこりと、一礼。

 目には、笑みがない。


 私が女王陛下に初めてお会いしたのは、燦州、二城にじょうの郊外にある、丘陵地の一角だった。

 そこには、白樺路しらかばみちと呼ばれる、ちょっとした観光名所がある。

 四季を問わず、その佳景は人気ものだった。

 一直線の路の両脇に、白樺が整然と並ぶ。

 なので、白樺路。

 昔から、あるものらしい。

 最近は、流行り始めたキャメラと呼ばれる、異国発祥の寫眞機なるものを持参して、いわく、ポーズ、ポーヂング。そういったことをして、アルバムと呼ばれる冊子に纏めたりするらしい。美しく着飾って、ポーヂング。白樺路だと、いい寫眞が撮れるのだそうだ。

 そういうことを思いながら、あの日、私は夜更けの白樺路をおとなえていた。私も、やろうかな。白樺の並木を眺めながら、そんなことを、箱馬車の中で、ひとりぼんやり、考えていた。

 曇りで、月も不確かな晩秋の、人気のない白樺路。

 私のいただいた匿名の書翰には、異国調の詩文が認められていた。


 しらかばのこの葉に縋る月のはのくらきにあらじと御先みさきかさぬる


 私は、その身請け話を断るため、仕事終わり、詩文に指し示されていた月暈のかかる未明に、白樺路へと立ち入った。

 虧月かけづきは、西の際。

 白樺の、黄金色の葉先に小さく触れている。

 そうして出会した匿名の詩人は、付き人を従え、見えない月を仰ぎ見て待つ、月白の袷に黒羽織姿の、素朴で小柄な、心優しい、美しい女性だった。


 長身の男は、笑っているが、笑っていない。

「私のことを、覚えてるかい?」

 あなたのことは、知らない。

「君が、十四の春」

 十四の春とは、僕が『雨』でなくなった季節だ。

「私は、宵花祭よいばなまつりで君のことを初めて知った」

 そう。

「あの時、私は『雨』を攫おうと、花魁行列に分け入って、捕まった。警吏にこっぴどく、夜通しで叱られたよ」

 それは、よく覚えている。彼のいう通り、あの日、そういうことが起きたのだ。ちょっとした、乱暴騒ぎ。

 そうか。

 その人が、今の左派の総裁なのか。

 彼の喉元の徽章が、それを知らしめている。

 馬が二頭、左右から十字架を喰らおうとする。徽章は、真朱で塗色されている。真朱は、左派を象徴する色だ。十字架は、嘉国かこくの象徴。

 彼に取り付けられた徽章は表地が剥げて、鈍色を帯びている。譲り受けられたもの、ということが、それでわかった。

 総裁は、僕の喉元を持ち上げた。

 煙草の匂いがする。

「ようやく、捕まえた」

 僕の眼前で、心底、笑っている。

「あなたが天渺宮になられた時から、私はいつか、あなたが燦州にお立ち寄りになられる日を、ずっと、心待ちにしていたんですよ」

 あなたに、お願いしたいことがあったんです。

 彼の目は、一向に笑わない。

「あなたは、娼婦でしょう? 雨。この国の、偶像。伝説の、宵花さま」

 国、という表現に、急な違和感を覚えた。

「ならば、その通りに、働け」

 それが、僕を生かす意味。

「ここで、働け」

 彼の言うことは、合っている。

 正しい。

 娼婦は本来、偶像でも、伝説でも、象徴でもない。

 本質の私は、ただの、使い捨て。

 体を、心を、売る者だ。

 間違ってはいない。

 それでも。

「断る」

 僕は、そう答えた。


 雨という名の男娼は、月隠れの夜陰に、詩文の宿主を探した。見つけたその主は、暗闇でも一見して分かる、私たちの国、嘉国かこくの女王陛下。その御身だった。

 一年前に、やもめとなられた。

 御身は、自らの身上を否定しない。

 そして、或る書の一節を誦じて、膝を折った。

 あなたに、国の天祥の象徴として、来てもらいたいのだ、と。

「我国天祥の象徴たるは、月色の眸」


「僕は、」

 幼い頃、自分が左派の一派に育てられていたことを、思い起こす。僅かな記憶しか残っていない。でも、彼らを好きだと思ったことは、一度もない。

「戦争が、嫌いだ」

 あなたたちは、戦争ばかり起こす。

 そのお金のために、僕を売った。時に、内乱のさなか。

 僕を売ったお金が、あなたたちの軍資金になったのか、と思うたび、くらい気持ちにさせられた。

 そして、今の僕は、天祥の象徴。

 あなたたちに協力するくらいなら、死を選ぶ。

 一択だ。

「ああ。ならば、申し訳ないことをしたかな?」

 総裁が、撃鉄を起こす。

 鈍く、厭な音が牢内に響いた。

「燦州は、燦国になったよ。私たちは、嘉国女王陛下、並びに天渺宮を暗殺し、燦州首相をも殺した。この国は、私たち、左派のものになった。そして、嘉国と戦争を始めた。『革命』さ」

 総裁の唇が、僕の唇を這う。いやらしく鼻につく、甘い煙草の香り。顔をさする、豊かな髭。

 それは、僕にはどうでも構わない。

 天渺宮を、殺した?

