第二部 第三章 文昌千住院~二仙山紫虚観(五)

 翌日の昼下がり。黒猴軍第二隊頭領こと曹琢そうたくは、単身二仙山の石段を登っていた。


 体が逞しく、眼光が鋭い以外、特に目立った特徴のない曹琢は、笠も被らず顔も隠さず、少々裕福な町人風の、黒に近い焦げ茶色の服を着込み、馬征同様に背中に斜めがけの袋を背負っている。


 昼食時であった。二仙山の食堂じきどうでは、参拝者用に饂飩うどんや饅頭などの点心けいしょくを出している。曹琢は何食わぬ顔で三清殿に向かい、線香や紙銭を買い、もっともらしい顔でお参りをすませてから食堂に向かった。


 席の半分ほどが埋まっていた。曹琢はうどん《うどん》を注文し、茶を啜りながら厨房をさりげなく伺うと、中年の女性が数人甲斐甲斐しく働いている。


 やがてそのうちのひとりが注文したうどんを運んできた。曹琢はにこやかに

「やあありがとう。実にうまそうだねここのうどんは」

 曹琢は、厳ついがなかなか整った顔つきである。温和な表情を作れば渋い中年の魅力がある。給仕のおばさんはお人好しで話し好きな性格だったので、つい話にのってきた。


「おやお客さん、こんな田舎料理褒めてくれてありがたいね」

 曹琢はうどんを一口すすり込んでから、

「いやいやこの麺のコシはなかなかのものだ。燕京の料理屋で出したって通用するぜ。この食堂で作ってるのかい?」

「ああ、あたしらが朝から打ってるんだよ。おかげでこんな腕になっちまった 」

 おばさんは力こぶを作って見せた。


「おねえさんも道士さまなのかい? ここに住んでるのかね? 」

「いや、あたしらは元道士で、ふもとからの通いさ。現役の道士は男と女で別れてあそこに住んでるんだ」


 おばさんは女館にょかんを指さした。

「へえ、お姐さんもなかなかの器量よしだが、あそこの売店で線香を売ってる別嬪べっぴんの道士さんもあそこに住んでるのかね? 」

「ふふ、妙な気を起こすと怖いよぉ。忍び込んで見つかったら、黒焦げにされちまうからね」

「ひゃぁ桑原くわばらくわばら、こいつをいただいたらさっさと帰ることにするよ」

 ひょうげた様子を見せると、おばさんは笑いながら機嫌良く厨房に戻っていった。


 うどんの金を払い食堂を出た後、道観内を散策する振りでぶらぶらと歩き、辺りに人目がなくなったのを確認して素早く森の中に駆け込み、馬征の使っていた布を被って座り込んで、暗くなるのを待った。


 やがてとっぷりと日が暮れ、三清殿、男館、女館にあかりが灯った。灯籠を持った見回りの道士が通り過ぎたのを確認し、森から出た。


 黒に近い焦げ茶色の衣は、闇にまぎれると非常に見えづらくなる。さらに同じ色の布で頭と顔を覆っていて、目の周りや手の甲にはすすをなすりつけてある。曇り空で月明かりが薄いこともあり、物の影に潜めば、凝視でもしない限り全く気づかないであろう。


 女館の裏手に滑り込み、辺りを見回して壁に手を当て、三つ数えるより早く、二階の屋根に飛び乗っていた。そのまま話し声の聞こえる開いた窓に近寄り耳を澄ませる。


「あ~あ、あたいも行ってみたかったなあ南岳衡山なんがくこうざん。そんな遠くに行ったことないし。なんか小融ばっかりずるくない? 翠円すいえん姉さん」

「まあまあ、わたしもいってみたいけど、女館ここに誰も居なくなったら売店が立ちゆかないからね。仕方ないわよ、諦めなさいな」


 玉林が掃除をしながらぼやいている。もうひとりは双子姉妹の片割れ、林翠円である。


「だったら燕青さんと紅苑姉さんで行けばいいじゃん。小融これで3回目だよ。ずるるいずるい」 

「一清師兄が言ってたんだけど、なんでも南岳衡山に行けば小融の術力がぐんとあがるかもしれないんですって。また別の所に行くことがあれば、きっと連れてってもらえるわよ。それに、檮杌とうごつの封印を守ってた人たち、もの凄くむごい殺され方したって言ってたし、危険な仕事だわよ」


