第9話
勉と会う約束をした日の土曜日は夏日だった。学校では夏休みが始まり、小中高生は一年で最も気分が高揚する時期だった。そんな折に、健吾は佐渡の繁華街にある飲み屋で勉を待っていた。飲み屋までは電気自転車でおよそ二五キロを走った。
そこは焼き鳥がメインのチェーン店だった。客の入りは七割程度とかなり入っていた。この暑さであれば、ビールを飲みたい気持ちになるのはよく分かった。先に着いた健吾は、テーブル席でメニューを眺めていた。
時間に十分ほど遅れて、勉が着いた。Tシャツに短パンという出で立ちだった。健吾はすでに瓶ビールを飲んでいた。
グラスビールで乾杯した。会うのは高校生の頃以来だったので、お互いにこれまで歩んだ人生について話すことにした。勉は専門学校卒業後はずっと佐渡暮らしということだった。今の仕事は二八からで、もう一生続ける予定だ。結婚は何度か見合いしたが、うまく行かず、もう諦めた。今は親の介護と仕事に追われている。
勉は田舎によくいる、風体を気にしないオヤジになっていた。若い頃からそうだった可能性も大いにあるが。
「今でもアニメは見とるの?」と健吾は訊いた。
一瞬勉は驚いたような顔をしたが、笑顔を見せて言った。
「相変わらず見とるよ。ガンダムもずっと見とる。まさか今でもガンダムが続いとるとはな」
「だよな。ガンダムは日本を代表するアニメになったよな。俺らが子どもの頃、ガンプラに熱狂したのは当然のことだったんだ。当時は同じ富野由悠季のイデオンのプラモも売っとったんだよ。だけど、売れ行きはまったく違った。なぜか? それだけガンダムには熱狂させる要素があったからだ」
「それは初代ガンダムだろ。初代ガンダムを超えるものはないよ」
「だな、しかしZは、映画として作り直したものならば超えた気もするが、今思えばああいう展開にしたのは残念だったな」
「それは同感だな。終盤に近付くにつれ、オカルト色が強くなったしな」
勉とは延々とガンダム談義ができそうな気がした。しかし、それが今日彼と会った目的ではなかった。
「ガンダムの話はまた後で。今度はそっちの番だぞ」と勉。
健吾は大学を二つ出たこと。大学卒業後は、複数の会社での非正規雇用を五年ほど続けた後、翻訳家として独立したことを話した。
「おお、苦労したんだな。大学二つも出れば、余裕で就職できると思ったんだが」
「まさか。最終学歴が文系の大学だから、就職にはメリットないよ」
「そういうもんなのか。で、結婚はいつしたんだ?」
「ああ、この間の女性とはまだ結婚してないんだ。つい二か月くらい前に会ったばかりで」
「じゃあ、佐渡の女性か。でも、もう結婚するんだろ?」
「まあ、そうだな」
「おめでとう!」
「……ありがとう」
健吾は結婚に向けて話が進んでいたことを忘れていた。
「えっ? なんか乗り気じゃないようだが。五〇で結婚なんてそうそうないぜ」
「……向こうの親ともあったし、乗り気でないことはないんだが……、まあ、この話は措くとしよう」
健吾はそう言うと、メニューが表示されているタブレット端末を手に取った。結婚か。そう言えば、そうか。しかし、同棲でいいんじゃないか、と今更健吾は思うのだった。
確かに一時は結婚こそが人生を補完すると考えていたこともあったが、今はそうしたことはありそうもないと思えるのだった。五〇を超えて未婚の人間は問題があると思われるのはわかるが、それを否定するために結婚というのは違うのではないか。
通路を挟んで右ななめの席には家族連れがいた。子どもは男の子で十代後半と思えた。その子は健吾にチラチラと視線を向けていた。やがて家族全員が健吾を見ると、その子はこちらに向かってきた。
「あの、この前はお話ありがとうございました。ぼくは先生の話を聞いて頑張ろうという気になれました」
初々しい男の子だった。その子は英語が好きで、将来英語を活かす仕事に就きたいということだった。健吾は「英語を活かす仕事」の将来性に懐疑的だったが、その子に思いとどまるようには言わなかった。そうした仕事がこの先なくなるとは断言できないのだから。
健吾は日頃どんな勉強をしているかなどを訊いてから、勉強の仕方について助言した。その子は目を輝かせていた。その子にとっては、健吾は成功者に見えるのだろう。確かに翻訳家として十年を超えるキャリアがあったし、収入面でも翻訳家の中では成功している部類かもしれない。しかしながら、そうだとしても、十代の頃から抱える闇がほかのすべてのことに勝っていた。