「君は、死んだことにしておいたよ」

 たかだか二年の在位の『天祥の象徴』でも、嘉国の士気を削ぐには有効でしょう?

「そう。だから君は、今、死人だ。誰でもない」

 誰でもない。

 僕は、その言葉を反芻する。つまり、彼らにとって今の僕は、何でも入れられる、空っぽの器、ということか。

「なので、君がどれだけ嫌がろうと、君にも参加してもらうよ。何せ、うちは人手不足だからね。そのための、この銃だ」

 銃を、僕に突きつける。

「是、と言わせるよ。何故なら、君は、」

「閣下」

 ポマードの黒装が、うつ伏せたまま否した。

「今は、手短に」

「いいよ」

 副総裁。

 天渺宮の、お父上殿。

 僕から手を離した総裁の笑みは、勝ち誇っている。

 僕は、世界から弾き出されたように呼吸を忘れて、その一言にただ、茫然とした。

 父、親?

 思わず、副総裁と呼ばれた、黒装の男を仰ぎ見る。彼は、僕の方を見ようともしない。変わらず、総裁に平伏している。

 確かに、幼い頃、この人が傍にいた。

 女性が、入れ替わり、立ち替わり、僕に付き添っていた。他にも色々な大人が、目まぐるしく現れては消える。一日に何度も訪れていたのが、確かに、この人だった。

 訪れては僕に、繰り返し、十年戦争と、革命の話をした。

 そして、革命は終わらない、と、言った。

 終わらなかったのだ。


 僕、は。


「じゃあ、手短にいこう」

 総裁の声音は低く、明るかった。手元には、銃。

 本題だ。

「天渺宮。あなたは、燦国の処刑人になれ」

 言っている意味が、分からない。

「罪を犯したものは、区別なく処刑する」

 総裁が合図すると、鉄扉が開いて、ゾロリと、裸体の老若男女が引き摺り込まれた。文字通り、引き摺り込まれた、だ。縄で一連に繋がれた肉叢ししむらが、引き摺られて、這入はいってきた。泣く者もいる。喚く者も。俯く者。睨む者。気を失った者。皆、髪が千々に乱れていた。随分と、抵抗したのだろう。

「罪を犯したものは、区別なく処刑する。それが、この燦国の、新しい法律だ。どうだい? 素敵だろう? 罪を、悪を、一掃するんだ」

 嫌悪感に満ち満ちた目で、総裁は国民を、肉叢を、一瞥する。

「こいつらを、君が殺せ」

 なんだ?

 この感情は、なに?

 僕の中に、理性と真逆の感情が、もくもくと湧き上がっていく。まるで、果てしなく増えていく、盛夏のどす黒い積乱雲。

 総裁の顔を凝視する。

 最低の、表情。生きたいと訴える民を、なんとも思わない。仄かに嗤うその口元には、優越と、反知性。目の奥に潜む、いじめっ子と差分のない、幼稚性。

 浅墓で、陰性。

 それと、この髭面の異形の、真っ黒な子分。

 こんなものらが、燦州を踏み躙るのか。女王陛下を、殺したのか。

 嫌悪なんかじゃ、とても間に合わない。

 苛々する。

 これは、厭悪だ。


 掏摸スリでも、殺す。詐欺でも、傷害でも、涜職でも、軽微な事故でも、等しく殺す。そういうことでしょう? 国民を、闇雲に処刑する法律とは。

 それが、左派のしたかった、革命か?

 違う。

 これは、ただの、怨讐だ。

 僕や陛下、ひいては、嘉国すべてへの。

 この人たち、左派の革命に端を発した燦州内乱は、先程総裁が「死んだ」と告げた、嘉国女王陛下の介入によって、左派敗北で平定された。

 八年前のことだ。

 平定されるまでに、長い時間を要した。

 長い、内乱だった。

 終わるまでに、多くの命が失われた。燦州の民は、女王陛下の勇断を支持した。

 この新法律は、あの頃の、ただの憂さ晴らしだ。

 革命を認めなかった嘉国を壊したい。

 革命を支持しなかった燦州を壊したい。その国民を、屠りたい。

 ただ、それだけだ。

 名目上、燦州を国に仕立てただけの、ていの良い、虐殺。

 革命ですらない。

 国を、人命を、疎かにする革命?

