第8話


 ――約一年後。

 うららかな春の朝、健吾はうぐいすの鳴き声で目が覚めた。時間は、すでに朝の九時を過ぎていた。今日は日曜日だったので、スマートフォンのアラームは鳴らなかった。テーブルの上のDJ機材は健吾が寝る前まで稼働していた。深夜の二時まで健吾はおよそ三時間にわたりDJ配信をしていたのだった。

 DJ配信をするようになってから、来場者は急増していた。それはDJの上達の指標であると考えられ、いやが上にもDJに熱心になっていった。始める前は、知らない外国語のようにとっつきにくかったターンテーブルも今やその大部分が明らかになっていた。

 健吾にとって何よりも嬉しいサプライズは、鈴香がDJ配信を見ていることだった。姪っ子が自分の正体を明らかにしたとき、健吾は親は自分の配信を見ていることを知っているのか、と訊いた。「知らない」と鈴香は答えた。健吾は妹夫婦の子どものインターネットの管理に一抹の不安を覚えたが、そのことで鈴香との間に秘密のつながりができた気がして嬉しかった。

 結局、移住は成功だった、と健吾は考えた。女との出会いこそないもののDJという新しい趣味を見出したのは大きかった。それに加えて、地元の名士になるチャンスを掴んでいた。翻訳家という職業は田舎では異色であり、母校の高校の卒業生の中で、教師を除き健吾のような頭脳労働者はほぼゼロだったが、そのこともあり、健吾は成功者と目されていた。そこで、母校から講演を依頼されたのだった。健吾は五月に母校で自分の半生を語ることになっていた。講演は初めてだったが、それは地元で名を売るチャンスだった。


 五月のGW明けに健吾はかつてその場に立つことなど夢にも思ってなかった母校の体育館の壇上に立った。そこからの光景は圧巻だった。三百人を下らない全校生徒を前に自分が支配者になったような気分になれた。大半がまだ従順な子どもに見えた。「起立」と言ったら、従うのではないか、と健吾は思った。俄かに自分のこれまでの罪が思い出された。

(俺のような大人が子どもの前で話して良かったのか。しかし、もう後戻りはできない)

「……どうも初めまして。高津健吾と申します。ぼくはXX高校の卒業生でして、八八年から九〇年にかけてこの校舎で学んでいました。この度は、縁あってこうして壇上に上がらせていただいています。まず自己紹介をしますと……」

 講演では、健吾の現在の生活や翻訳家という職業、その職業に就くまでの道のり、高校生の頃や大学生の頃の話をした。

 健吾はパーカーにチノパンという非常にカジュアルな服装で壇上に立っていた。一般的にはスーツが妥当だとわかっていたが、普段まったく着ることのない服装をするのは違和感があった。今日の服装は、高校生の普段着と変わらず、年長者との距離を感じさせないためにも効果的に思えた。また、そこには服装について校則を設けている学校への暗黙裡の批判も込められたいた。

 高校時代については、勉強だけで、友達もほとんどいないという何とも惨めな状況に甘んじていた自分について赤裸々に話した。「学校と家の往復の毎日でしたね。もしかしたら、皆の中にもぼくと同じような人がいるかもしれないけど、お勧めはしませんね。当時勉強したことってやっぱり何年かしたら忘れてしまいますし。まあ、成績上位というのは優越感を得られますけどね。でも、それだけでは女子にモテないです。実はぼくも当時とある女子を好きになって振られたことがあります。ほとんどしゃべったこともない人なので、当然といえば当然なんですけど。まあとにかく、勉強が好きで勉強するならいいんですけど、ほかに好きなことがあるならほかのこともやったほうがいいと思います。それはスポーツでもいいんですけど、スポーツが苦手なら例えば読書でもいいと思います。まあ、大学受験は今でも厳しいでしょうし、毎日勉強漬けの人もいるでしょうけど、受験勉強なんて社会全体からしたらほんの一部で、ほかにも面白いことはたくさんあるんですよ。やはり、皆さんの年頃はいろいろなものに触れて刺激を受けたほうが良いと思います」

 健吾はおよそ一時間半にわたり、講演をして、壇上を降りた。そのとき、拍手に迎えられ、気を良くした。


 それからも健吾は相変わらず、週末はDJや執筆をして、日々を送っていたが、妹の態度が変わったように感じられた。それは知り合いの女性を紹介してくれたためだった。その人は理美の同級生であり、バツイチで小学生六年生の子どもが一人いるということだった。

