Sea you 最終話

 僕が両親に無理やり連れ戻されそうになった時、フミ婆は僕を助けようとしてくれた。でもこれ以上両親を怒らせたくなかった僕がそれを止めたのだ。だからフミ婆は何もできなくて当然なのだ。

 なのに、今でもずっと悔いているフミ婆の様子を見て、僕はただただ胸が苦しくなった。

 僕はどれほどの苦しみをフミ婆に背負わせてしまっていたのだろうか。僕はフミ婆のことをすっかり忘れてしまっていたけれど、目の前のこの人は十五年もの間ずっと僕のことを考えて、悔やみ苦しみ続けていたのだろうか。

 そんなことを思いながら、フミ婆の方を見た。

 フミ婆は先ほどの僕の言葉に驚いたようにしばらく固まっていたが、僕が見ているのに気が付いたのか、ゆっくりと口を開いた。

「あんた、カイくんなのか。本当にあの、カイくんなのか」

「うん、そうだよ。約束していたのに、なかなか来られなくて、待たせてしまってごめんね。やっと、この場所に来ることができたよ」

「そうかそうか。いやぁ本当に大きくなったねぇ。あれから十何年も経っているんだものねぇ。いやぁ時間の流れは早いねぇ」

 そう言うフミ婆の雰囲気は十五年前とほとんど変わらなくて。僕は思わず少しだけ泣いてしまう。

「本当に何もしてあげられなくてごめんねぇ。ずっと他に何かできることはあったんじゃないかって思っててねぇ」

「いいんだよ。フミ婆は僕にたくさんの幸せと思い出をくれたじゃないか。それに、フミ婆に何もするなって言ったのは僕の方なんだから。もう悔んだり、そのことで苦しまないで。ね?」

 僕のそんな言葉に対して、フミ婆は少しだけ考えるような仕草を見せた後、しぶしぶとでもいうような様子でうなずいた。

「カイくんが言うなら分かったよ。それより、カイくんはもう大丈夫なのかい?」

 フミ婆からの唐突な核心を突くかのような問いに対し、僕は思わず固まった。だが、フミ婆に動揺しているのが気づかれてはいけないと思い、あくまで平然としているように装いながら、小さく首を縦に振った。

「そうかそうか。それは良かったなぁ」

 そう言ってフミ婆はとても嬉しそうに笑った。その笑顔はとても明るくて、僕はこれでよかったのだと思った。

 本当は、僕はあの人たちから解放されてなどいなかった。

 今でもずっと、僕はあの人たちの格好の奴隷であり、所有物なのだった。

 大人になれば、就職すれば、仕事で活躍すれば、あの人たちから距離を置けば、僕はあの人たちから解放されるのだと、僕はずっと信じていた。

 でも現実は、そう甘くは無かった。

 僕があの人たちから離れようとするほど、別の素晴らしい人生を送ろうとするほど、あの人たちからの呪縛は強くなっていった。産んでやったんだぞ、育ててやったんだぞ、などと言いながら、僕に様々な要求をしてきた。僕が働いた分の給料を、ほぼ全額口座から抜き出していることなんてしょっちゅうだった。

 本当はそこで誰かに頼ったり、声を上げるべきだったのだと思う。

 だがずっと「我慢する」「我慢させられる」人生を送ってきた僕は、誰かに頼るのが特に苦手になってしまっていたし、誰にどう頼ればいいのかも全く分からなかった。

 だから結局、僕はずっと、両親に振り回され束縛されるような人生を送ってしまっていたのだった。

 そんな人生に、いや、正確に言えば、親からの呪縛や束縛に対して、心の中で毒づくだけで表立っては何の行動も起こすことができなかった、非力で臆病おくびょうな僕自身に対して嫌気がささなかったと言ったら嘘になる。だが、僕にはどうしても両親に盾突く方法も、周りに助けを求める方法も分からなかったのだ。