「若者にも知り合いがいるなんてすげーな。どこで知り合ったの?」
高校生が元の席に戻ると勉はそう訊いてきた。
「母校で」
健吾は母校の高校で講演したことを話した。
「マジか! そんなVIPになったんだ」
「そんなわけねーだろ」
「しかし、高校生の前で話すなんて、俺に言わせたらVIPだよ」
「……確かに、正直自分が全校生徒の面前に立つとは思ってもみんかったよ。だけどそれは、ただ単にここでは珍しい人種だからってだけだと思うが。……まあ、そんなことはどうでもいいんだ。それよりも、俺は君に訊きたいことがある。ほかでもない理美のことだが、彼女が中学生の頃、レイプ未遂に遭ったことは知っとるか?」
「……ああ、知っとる」
急に勉の声のトーンが下がった。
「知っとる? 警察しか知らんはずなのに。ということは、やはり君が犯人か?」
「俺にそんな大それたことができるわけないだろ。警察が来たんだ。直接何があったか言わなかったけど、理美さんのことを訊かれて何かあったと思って、君のお母さんに訊いたんだ」
「警察が。そうだったのか。窃盗の件は自白しなかったのか?」
「しなかったっよ。言ったら君にも累が及ぶだろ」
「……まあな、実際の犯行に及んだのは俺だから。俺は妹に問い詰められて、嘘までついた。割りを食ったのは俺だ」
「……それが言いたかったのか。君も執念深い奴だな。実は、俺もその事件のことはずっと気になっとたんだ。といっても、俺は警察じゃないから何もできんけど。でも、偶然警察の人と知り合いになってね。その事件のことを訊いたら教えてくれたんだ。目撃者情報から容疑者は俺らと同じくらいの年齢ということだった。でも、それ以上は何もわからない。だけど、俺はかなり怪しい奴を知っとる。なぜなら、そいつは当時俺にからんできて、君がどんな参考書で勉強しているかとか聞き出そうとしたから。ピンときただろ? 彼は大学現役合格できずに、地元で浪人することになった」
「まさかあいつが、……しかし、俺に嫉妬したとして、妹に手を出す――」
健吾は最後まで言い終えないうちに、慧一が自分を振った女と付き合ったことを思い出した。そのときも学業で自分に負けたことを腹いせにそうした行動に走った可能性があった。最終的なゴールである大学受験で、相手に決定的に差をつけられたとき、彼がどれほどの悔しさや嫉妬心を滲ませたかは想像に難くなかった。そうした負の感情が妹への危害という形で噴出したというのか?
「もしそうだとしても、もはや時効だ。あいつに法の裁きを受けさせることはできない」
「それはそうだ。もう何もできん」
勉がそう言うと、二人は無言で飲み食いした。味は悪くなかったが、焼き鳥も酒も二の次だった。引っかかっていた問題に進展の兆しが見えたことは嬉しかった。さらに勉が犯人ではないということも(まだ確実にそうだとは言えないが)。しかし、同時にもどかしさもあった。なんとかしてさらに進展させたい思いがあった。そこで、理美にまだ何も訊いてないことに気づいた。デリケートな問題だが、まずは本人に訊く必要があると健吾は考えた。しかし、そこまでするなら、当然自分の罪も告白する必要があるのではないか、とも思った。直接事件に関わることではないとしても、それを隠しとおすのはできない気がした。それに、自分が理美に欲望を抱いたわけではないから、そこまで嫌悪感を抱かせることはない、と。健吾はそうしたことを勉に話した。勉は直接理美に訊くことには賛成したが、窃盗の件を理美に謝罪することには反対した。しかし、健吾は譲れなかった。最終的に勉は折れたが、謝るとしてもただ謝るだけで良いのかどうか、と疑問を呈した。
「そうだな。菓子折りでも渡すのが良いのかな」
勉はその案を受け入れた。
「実は俺、妹さんとは偶然何度か会っとるんだ。彼女は俺のことを認識とる」
「そりゃあ、会うだろうな。小さなコミュニティだから。それで、怪しまれとるのか?」
「わからん。でも、そうかもしれん。当時君の家に出入りした男は俺くらいしかおらんからな」