「うう……ん、確かにあやかしや魔物相手ならともかく、人とは戦ったことないからなあ」

「おまけに檮杌の封印を解いた奴が、すぐに南岳に来るとは限らないし。いつ頃帰ってこれるかもわからないでしょ。」


「でもさ姉さん、もしずっとそいつが来なかったらただ旅行しただけのとんだ儲けもんじゃん。それに……」

「それに、なによ? 」

「ひょっとしてこの旅で、翡円姉さんと燕青さん、デキちゃうかもよぉ? にひひっ」

「な、なんですかその笑いはっ! べ、別にわたしはそんなこと気にして」

「へぇぇ、そうですかぁ、でもなんで姉さん赤くなってるんですかぁ?」

「またこの子はっ! あ、こら逃げるな! 待てぇ! 」

 

ドタバタと足音が遠ざかり、そこまで聞いて曹琢は、苦笑いしながらふわりと音も無く飛び降り、闇の中へと消えていった。


 だが、そのまた背後の暗闇に、曹琢の背中を見つめる光る目があったことには気づかなかったのである。


 曹琢はどうやら標的の燕青が、道士たちとともに南岳衡山に向かったらしいこと、「とうごつ」とかいう魔物の封印を守る道士が殺されたらしいこと、帰りはいつになるか分からないことを手下に伝えた。それを聞いた陶凱が目をむいた。


檮杌とうごつの封印を破った奴が居るですと! 」

「知っているのか陶凱? 」

 腕利きの道士である陶凱が、「四凶」のことを知らぬはずは無く、他の三人に詳しく説明をした。


 黒猴軍は、暗殺部隊ではあるが元来は宋国秘密諜報機関「皇城司こうじょうし」の下部組織である。燕青の拉致もしくは暗殺が現在の任務だが、かつて北岳恒山ほくがくこうざんの「窮奇きゅうき」が解き放たれ、西安(元の長安)の街が大変なことになったのは知っている。


(むう……二仙山ここに網を張るとしても、すぐには帰って来るまい。とりあえずこの檮杌とやらの情報は、すぐに閻霧えんむさまに報告しなければならぬ)

 陶凱に縮地法を使わせ、東亰開封府とうけいかいほうふに連絡させるとともに、南岳衡山に旅立った燕青と道士たちを待ち受けることとなった。

 黄崖関村の役所の一室に腰を落ち着けた陶凱以外の三人は、長期戦を覚悟した。

(やれやれ、早く片付けてしまいたいところだが、厄介なことになったものだ)




(そろそろあの厄介な奴らの始末にとりかからないと。さて、どうするか)

 その東亰開封府の豪奢ごうしゃな邸宅の一室で、四川省は成都せいとの銘酒「錦江春きんこうしゅん」を口に運びながら、時の殿帥府大尉でんすいふたいい高俅こうきゅうは頭を悩ませていた。

 

(かつてこういうはかりごとの際に、決まって相談していた宦官かんがん楊戩ようせんが一昨年病没したのが残念だ。蔡京どのは耄碌もうろくしてあてにならんし、そろそろ息子の蔡攸さいゆうどのとも通じておく方がよいか)


 「北宋の四姦」として童貫、蔡京、高俅、楊戩の4人はことに有名だが、この中では蔡京が一番年上で、すでに七十を幾つも越えていた。本来官僚は七十で勇退するのが常である。にも関わらず、権勢欲の権化ともいうべき蔡京は、天子や蔡攸がそれとなく引退をほのめかしても一向に辞める気配はなく、とうとう童貫が蔡攸を伴って蔡京宅を訪れ、強引に辞表を書かせて持ち去ったことすらあるのだ。