 それに、加担せよ、と?

 冗談じゃ、ない。


「厭、だ」

 右肩、左腰、右脹脛みぎふくらはぎ

 体が火照ほてりを帯びると、広場で撃たれた銃痕が、一斉に疼き始めた。医療器具から外されて、しばらく経ったからだろう。血も、足りていないと感じている。喉が、乾く。体は、辛かった。ちょっとした動作ひとつで、鉄枷が僕の手首を軋ませる。骨身に食い込んで、耐え難い。呼吸が、乱れてきている。痛みで、気が遠のきそうになる。これから起こるであろうことに、体が勝手にふるえてしまってもいる。逃げられるものなら、逃げ出したい。でも、この状況で、僕にできることなんて、何もない。はい、承ります。そう頷くのが、一番いいのだろう。

 でも、いかに今の僕が、天渺宮でも、雨ですらなくても、彼らに協力するくらいなら、死を選ぶ。

 どんな醜態を晒そうとも、彼らには、抗う。

「断る」

 絞り出すように表明する。眼前の総裁を睨む。副総裁を、睨む。

 絶対に、厭だ。

「僕を、殺せ」

 僕の右手の平に、銃口がぴたり、突きつけられた。

 真冬の外気に晒された鋼は、しっかりと冷やされ、僕からなけなしの体温を奪い取る。

 ッとした。心臓がぐるぐると掻き回される。

 やはり、僕を、嬲る気か?

 悪趣味め。

「僕?」

 総裁は、嗤った。「私、だろう?」

 宵花さま。

 そして、僕の手を、総裁は、躊躇なく撃ち抜いた。


 僕は、三発目の銃弾で意識を失った。全て、右手だ。手の平、手首、肘上。

「燦国の処刑人になれ」

 背くたびに、銃声が鳴る。

 次回は、おそらく数日後のこと。寝台の上で目を覚ました、その直後に、拘束具に繋がれた。上腕、肩。

 三度目は、肘窩、二の腕。医師曰く、その他に四箇所、撃たれたらしい。肩、鎖骨、上腕、脇。まるで、記憶にない。

 それ以降は、わからない。

 撃ち嬲られ、目覚める度に、僕は寝台の上で、点滴袋と斑らな天井を見た。

 医師が、頻繁に大声を張り上げている。

 白衣の女性が、泣き喚いている。

 胸を、誰かが力一杯に叩いている。

 寝台の上の僕は、夢と現を、行き来しているらしい。どっちがどっちか、わからないよ。

 譫言うわごとが、聞こえる。

 僕のものかもしれない。

 朦朧の淵で、時折、黒装が、僕を覗き込んでいる気がする。

 厭だ厭だ厭だ、厭だ!

 誰の、声だろう? 夢、だろうか?

 もはや、何もわからない。

 何も。

 何、も。


 或る時。

 目の前に『先生』がいた。


 なぜ?


 僕は、もう、ひと声も出せなかった。目も、よく見えない。耳も、聞こえない。ひどく、静かだった。安らぎすら、感じていた。考えることも、ままならない。痛みは、峠を越して、もう、覚えることもない。死、という一文字だけが、鮮やかだった。

 先生は僕に向かって、何かを言っているようだった。喚いているようにも見えた。何を、言っているの?

 聞こえないよ。

 ただ、先生の必死そうな様子だけが、ぼやけたまなこに焼きつく。丸眼鏡が、ずり落ちているようだ。

 直して、あげないと。

「こう見えても、急いでいるんだよ?」

 総裁が、嗤う。

「次、断れば、『先生』を撃つ。いい返事を期待しているよ」

 或る香りが、ふと、鼻腔についた。それは、先生の香水の匂いだった。

 懐かしくて、愛おしい、思い出の匂い。月桃。

 僕は、先生のこの匂いが、好きだった。

 これは、夢?

 現?


「先、生?」

 声にならない声で、呼びかける。

「せんせい」

 左手を伸ばそうとして、鉄枷に阻まれた。尚も、伸ばす。浮腫むくんで痣だらけの手首がはち切れて、真新しい血が肌を伝う。床に滴る。あたたかい。

 先生が、僕の呼びかけに、応えている。何度も、応えているみたいだ。必死に、何かを言っている。僕の名前を、呼んでくれているんだろうか? 