 本当はフミ婆に嘘なんてつきたくなんて無かった。だがこれ以上、フミ婆を僕のせいで振り回したくも無かった。

 振り回され続ける人生を送ってきた僕だからこそ、他人にはそんなこと絶対にしたくなかった。

 僕は、これでいいんだ、と自分にもう一度言い聞かせるように心の中で言ってから、フミ婆に向けて笑いかけた。

 それから僕とフミ婆は、会っていない間にお互いにあったことについて話をした。といっても、認知症が進んでいるせいか、フミ婆の話はあまり要領を得ないものだったため、ほとんど僕の話を聞いてもらうだけになっていた。

 でもその時間はとても楽しくて、幸せで仕方が無かった。

 フミ婆に会えて、こうやって話せているだけで、やっぱりここに来てよかったと感じた。

 しばらく夢中で話し込んでいると、いつの間にか夕暮れを迎えているのに気が付いた。

 海へと入っていくように沈んでいく夕日はとても綺麗だった。

「綺麗だねぇ。今まで何度もこの景色を見てきたけど、今が一番綺麗だ。この景色をカイくんと一緒に見ることができて幸せだねぇ」

 そう言って老婆は、柔らかい笑みを浮かべながら僕の方を見た。

「そうだね。僕も今日、フミ婆に会えて、話せて、そしてこうして一緒にこの景色が見れて、本当に嬉しかった。昔も、今日も、僕にたくさんの幸せをくれてありがとう。本当に出会えてよかったよ。十五年も経っちゃったけど、約束を果たせてよかった」

 そう涙ぐみながら言う僕の背中を、フミ婆はゆっくりと撫でてくれた。その手が本当に温かくて、僕は思わず笑顔になる。

 僕が落ち着くまで、フミ婆は僕の背中を撫で続けてくれた。

 僕がやっと落ち着いたとき、フミ婆がふいに口を開いた。

「どうする? 今日はもう遅いし、すぐ近くだから私の家に今夜は泊まっていくかい?」

「え?! フミ婆引っ越したの?」

 僕が目をまん丸にしながら驚いているのを見て、フミ婆はふふふっ、と声を出すようにして笑った。

「ああ。いつかカイくんが来るかもしれないと思ってねぇ。何年か前にこの近くに引っ越したんだよ」

 僕との約束のために、わざわざこの海岸の近くまで引っ越してきてくれていたのだと知り、僕は感激して泣きそうになった。だが、一度泣きだしたら止まらなくなってしまう気がして、僕は涙があふれそうになるのを必死にこらえた。

「そうだったんだ……じゃあ、フミ婆のお言葉に甘えて、今日はおうちに泊まらせてもらおうかな」

 高まる気持ちを顔全体で表現しながらそう言う僕を見て、フミ婆はただ微笑んでいた。

「またこの場所に来て、一緒にこの景色を見れたらいいねぇ。いや、また一緒にこの景色を見よう。約束だ」

 フミ婆は突然、僕に向かってそう言った。僕はその言葉に、すぐには答えられなかった。

 フミ婆が不審に思って、どうしたのかと僕の顔をのぞきこもうとしたところで、僕は声を発した。

「うん。またね」

 僕がそう言うと、フミ婆は納得したかのように西の方角へと歩き出した。僕は一度だけ大きく息を吐くと、その後をゆっくりと付いていった。

 フミ婆の家は、海岸からほど近いところに建っていた。その家は、前に僕が通っていた家よりもこじんまりとはしていたが、風情があってとても良さそうな家であった。

 フミ婆にぴったりだな、なんて少しのんきなことを思いながら、僕は招かれるままに、家の中へと入った。

 フミ婆は晩御飯にと、昔僕が好きだった、コロッケやハンバーグなどの料理をたくさん作って振る舞ってくれた。結構な量ではあったが、久しぶりのフミ婆の手料理だから残すなんてことはしたくなくて、無理やりお腹にねじ込んだ。

