第六章 飲馬川山塞(四)

 やがて森が切れ、見晴らしの良いところに出てみると、朽ちかけた四阿亭あずまやがあった。中に入って眼下がんかを見ると

「わぁっ! 」(むっ! )


 思わず四娘が声を上げる。月光に照らされた急峻な崖下には、遠くにきらめく川が流れ、対岸の崖には月光が当たり銀色に照り輝いている。その上には天の河と無数の星々。四娘のみならず燕青も声にならぬ声をあげていた。


「ここは『断金亭だんきんてい』と言っての。昔から景色が良くて有名な場所じゃが、今日はことのほか美しく見えるわ。」


「断金亭」

ものの本によれば、「一望茫々たる野水、週廻隠々なる青山。幾多の残霞に映じ、数片の彩雲遠岫にひるがえる」と詠われた絶景である。


「どうじゃ、これを見て一杯も飲むな、というのは酷な話じゃろうが? 」

 燕青はうなづき、持って来た焼酎をついで周老人に渡し、自分にも少しついでから、周老人と器を合わせ、ゆっくりと焼酎を含んだ。


 四娘はよほど感動したものか、四阿亭の椅子に座りうっとりと夜空と景色を眺めている。


 梁山泊でも耳にしていたこの飲馬川の山塞は、かつては300を越える山賊を抱えていたのに、今はこの周老人ひとりがひっそり住んでいるだけ。


 「国破れて山河在り」の趣があり、おまけに「断金亭」という名を聞いて、梁山泊を思い出さぬわけにはいかない。


 というのも、梁山泊の山頂に続く山道の中腹に、やはり「断金亭」という名の眺めの良い四阿亭あずまやがあったからだ。思えば不思議な名称の一致であるが、燕青にとっては運命を感じさせる偶然であった。


綺麗きれいだね、それにこの山、もの凄く太い龍脈りゅうみゃくが通っている」

「そういうのって分かるのか? 」

「うん、これだけ強い龍脈だったら、二仙山にも簡単につなげられるよ」


ふたりのひそひそ話を知ってか知らずか、周老人は目を細くして月を眺めていたのだが、その目が急に大きく見開かれた。


「ふたりとも動きなさんなよ」

 周老人は低く静かな声で呼びかけ、ゆっくり後ろを振りむいた。

「何かいるんですか? 」

 燕青も身構えて、藪の中の闇をのぞき込んだ。


「くるぞ! 」

 藪の一部ががさりと動いたかと思うと、黒い岩の塊のようなものが周老人めがけて突進してきたのだ。


 燕青が慌てて、周老人の前に出てかばおうとした瞬間、ゆらり、と周老人が黒い塊に向け大きく一歩右足を踏み込み、同時に黒い塊の真ん中に向けて右の拳を突き出した。


ふんっ! 」

 ずしり、と拳がめり込んだかと思うと一瞬時が止まり、黒い塊がぐらりと揺れ、地響きをたてて横倒しになった。月光の中の、毛むくじゃらのそれは、百三十斤(約80㎏)はあろうかという大猪であった。


「気絶しとるだけじゃよ」

 声をかけられて我に返った燕青に笑顔を見せ、周老人は無造作に猪の首にぶすり、と貫手ぬきて(指を伸ばしたまま突き刺すこと)を突き込み、猪の頸動脈けいどうみゃくを指でちぎり取った。

 大猪はびくん、と一度身震いし、そのままぐったり首を落とした。


 呆気あっけにとられた燕青は、ふと下を見てさらに驚いた。周老人の踏み込んだ右足の跡が、乾燥して固くなった地面に一寸(3㎝)ほどもめり込み、月明かりに照らされ斜めに影を落としているのだ。


(こ、この老人いったい?)

 燕青の狼狽にはお構いなしに、四娘はすっかりはしゃいでしまって周老人のまわりをとび跳ねている。


「お爺ちゃん凄い! こんな大きな猪一発でやっつけちゃうなんて」

「わはは、わしがこぶしを出したところに、この猪が勝手に突っ込んできただけじゃよ、何も凄いことなんてないぞえ」


(確かに相手の勢いを利用すれば相打相撃こうかばいぞうになるが、この踏み込みの強さがなければあれほどの威力は出ない。あの貫手といい何者だこの老人? ) 


「さて小乙どの、済まんがこの猪、砦まで運んでくれんか。老人にはいささか荷が重いでの」


 猪の死体を担いで山塞まで運ぶと、周老人は手際よく猪を解体した。これで暫くは猪肉が食えるとほくほく顔である。


 夜も更けてきたので周老人は四娘を一番きれいな部屋に案内した。疲れていたのか四娘は寝台に横たわったかと思うと、あっという間に眠ってしまった。


 四娘が寝ついたのを確認して、燕青は室外に出、焚き火の番をしている周老人の向かいに腰をおろした。老人は盛んに見慣れぬ葉っぱを焚き火にくべている。


「この菊の葉をいぶしておくと蚊が寄ってこん。覚えておくと野宿の役に立つぞい」

「あの、周先輩、先ほどの猪への一撃を拝見したのですが、実は名のあるお方なのでは?」


「ははは、名のあるお方が乞食などしとるわけあるまいし、名のあるお方だとしたらますます名乗れんわ。じゃろ?」

「でも先ほどの突き、あれは少林拳の順歩平撃じゅんぽへいげきでは?」

「……ふむ。それが分かるということは、おぬしも?」

 同門とあれば、隠す必要もないだろう。


「実はわたしは元梁山泊の一員で、歩兵軍頭領ほへいぐんとうりょうをしておりました。燕青えんせいと申します」

「なんと、梁山泊とな!……ふむ、ならばわしも名乗ろう。わしは元少林寺の僧で、周侗しゅうとうと申す。20年ほど前から江湖せけんをうろうろしとる生臭坊主じゃよ。ところで梁山泊と言えば、朝廷に招安しょうあんされて方臘ほうろうと戦っていたと聞いたが?」

 

燕青は、方臘との戦いのあと、朝廷が次に目を向けるのは「山東宋江さんとうのそうこう」軍であり、みすみす殺されるよりはと、軍を抜けたこと、師匠であり父とも仰ぐ盧俊義ろしゅんぎにも抜けるよう説得したが、断られてしまったこと、ひょんなことから四娘と知り合いになり、二仙山の羅真人らしんじんに頼まれて、鏢師ひょうしとして一緒に旅をしていること、などを話した。


「むぅ……似たような話があるものじゃな。とはいえまるで立場が逆なんじゃが」

 周老人は嘆息し、しばらく天頂の月を見上げていた。やがて

「実はわしも、10年ほど前弟子を取ったことがあってな。今ちょうどおぬしと同じくらいの歳で、とてつもなく拳法の才があった男じゃった。だからわしは夢中になって、わしの知るかぎり全ての技術を教え込んだ」

「なるほど、でその方はいま?」

 聞かれて周老人はゆっくり目を伏せた。


「同じじゃよ。わしの元から出て行ってしまった。おぬしとはまったく逆の理由での」

「どういうことです?」

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