 だが、やはりしぶとく禁中に舞い戻ってきて、相変わらずの権勢をふるっている。だがこの頃は会話も意思疎通が食い違うことが多くなってきた。権謀術策を企むにおいて、ちょっとした聞き違いや思い込みは命取りになる。童貫もすでに蔡京を見限った感がある。


 そもそも、すでに閻霧に燕青の暗殺を依頼している。毒を食らわば皿まで。ましてや今までどれほどの毒を食らってきたか。


 このうえ梁山泊の残党である首領の宋江そうこう、副首領の盧俊義ろしゅんぎの2名を亡き者にする謀議ぼうぎなど、躊躇ためらう理由などどこにもないではない。そう自分に言い聞かせ、高俅こうきゅう領枢密院事りょうすうみついんじ、すなわち宰相の末席に名を連ねる蔡攸を邸宅に呼び寄せた。


 痩躯そうくの上にいたちの頭を乗せたような風貌の蔡攸は、すぐにやってきてうやうやしく袖を合わせ頭をさげた。椅子を勧め杯に「錦江春」を注がれたのを見るや、高俅はせっかちにもすぐ本題に入った。


「蔡攸どの、相談なのだが後顧の憂いを消しておきたい。例の宋江と盧俊義をすぐにでも葬りたいのだ。怪しまれぬような工夫はないかの? 」

 

 田虎や方臘との戦いで、百八人いた豪傑もすでに三割ほどに減っている。招安したとはいえ、一朝いっちょう事あらば、いつまた朝廷に牙をむくか保証の限りではない。だが、消すにしてもあからさまな冤罪で刑に処せば、かつての配下は黙ってはいまい。それこそ寝た子を起こすようなものだ。話を聞いた蔡攸はゆっくり答えた。


「毒、でしょうな。まずは盧俊義ろしゅんぎの方から」

「ほう、なぜじゃ」

「もしことが露見した場合、宋江そうこうが残っていれば、よく言えば温厚、悪く言えば優柔不断なやつのこと。賊どもが集まってきても騒ぎにはさせますまい。だが盧俊義が残っていれば」

「確かに、奴なら先陣切って暴れ出すだろう。なるほど、では盧俊義を先に殺すとして? 」

「こういうのはどうでしょうか」


 蔡攸の案はこうである。

 現在盧俊義は、武功太夫の名とともに、盧州ろしゅう安撫使あんぶしの役職を賜っている。その盧州の兵卒に手を回し、盧俊義が兵を招き馬を買い、まぐさを集め糧食を蓄え、謀反を企んでいると讒訴ざんそさせ、その旨を天子に伝える。

 

 そして釈明の場を与えると称して盧俊義を朝廷に呼び、天子と対面させてなだめてもらい、御膳御酒を与えていただく。その中に少しばかり水銀を入れておけば、さほど日を待たずして盧俊義は精気がなくなり、何も恐れることはなくなるだろうと。 


(ふむ、天子を使うのは良い手だ。あやつらは陛下には馬鹿正直に絶対服従だからな)

 高俅は顎髭を撫でながらうなづいた。さらに蔡攸は続けた。


 盧俊義が病気になる、もしくは死んだ後で宋江にも同じく勅使をつかわして御酒を下賜かしし、その中にも慢薬まんやく、すなわち徐々に効いていく毒を入れておく。元来天子や朝廷の権威に弱い宋江は、たとえ怪しんだとしても飲むだろう。そうすれば半月もたたずにあの世行きだ、と。 


「その案や良し。童貫どのともよく口裏を合わせておこう。親父どの以上の切れ者じゃな、蔡攸どの 」

「身に余るお言葉です」

 蔡攸は、蔡京ちちおや譲りの冷たい笑みを浮かべた。


(たしか閻霧の部下に毒使いがいたはず。そいつを使うとするか)

 高俅も薄ら笑いで杯の「錦江春」をぐい、と飲み干した。


 さすがは四川の甘露、すうっと五臓六腑に染みわたり、ふわりといい気分にさせてくれるのだった。


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