第11話 「空っぽの歌姫」
音楽室。
喪失感で気力を失ったアヤメは歌うこともせず椅子に座り込んでいた。
曇った雲から降り注ぐ雨粒が窓を叩いており、やることのないアヤメはそれだけを聴いていた。
彼が居なくても歌えるはずなのに、今までそうしてきたというのに思い通りの声が出てこない。
歌おうとすると詰まってしまう、何かが足りない、そう訴えられているようだ。
「あ……そうでした」
ここにいる場合ではないとアヤメは椅子から立ち上がる。
いつもの調子で音楽室にやってきてしまったせいで、シフトを今日入れていたことを彼女は忘れていた。
鞄を手に取り音楽室から出たアヤメは全速力で階段を下り、外用の靴に履き替える。
それから下駄箱付近に設置されている傘立てへと行き、持ってきていた自分の傘を探す。
しかし、そこには無かった、
不思議に思いながらもアヤメは他のクラスの傘立ても確認するが、結局どこにも無かった。
誰かに持っていかれてしまった。
アヤメは悔しがりながらも、なるべく濡れないよう鞄を傘代わりにしてバイト先へと向かうのだった。
バイト先に到着するとアヤメは鞄の中にあったハンカチで濡れた髪と顔を拭いてみるが申し訳程度しか拭き取れなかった。
しかし同じ時間に出勤してきた優しいパートの女性が心配そうにアヤメにタオルを貸したのが不幸中の幸いだ。
そのあとすぐにエプロンに着替え、髪の毛を纏め、未だ複雑な気分のままアヤメは仕事に取り掛かるのだった。
「………」
仕事が終わってもモヤモヤした気分が晴れることなく、浮かない表情のままアヤメは更衣室で帰りの支度をしていた。
「アヤメっち、お疲れさ〜ん」
ロッカーを閉めると、扉の裏で待機していた褐色の女子高生ギャルがアヤメに挨拶をした。
唐突すぎて驚くアヤメの反応を見て、ギャルは満足そうに笑う。
ギャルの名前は
中学生時代の同級生でありアヤメの数少ない友人である。
「朱理ちゃん……お疲れ様」
「おいおい、お通夜かよ。最近元気ねぇよな本当に。どうなったのかは知らねぇが、ずっとブルーのままじゃ可愛い顔が台無しだぞ?」
「元々だもん……」
「アタシはそう思わないけどなぁ」
たしかにアヤメは元々暗い性格の持ち主だが仕事だけは真剣に取り組むような子だ。
笑顔も素敵で、客の間では可愛いと話題になるほどである。
今日も真剣に取り組んでいる様子だったが中学からの友人である朱理には分かっていた。
普段のアヤメではないことを。
「何があったかは知らないけど、困ったらちゃんと言いなよ。アタシのアヤメを傷つける奴とか絶対に許さんし」
「はは……」
「傷つける奴と言えば、いつもアンタにちょっかい出すバイト先輩いるじゃん?」
「
「そっ、そいつ」
チャチャラとした金髪の青年でアヤメ達の職場の先輩である。
かなり捻くれた性格の持ち主で気に入らないことがあれば、すぐに問題を起こすような男だ。
巷で噂の不良集団に所属しているらしく、毎回女性陣のアヤメ達にしつこく自慢してくるのだ。
「あいつ絶対アヤメっちに気があるから気をつけなよ。ああいう男ほど女の子の扱いがガサツなんだから」
「そうかもしれませんね……」
比べて空はいつも自分を優先してくれていたような気がした。
恋人でもなんでもない彼がいなくても時間は正常に進む、だというのに忘れられない。
アヤメは空を忘れることができなかった。
熱心に絵を描こうとする彼の後ろ姿が一番好きだ。
それが恋愛感情なのかはアヤメ自身もよく理解できていなかったが、夢を一度諦めた人がふたたび立ち直ろうとする姿勢には憧れに似た感情を抱いてしまったのだ。
空っぽな人間が、雄大な空を羽ばたこうとしている。
自宅の玄関で靴を脱ごうとしたアヤメはすぐにシャワーを浴びるため浴室に向かおうとしたが、
「待ちなさい綾目、話があるわ」
急いで通りすぎようとしたリビングのソファから声がして、アヤメは足を止めてしまった。
恐る恐る、横目でその人物を見る。
顔を合わせたくもなかった人物がそこにいた。
肯定なんて一切してくれない、自分を愛しているのかも疑わしい肉親。
腕と足を組みながら、こちらを睨みつけているのはアヤメの母親だ。
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