 こんなに腹いっぱい食べたのはいつぶりだろうか。思わずそんなことを考えながら、僕はフミ婆と晩御飯を食べたのだった。

 食事が終わると、フミ婆がお風呂を沸かしてくれた。

「ゆっくり入っておいで」

 そうフミ婆は言ってくれたが、さすがにのぼせてしまうような気がしたので、「ほどほどにするね」と返事をしておいた。

 だが、こんなにしっかりお風呂に入るのも久しぶりだったので、結局長風呂になってしまった。

 お風呂を出ると、僕用の布団をフミ婆が敷いてくれていた。

ふかふかの布団に僕は思わず、無邪気な子供のように飛びついた。

 そんな僕の様子を見て、フミ婆は笑っていた。なんて幸せなひと時だろう、と僕はしみじみ感じた。もし僕に、自分のことをとても大切に思ってくれる家族がいたならば、こんな気分を味わえたのだろうか、と思わず考えていた。

 フミ婆がお風呂から出ると、僕たちは布団で寝ころびながら思い出話をすることにした。

「そんなこともあったね」とか「そうだっけ」とか言いながら、初めてする「思い出話」はとても楽しかった。

 認知症かな、と思われたフミ婆も、僕とのことはほとんど覚えてくれているようで、それがとても嬉しかった。

 話し始めて一時間ほど経った頃、フミ婆は急に黙りこんでしまった。どうしたのだろう、と思って覗きこんでみれば、フミ婆は幸せそうな顔を浮かべながら眠ってしまっていた。その寝顔を見て、思わず僕も笑みがこぼれた。

 そしてそんな幸福な状態の中で、僕も眠りについた。

 はっきりとは思い出せないが、夢を見た。フミ婆が僕の本当のおばあちゃんである、といったような夢だったと思う。

 夢の中で、僕たちは一緒に遊園地に出かけたり、手をつなぎながら散歩をしたりと、とにかく色々なことをした。僕が両親と、「家族」というものと、本当はやりたいと思っていたことばかりだった。叶わない願いだったはずなのに、夢の中だけでも、しかもフミ婆と叶えることができて、僕はただただ幸せだった。

 だがそんな幸せな夢は、突然現れた両親によって壊されてしまった。現実と同じように、僕の幸せは、両親の登場によって一瞬で壊されてしまったのだ。

 夢の中で、僕は絶望に暮れるようにしてただただ叫んだ。夢の中だから上手く声は出せず苦しかったが、それでも絞り出すようにして僕は叫んでいた。

 とそこで、僕は目を覚ました。僕は近くに置いてあったスマートフォンで時間を確認する。もうすぐ日が昇り始める、といったような時間だった。

「もう少しだけ夢を見ていたかったな」

 そう一言だけ僕は呟いた。布団にくるまりながら、布団ってこんなにもあったかくて、ふわふわで、気持ちがいいんだな、と考える。

 そんなことを考えながら、僕は少しの間だけ布団の中で目を閉じた。だが、僕はふと思い立って体を起こすと、フミ婆の方へと少し体を寄せた。

 そして、寝ているフミ婆を起こさないくらいの声量で、フミ婆に向けて語りかける。

「僕ね、思い出したんだ。なんでフミ婆とのことを忘れてしまっていたのか。あの日、両親に家まで連れ戻されたときにね、母さんが僕の頭を何度も壁にぶつけたんだ。『この虫けら! あんなババアのことなんか早く忘れろ!』なんて言いながら何度も何度も。そしたら本当に忘れちゃったんだ。あの人のお望み通り、僕は大切な人を、思い出を忘れてしまったんだ。でも昨日、あの場所に行って、フミ婆に会って全部思い出した。思い出してやったんだよ。あの人の思い通りになんてならなかったんだよ。また一つ、あの人たちの思い通りにならないことを起こせたんだよ。だからね、もう一つだけ、あの人たちの思い通りにならないことをするんだ。あの人たちに僕の全てを決定させないために、僕の人生は僕のものであるということを証明するために、僕は最後の抗議をするんだ。フミ婆なら分かってくれるよね」

