第7話

 翌日の日曜日の夕方、健吾は御前(居間)に折りたたみ式の長テーブルをセットしていた。妹家族との夕食会のためである。妹とは相当前に会ったきりだった。健吾の記憶が正しければ、六年前の祖父の葬式以来だった。しかし、そのときもほとんど会話を持っていなかった。

 午後六時頃、妹夫婦は子連れで家に訪れた。理美も夫の隆雄も六年前とそれほど変わっているようには見えなかったが、何よりも健吾が驚いたのは、娘の鈴香の変わりぶりだった。鈴香はまだ少女と言えたが、女性らしさが花開こうとしているのが伺えた。今日は太めの白パンツに紺に白のボーダーTシャツを着ていた。中年と年寄りの中で、鈴香の存在は輝かしいものがあった。彼女はまだまだ何者にもなれる。その若さに健吾の胸は疼いた。

 健吾は鈴香とも挨拶を交わしたが、鈴香は決して健吾と目を合わせなかった。健吾には鈴香の可能性こそが眩しかった。とはいえ、それは当人には分からないだろう。当時の健吾がそうだったように。結局、若者を羨ましがるのは中年だからこそなのだ。

 天ぷら、煮しめ、刺し身といった豪勢な料理がテーブルに並んだ。代わり映えがしないとも言えるが、安定の料理だった。しかし、天ぷらや煮しめは母親がいなければ決してできない料理だった。母親も年老いた今、そのことを意識せずにはいられなかった。子どもの頃は、親は風景のように当たり前の存在だったが、今はもうそうは思えなかった。それは自分自身についても年をとるたびに思うことだった。とりわけ、三年前に同級生を亡くして以来。

 ここにいる大人は皆、時間が限られているという意識を持っているだろう。一方で、鈴香のような年頃の子どもは、通常早く大人になることを望んでいる。法律で自由を制限されている身分である子どもが早く自由になりたいと思うのは、人間のさがである。とはいえ、当の高校生がそう思っているとは限らない。制服や校則に縛られた生活であるとはいえ、必ずしも不満を抱えているとは限らない。

「鈴香は、部活何やっているの?」

 健吾は対面に座っている鈴香に訊いた。

「バドミントン」と鈴香。

「へぇ~、楽しい?」

「はい」

 健吾は鈴香がシャトルを叩く姿を想像し、微笑ましくなった。

「いいね~」

 部活とはまさしく青春を構成する主な要素だろう。健吾のように部活ではなく勉強を頑張っていた人は、残念な青春を過ごしたと言われることが多い。健吾はその理由をいくつか考えた。一つは、勉強は一人でやることが挙げられる。だから、仲間ができない。仲間がいない青春はどうなのか。二つ目は、勉強それ自体の問題であると健吾は考えた。つまり、勉強とは将来の地位に資するものであり、基本的にそうではないスポーツなどとは性格を異にしている。つまり、学校の勉強とは将来への投資であるから、そこには何らヒロイックなものがない、というわけである。ところが、そうしたことが事実だとしても、勉強を頑張ったから残念な青春というのはまったく違うと健吾は考えていた。それは、勉強したくてもできない子どもがいるという事実を考えれば間違いなく、そう言えるだろう。

 とはいえ、健吾はずっと後悔していた。それは、やはり比較の問題のように思えた。つまり、健吾の高校では、勉強を頑張っている子は少数派だったが、もし周りが勉強漬けだったら、まったく違った見方になっていたかもしれない。部活でもやっていれば、まだマシだっただろうが、遊ぶ場もなく、とにかく自由がなかった。そういう状況下で、危険なまでにストレスを抱えていたのは間違いなかった。それは、自分を肯定できないことが根底にあった。どれだけ模試の成績が良くてもそうだった。精神衛生面は最低だった。親はただ成績だけしか気にせず、自分もそうした見方に染まっていた。そのとき、妹はそうした一家ぐるみのパラノイアの圏外にいた。そのことが、妹への嫉妬を生んだのだった。