 健吾が世帯を持つことは、高津家の中でパズルの欠けたピースのようなものだった。中年になって世帯を持つことは形式的といえばそれまでだが、一人暮らしが基本的に想定されていない田舎ではそれこそが重要なことのように思えた。健吾自身今更という思いがあったが、敢えて断る理由はなかった。

 そうして顔合わせの日が来た。佐渡一の繁華街にある某レストランでのランチだった。健吾は待ち合わせの一〇分前に着いたがすでに相手はいた。意外といいのではないか、というのが健吾の第一印象だった。肌がきれいで、笑顔を見せてくれたのが大きかった。

 初対面同士の形式的な会話の後、相手の女性の津田昭恵つだあきえは、健吾が母校で講演をしたことに触れた。健吾は昭恵がそのことを知っていることに驚きを隠せなかった。

 昭恵は理美から聞いたということだった。それも健吾にしたら、なかなか意外だった。妹が自分のことを積極的に話すことを想定していなかったから。

「どんなことを話したんですか?」


 ランチはいい感触だった。その後何度かデートを重ね、毎週会うのが習慣になった。思いがけず差し込んだ光は、日に日に明るくなっていった。そのうち昭恵と暮らすのも良いのではないか、と思うようになった。それは普通の暮らしと言えたが、経済的にも精神的にもメリットがあった。唯一デメリットがあるとすれば、小説執筆やDJという趣味の時間が減ることだったが、メリットがデメリットを大きく上回った。DJは措くとして、執筆は骨が折れたし、そもそも孤独だから書いているところがあった。孤独でなくなったからには、その役目を終えたということである。若い頃は家庭を軽視していたが、それは自分の家庭環境の影響だったのかもしれない。家庭それ自体が悪いわけではない、と健吾は考えるようになった。

 二人はお互いの親(昭恵はすでに父親を亡くしていた)と顔合わせした。結局、健吾は人生で恋人の父親に会うという考えるだけでゾッとする体験をすることはなかったと考えた。どちらの親も二人のカップリングに大賛成であり、次の段階に進むことに何の障壁もなかった。二人とお互いの親は健吾の実家の離れを改修して、ゆくゆくはそこに二人の城を築く方向で合意した。

 いわば遅すぎた春に健吾は恥ずかさを感じながらも喜んでいた。


 梅雨も終盤に入った頃の土曜日、健吾は昭恵と二人で家電量販店に買い物に来ていた。

 二人で掃除機を見ているときだった。健吾はこちらに視線を投げている作業服の男に気付いた。目が合うと、その男はこちらに歩み寄り、「健吾か?」と声を掛けた。健吾はその男を知っている気がしたが、思い出せなかった。しかし、どこか不穏な予感がした。

「忘れたのか? まあ、何十年も会ってねーから仕方ないか」

 健吾は男の顔を見ているうちに、その丸顔や低い鼻や細い目が昔の記憶に結びついた。

「もしかして、つとむか……」

「ビンゴ。久しぶりだな。佐渡にはいつからおるの?」

「まだ一年とちょっとか」

「最近帰ってきたのか。そちらは、嫁さんかな?」

「あー、まあ、そんなとこかな」

 勉は「健吾の高校の同級生の牧野です」と昭恵に向かって挨拶した。

「今はこの辺に一人で住んどるんだ。今度連絡くれよ。飲まんか」

 勉はそう言うと、名刺を渡した。そこには、「村田設備」という会社名とともに「配管工」という肩書があった。

「配管工やっとるんだ。ごめん、俺は名刺持ってなくて、仕事はしてるけどフリーランスなんだ」

 健吾は仕事の話をすると、連絡先交換して勉と別れた。


 その日、買い物が終わって、健吾の家で昭恵と二人で夕食を摂っているとき、昭恵は勉のことを持ち出した。

「牧野さんとは仲良かったの?」

「ああ、そうだね。高校で唯一の友達だった」

「へぇ~、そんなんだ。でも、しばらく会ってなかったんでしょ?」

「うん、いろいろあってね」

「……そうなんだ」

 健吾は初めて食べるチーズ入りのスープを掬いながら、一気に過去へと引き戻された気になっていた。勉こそがこの四半世紀にわたり、ずっと引っかかっていた人物だった。勉がある事件に関与している疑いを持っていたが、彼が黒だとすれば、そこには健吾も間接的に関わっていた。