 先生らしき物影が、少し、近くなった。

 月桃の匂いが、これは現だよ、と、教えてくれる。

 きちんと、見えた。

 ああ、先生だ。

 あまり、変わっていない。

 銃口が、先生の側頭を撃ち抜かんとしている。

「先生を撃っても、いいのかな?」

 ひどい、ことをする。

 先生が、何かを盛んに言っている。借りを作るのをひどく嫌う、僕の、好きな人。

 聞こえなくても、きっとそう、言っているのだろう。「僕のことは、気にするな」

 でも、ごめんなさい。


「死なせない」

 その言葉は、声は、先生に、届いただろうか?

 先生は、どんな顔をしただろう?

 わからない。見なかった。


「燦国の処刑人になれ」

 是、と、答えた。


 僕は、手折れた。


 それから、色んな夢を見た。

 最初に、先生と暮らしている夢を見た。


 町外れの洋館で、先生は毎朝、珈琲を淹れる。先生は珈琲豆の蘊蓄を話し、茶請けのチョコレイトをひとつまみ。

 そうして、いつまでも仕事に行こうとしない先生を、僕が、生真面目に嗜めている。

 先生は、書斎から持ち出したアルバムを徐に広げた。

 南国の宮殿。美術館。海の景色が纏められている。

 一緒に行ったねえ、と笑っている。

 お弁当、美味しかったのに、どうして残したのさ?

 先生の問いに、僕は答えられない。声が、出ない。

 僕の中から、声が、消えている。


 王宮の書斎で、物語を書く夢を見た。

 一点の曇りもない英雄が、囚われてしまった親友をたすけようと、立ち上がる。冒険物語だった。

 英雄は、意気揚々と旅に出る。でも、一食を得る方法も、寝床を得る方法も分からない英雄だった。

 英雄は、たくさん、罪を犯した。捕えられて、親友を扶けに行けない。

 親友は、処刑された。


 お父さんと、出歩く夢を見た。

 父は、ポマードを髪にたっぷりと塗り、体には白襯衣しろシャツに、紺の縞袴を合わせている。

 そこに、茶褐色の中折れ帽に、黒革の小さな手持ち鞄。乳白色の、鼻緒の高下駄。

 和洋折衷の破茶滅茶な装いで、僕を真昼間の色街へと誘う。からん、からん、高らかに鳴る下駄の足音は、灰色の世界で、どこか、虚しい。

 僕は、子供。お父さんに、手を引かれている。

 ここが、有名な赤鳳楼せきほうろうだよ。

 お父さんが言う。有名な娼妓がいたんだ。

 しょうぎ? こま?

 お父さんは、苦笑いをしている。

 可愛い女の子のことだよ、と言う。そうなんだ。

 僕には、よくわからなかった。


 義理の姉に子供ができて、その子と王庭を走り回る夢を見た。

 女の子だった。二人で鬼ごっこをしている。

 隠れていた愛らしい鬼さんから「おじさん」と呼ばれる。なんだろう? と、振り返ると、その子は、その小さな手に伊呂波紅葉の枯れ葉を持って、綺麗だよ、と言った。

 もう、鬼ごっこでも、なんでもなくなってしまったじゃないか。

 鬼さんは、「でも、落っこちてきちゃったの、だからつけてあげないと」、そう言う。とても必死だ。愛らしい。そうか、つけたいのかあ、どうしようかなあ、と、僕は思案する。

 とりあえず、木の上に乗せて、返してあげようよ、と提案する。その小さな体を肩車にして、「届く?」と尋ねる。

「届かない」

 小さな体が答える。

 じゃあ、その子は、僕たちが面倒を見ようか。それとも、お母さんならなんとかしてくれるかもしれないね。

 女の子は、枯れ葉を僕に渡した。

「じゃあ、おじさんにあげる!」

 僕は、受け取った。

 その枯れ葉は、緑と赤の入り混じった、穴だらけの醜い枯れ葉だった。


 それから。


 目が覚めると、そこには、まるで変わり映えのしない、点滴袋と斑らな天井があった。

 落ち着いた様子で働く、白衣の人たち。

 医師が、僕の瞳孔に、蝋燭の光を揺らめかせている。

 静かだった。

 先生が、僕を抱き寄せて、眠っている。

 浴衣姿だった。丸眼鏡は、つけていない。まるであの時の、先生だ。

 月桃の香りがする。

「先、生?」

 でも、左手を、幾らしとねに這わせても、その華奢な肢体はどこにもなかった。僕の体は、確かに先生に抱かれているのに、寝台の上には、誰もいない。どうして、だろう?