 もちろん、フミ婆からの返答は無かった。でも僕は、伝えたいことを、一方的ではあるが伝えられたため、十分満足すると、そっと寝室を出た。

 そして居間に移動すると、そこに置いてあったメモ用紙に「僕の全財産を近藤こんどうふみさん、フミ婆に譲ります。◇◇駅の十七番のロッカーに入っているので、好きに使ってください。暗証番号は僕の誕生日です。」と書いて、机の上に置いた。

 よし、これで今度こそ本当にやりたいこととやるべきことは終わったぞ。そう思いながら、僕はもう一度だけフミ婆のいる寝室の方を見た。かすかにフミ婆の寝息が聞こえてきて、僕は思わず微笑んでいた。

 そしてその後、僕はそっと玄関へと移動をして、フミ婆の家を出ようとした。玄関の扉を開いて、家の外へと出る直前に、僕はもう一度だけフミ婆のいる寝室の方へ振り返ると、フミ婆を起こさないくらいの声量で言葉を発した。

「ごめんね、フミ婆。行ってきます」

 そう言って僕は、ゆっくりと玄関の扉を閉めた。

 冷たい朝の風に当たりながら、僕はあの海岸までの道をゆっくりと歩いていた。歩いている間に、僕はまた考え事をする。

 今度こそ、僕には未練など一つもない。

 当初の目的であったあの写真の謎だって解くことができたし、忘れていたことをきちんと思い出せたし、フミ婆に会って、言いたかったことをきちんと言うこともできた。

 死ぬ前最後の食事はフミ婆の作ってくれた好物ばかりのご飯だし、死ぬ前最後に大切な人と幸せな時間を過ごすこともできた。

 これ以上ないくらいの締めくくりではないか。

 ここに来る前は、最後がこんなことでいいのかとか思っていたけれども、今になってみれば、これが良かったのだと、胸を張って言うことができる。

 人生最後にこんな幸せなことが待っているとは思わなかったな。そんなことを色々と思いながら、僕は海岸に向かってただただ歩いた。

 海岸に着くと、僕は躊躇うことなく海に向かって歩いていった。一歩一歩踏みしめるようにして、僕はゆっくりと海の方へと近づいていく。

 あと一歩踏み出せば海の中へと入るという時、僕は立ち止まった。恐る恐る海の水に足をつける。早朝の海の水はひどく冷たかった。だが、今ではそんなことどうでもよかった。

 そのまま僕はやはり躊躇うことも無く、海の中へと入っていった。

 海の奥へとゆっくり歩を進めながら、僕は考え事をする。

 もし僕がこの海で死んでしまったら、フミ婆はまた自分を責めてしまうだろうか。心にひどい傷を負ってしまうだろうか。せっかくの美しい景色をもう美しいと思えなくなってしまうのだろうか。

 それは嫌だな、と思いつつも僕の足取りは止まらなかった。

一歩ずつ足を踏み入れながら、僕は叫ぶようにして言葉を発する。

「ざまあみろ、クソ親ども! もうお前らの好きなようにはさせない。保険金目当てのお前らの生贄いけにえになんか僕はならないぞ! 残念だったな、馬鹿野郎! もうお前らに、僕の人生を振り回されてたまるか。これは僕の、僕だけの人生だ。他の誰でもない、僕だけの物語だ。分かったか!」

 僕のその声は、風に乗ってどこまでも飛んでいくような気がした。

 全てを言い切った僕は満足して、さらに海に入るスピードを上げようとする。

 とその時、ふと風が大きく吹いた。その風にのって、小さく「カイくん」と言うフミ婆の声が聞こえたような気がした。

 僕は思わず振り返って海岸の方を見たが、フミ婆の姿は無かった。

 僕は、気のせいか、と思って海の方に向き直ろうとした。だがふと思い立って、今一度後ろを振り返った。

「またね」

 僕のその声は、波音にかき消されてしまった。

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Sea you / 立花 莉都 作 名古屋市立大学文藝部 @NCUbungei

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