 

 勉とは高校二年の頃、当時、健吾の唯一の趣味であったアニメを通じて知り合ったのだった。健吾は再放送だったが、Z《ゼータ》ガンダムを熱心に見ていた(初回放送時も見ていたが、その当時は小学生であり、理解していなかった面が大きかった)。

 健吾は勉が休み時間にZガンダムの話をしているのを聞いたのだった。勉はガンダムマニアであり、映画も含めて、これまでのガンダムをすべて見ていた。以来、彼とガンダム談義をするようになった。またアニメ雑誌の『ニュータイプ』を購読するようになった。

 勉は何度か学校から徒歩で数分の健吾の家に来て、アニメソングを聴いたり、『ニュータイプ』を読んだりした。そうした中で、彼は理美と面識を持つようになった。

 ある日、勉が家に遊びに来ていたとき、理美の部屋を見せるようせがまれた。

 勉は理美の部屋に入ると、「ええ匂いがするなあ」などと言って、本棚の本やら男性アイドルのポスターやらを一つひとつじっくりを見て回った。

「お前、理美が好きなのか?」

 健吾は単刀直入に訊いた。勉は頷いた。健吾は友達が異常者に思えた。

「どこがいいんだよ?」

「だって、かわいいだろ」

 勉はそう言って、妹の机と椅子を眺めていた。


 しかし、勉はあまりに奥手で理美と仲良くなるなどということは考えていないようだった。理美に挨拶するときも決まってどもっていた。勉はおそらく理美をおかずにオナニーにふけっていたのだろう。だからこそ、自分に妹が身につけているもの、とりわけパンティをせがんだのだ。健吾は嫌悪感を催し、断ったが、唯一の友達である勉と関係を切ることまではできなかった。

 ある日、勉が健吾の家に遊びに来ていたとき、健吾は勉の原付きを破損させる自損事故を起こした。健吾が家の敷地内で勉の原付きを遊びで乗っていたとき、原付きを制御できず、コンクリートの塀に衝突したのだった。それにより、カウル部分が破損した。

 被害者は割れたカウルを見ると、「あ~あ、これは酷い。修理に何万もかかるぞ」と声を荒らげた。

「ごめん。弁償するから」と健吾。そうは言っても、高校生に自由になる万単位のカネはなかった。親のカネを当てにするしかなかったが、親に自分の過失の尻拭いをさせるのは心苦しかった。

 友達は難しい顔をして考えていたが、急に笑顔になると言った。

「弁償なんてせんでええよ。友達だろ。その代わり――」


 今度ばかりは断れなかった。健吾は妹が学校から戻る前に彼女の寝室に侵入し、下着が入っていると思しき衣装ボックスを漁った。健吾はピンクと白の縞模様のブツをポケットに忍ばせた。部屋から出ると、折悪しく買い物から帰ってきた婆さんに見つかった。

「おめー、そんなとこで何やっとったれ~?」

「探しもの。靴下がなくて」

「見つかったかや?」

「うん」


 それから数日後、理美が下着がないと騒いでいるのを健吾は自室で勉強しているときに聞いた。健吾は自責の念に駆られながらも、やりすごそうとしたが、理美は自分の部屋に来て、兄を問い詰めた。

「そんなもの知るわけないだろう」と健吾は言い放ったが、嘘をつく羽目になったことで、良心が痛んだ。それ以来、勉とも疎遠になった。

 それが良くなかったのかもしれなかった。もし勉が引き続き、健吾の家に来ていれば違った未来になっただろう。当時は、まさか勉が性的暴行に及ぶとはまったく想定していなかった。

 もっとも勉がやったという証拠はなかった。しかし、理美が痴漢に遭ったという話を母親から聞いたとき真っ先に思い浮かんだのが勉だった。そのことについて健吾は勉に問い詰めたいと思っていたが、今までその機会はなかった。それは健吾にとってはラッキーだったのかもしれなかった。それについて健吾の責任もまた問われることはなかったのだから。ところが、勉と出会った今、健吾は何らかの形で過去の過ちにケリをつけなくてはならなかった。とはいえ、もちろん法的義務などはなかったし、シラを切り通すという選択肢も理論上はあった。しかし、その選択肢は眼中になかった。むしろ、勉との邂逅こそが佐渡に帰ってきたことの最大の収穫であったと思えた。それをフイにするなど絶対にありえないことだった。

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