 妹夫婦は今まさに、鈴香の将来を左右する重要な局面に関わっていると言えるだろう。そこのことを二人が意識しているかどうかは分からない。あるいは、自分もまた鈴香の将来に関わることになるかもしれない。なぜなら自分もまた鈴香にとって身近な大人の一人なのだから。しかし、健吾は鈴香の将来に資するものを提供できる気がしなかった。映画や小説などに詳しくてもそれが役に立つとは思えなかった。それよりもなによりも、鈴香との間にはどこか深い溝があるように思えた。

 鈴香を除き、ひと通りグラスビールが行き渡ると全員で乾杯した。絵に書いたような家族の集まりだったが、こうした集まりも親がいなくなったら、果たして維持できるのかどうか疑問だった。それはひとえに自分にかかっていると健吾は考えた。

「昨日は、XX屋に行ってきたよ」

 健吾は昨日の話をした。やはり妹夫婦もその店には行ったことがあった。

「やっぱり魚介類は充実してるよな。海が近いだけある」

「日本酒も忘れないでください」と理美の夫。

「刺し身ときたら、やっぱり日本酒ですよね。もうすっかり呑兵衛の思考になってしまいました」

「俺もです」

 隆雄は近場の飲み屋について教えてくれた。その中には焼き鳥系の店もあった。健吾は昨日会った夫婦から教えてもらった飲み会の話をした。隆雄は話は聞いたことあるが、行ったことはないということだった。

「行ったらいいと思いますよ。そうすれば知り合いや友達もできるかもしれないですし」

「ええ……、それはそうですが、ぼくはあまり大人数の飲み会に参加したことがなくて。まあ、いいですけど。たぶん行くと思います。やっぱり、交流は欲しいですからね」

 健吾はそう言うと、横浜にいた頃は、毎月クラブに行っていたことを話した。

「ああ、それは佐渡にはないですね。田舎ですから」

「ぼくは、田舎にクラブがない現状がおかしいと思うんですよ。もっとも、それは交通の便といった実際的な面も大きいのでしょうが。商業ベースでやろうと思ったら難しいと思いますが、ぼくはそういう場は必要だと思っているので……、いや、ぼくにとって必要なんですね。だから、自分がDJをやろうかと思ってるんです」

「DJを? 冗談でしょ?」と理美。

「もちろん、趣味でだよ」

「近所迷惑になることはやめーや」と母。

「そこまでの大音量を出すとなると、そこそこのスピーカーが必要になるだろうから、スキルを身に着けたら、当面は配信でやるかな」

 そう言っても親は分からなかった。

「配信ってYouTubeとかですか?」と隆雄。

「ニコ生だけど」

 健吾はそう言って、鈴香を見た。鈴香の感心を期待したからだ。DJもニコ生も知らないとしても、遅かれ早かれ彼女は自分の言っていることを理解できるようになるだろう。そして、実際に健吾が言葉どおりにDJになれば、そのとき、彼女の中で尊敬の念が湧くことはあり得なくはない、と健吾は考えた。ともあれ、そうして年少者の感心を買おうとするのは中年らしい態度と思われた。健吾は知らず知らずのうちに自分が中年としての態度を身に付けたことに気付いた。実際のところ、年長者を敬うのは社会規範であり、それ以上のものはないのに。ただ先に生まれたというだけで、偉いというのはおかしな話しだ。ただ一般論として、若者よりは分別があるとは言えるだろう。それは若者の時期を乗り越えたから当たり前のことである。そこにこそ、自分が鈴香にとって有益な存在になれる可能性があるのではないか、と健吾は思った。

「ニコ生ですか。今はどんな配信をしてるんですか?」

「まあ、雑談だよね。顔出しで」

「なるほど」

 テレビでは、NHKのニュースが流れていた。子どもの頃から夜はテレビ番組が流れていた。娯楽の少ない佐渡では、テレビの役割は大きかった。そうした田舎で、DJによるダンスミュージックが流れるクラブやバーは途方もない娯楽施設になるのではないだろうか。そうしたいわばブルーオーシャン的な状況からもやるだけの価値はあるというのが健吾の見方だった。最高のシナリオは、DJ兼オーガナイザーとしてパーティーを主催できるようになることだった。そうなれば、知らない人との飲み会など行く必要もなくなるだろう。それに、そういう場は望まれているのではないか。皆そういうパーティーの魅力を知らないだけで、一度パーティーの素晴らしさを知ったら、きっと変わるのではないだろうか、と健吾は考えていた。

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