「……なるほどな。確かにそうだな。まあ、いいだろ、もうこの件は。解明すべきは、もっと凶悪な事件のほうだ」
「ああ、確かに」
そう言う勉は浮かない顔だった。
「ところでまだアレ持っとるか?」
勉は一瞬何のことかわからないようだったが、健吾が笑いを浮かべているのを見て察した。
「ああ、どうかな。わからない。捨ててはないが」
そう言うと、ばつが悪そうにビールをすすった。
それから一週間後の土曜日の昼過ぎ、健吾は勉と二人で理美の家を訪れた。玄関に出てきた理美は「お久しぶりです」と勉に挨拶した。
健吾は三人で話したいと言ったが、理美の家には彼女の部屋はなかった。幸いほかの家族は、周りにいなかった。夫は仕事で外出、娘は部屋にいるということだった。
理美がグラスに入った麦茶を三人分用意すると、二人が理美と対面する形でダイニングキッチンのテーブルに着いた。妹は、グレーの半袖スウェットワンピースを着ていた。
勉のほうを見ると、額に汗を浮かべていた。
「それは?」と理美が勉がテーブルの上に置いた菓子折りについて尋ねた。
「どうぞ受け取ってください」
「えっ!? 唐突すぎませんか?」
「俺らには理美に謝らないとならないことがあるんだ」と健吾。
「……」
「理美が中学生の頃だけど、下着がなくなったと騒いどったよな。それ盗んだの俺なんだ」
「いや、わたしが盗ませたんです。本当にごめんなさい」
勉はそう言うと、深々と頭を下げた。健吾も倣った。妹はあっけにとられているようだった。健吾は下着を盗むに至った経緯を説明した。
「承知しました。謝ってくれたのは嬉しいです。……わたしからはほかに言うことはないです」
理美は冷静を装っていたが、対面の誰とも視線を合わすことはなかった。
「あと、念のために言うと、彼はそれ以外のことには関与していないそうだ。罪滅ぼしではないけど、俺らは別件、つまり暴行未遂の件に関心があるんだ。言いにくいことだろうが、もし覚えていることがあったら教えてもらえんかな?」
「そのことなんで知っとるの?」
健吾は母親から聞いたことを話した。
「……その件は、もう解決しとるよ」
「そうなのか? 犯人が捕まったってこと?」
「そうじゃないけど、示談になった」
「示談か……。実は、俺らは怪しい奴に目星をつけたんだが、犯人を教えてくれないかな?」
「そうね……。示談の守秘義務条項があるんだけど、今更知ってどうするの?」
健吾は勉と顔を見合わせた。相手からはリアクションがなかった。
「謝らせようと思っていたが、もう謝ってもらったのか?」
「そうだね」
「……そうか。じゃあ、もう俺らの出る幕はないってことか」
「そもそも、なんで今更そんなことに興味を持ったの?」
「今更ではない。前からだ」
健吾はずっと勉が犯人だと疑っていて、それについて自分にも責任があると思っていたが、今は別の人物を疑っていると話した。
「なるほどね。もうずいぶんと前のことだから別に話してもいいんだけど。特に身内にはね。もちろん、それをネタに相手をゆすったりしなけばだけど」
「もちろん、そんなことはせんよ」
理美は二人に目配せすると、口を開いた。
果たして真犯人はまさしく慧一だった。暴行未遂以外にも浴室の覗きが発生していたが、その犯人も慧一であり、動機としては、大学受験に失敗して、自暴自棄になっていたとのことだった。
「なるほど、それで覗きやレイプとはすごいな」
「彼とは何年か前に偶然、
二人は理美の家を辞した。外はすっかり日が照っていた。小説のネタになりそうな出来事に健吾は創作意欲を刺激された。その一方で、当時の強迫観念を思い出した。結局、大学受験とは、学力で地位をつかもうとするある種のゲームだが、そこには、大学生という地位を武器として女をゲットしたいという思惑もあった。それゆえに、勉強だけでも頑張れた。そのとき、頼みの大学受験に失敗したら、性欲が暴走することは考えられた。もし自分が彼の立場だったら、どうなったかわからない。
「これからどうする?」
そう言う勉は晴れ晴れしい顔だった。
「一件落着ということで飲むか?」
「昼から? それもええな。どうせ休みだし」
健吾は勉と歩きながら、飲み友達ができたことを喜んでいた。(了)
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