 南の国の、夢を見た。


「いい匂い」

 私は、そう言った。先生の体からは、香水の匂いがする。それは、昼間嗅いだ、月桃の花の香り。

 夕べ、食事の折に女将さんが先生につけていた、あの香水の匂い。

「ああ、これ?」

 月桃のことか。先生が、笑う。

 おいで。

 そう言って、先生が、私の体を掬い上げて。あの頃、私は、十になるか、ならないか。男娼になって、初めての休暇だった。先生と、旅をした。

 南国へ行った。

 私たちは今、はだけた浴衣を互いに纏って、抱き合っている。何度も、こっそりとまぐわった。今日の先生は、とても優しい。

 私は、お蒲団の中、先生のおなかのあたりで、丸くなっていた。あの日は珍しく、ひどく眠たかった。夜行列車の中で、うまく眠れなかったせいだろう。

 そんな、うつらうつらした私を、先生が抱え込んで、掬い上げる。私の顔が、するりとお蒲団の外に出る。

 目の前に、丸眼鏡を外した、先生の顔。

 笑っている。

 抱き寄せられて、鼻先が、先生の首筋に、うんと近づいた。月桃の香りが、鼻腔につく。

 本当に、いい匂い、と思う。

 花に、こんなに匂いがあるだなんて、私はちっとも、知らなかった。なんて、安らぐのだろう?

 好きだな。

 私は、先生に甘えて、ぎゅ、と、抱きつく。先生の匂いを、嗅ぐ。 

 先生の大きな腕が、私を包む。

 幸せだった。

 温かい。

 離れたくない。

 このまま、ずっと、こうしていたい。

 ずっと、こうしていられたなら。


 どうして、これが、夢なのだろう?



 僕はそれから、女になった。

 黒いドレスを身に纏う、右腕の不具な、女の処刑人。

 名は、死の媛。

 今も、雨は、月桃の夢から醒められずにいる。月桃の匂いが、消えないのだそうだ。


 今宵は、西方の半虧はんかけの月。


 死の回廊で、私は、いつものように、月へとこいねがう。いつからか、そうするようになった。

 いつから、だったろう?

 ああ、そうだ。

 回廊の下に、先生の姿を、見つけた時からだ。

 最初の、春の折。

 今の私の足元には、桜の花片。

 また、春になった。


 希う。

「どうか私に、先生を殺させないで」

 月は、西の橙雲を彷徨う。

「そのためなら、私は喜んで、罪悪者になろう」

 琥珀の光は薄暮に紛れて、普遍的だ。

「だから、私の前に、先生を連れて来ないで」

 その表情は薄く、冷たく、いつも、変わらない。

「私は、ど」


「お前は、いつもそうやって自分を犠牲にしようとする!」


 突然。

 つんざくような怒声が、耳朶をひっぱたいた。

 先生の声だった。


 壇上を、振り返った。

 顔を覆う麗糸レースの布が、振り払われる。

 髪の端が、僕の顔を叩いた。

 いない。


 あたりを見回した。

 仄暗い場内には、すし詰めの群衆が亡霊のように、ゆらゆらと揺れているだけだった。

 いない。


 月桃の香りは、絶えない。先生は、いない。

 いない。いない。


 うろうろと探す度、僕の右腕は、慣性で重たく揺れた。消えない痛み。動かない右腕。それは、まるで自分。痛みは、僕。不具は、私。

 もう、迷っては、いけないのに。

 迷えないのに。

 先生。僕は。

 もう一度、言ってよ。

 そう言いたくても、叫びたくても、声に出来ない。

 右腕と共に、僕の声は、死んでしまった。


 壇上をひとしきり彷徨い歩いたあと、私は、今一度、空を仰いだ。

 月ではなく、真反対の方角。

 東方の時計塔より私を見下ろす、燦国総統閣下のかがやかしい御姿を。

 彼は、嗤っている。


 閣下に誓います。

 私はあなたに、正しく付き従う。歯向かうことは、一切しません。

 失敗も、するものか。

 先生を守る。

 あなたなんかに、殺させはしない。


 背中に乞う。

 だから、どうか。

 どうか、せめて私を、完璧な死の媛にしてください。

 先生を守るすべを、私にください。そのために、この身がいくら犠牲となってもいい。

 先生に怒られて、嫌われても、構わない。

 死の媛に、なりたい。

 じゃなきゃ、守りきれない。いつかきっと、悪いことが起きてしまう。


 だから、だれか、この匂いを消して。

 私を、もう迷わせないで。これ以上、くるしくしないで。

 雨を、消して!

 はやく、忘れさせてよ。


 先生。

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