第五章 康永金夢楼(五)

 気づけば真夜中を回っていた。王扇太夫は夜着やぎに着替え、燕青は特鼻褌ふんどしひとつになり、共に薄掛うすがけの中に潜り込んだ。


 四娘は例の、あやかしが出る北東の隅に椅子を据えて座り、明かりを全て消して隠形術おんぎょうじゅつのための咒文じゅもんを唱え始めた。


「坤、元亨。利牝馬之貞。君子有攸往、先迷、後得主。利西南朋得。東北喪朋。安貞吉。象曰、至哉坤元、萬物資生。乃順承天。坤厚載物、徳合无疆、含弘光大、品物咸亨……」


 咒文が終わったが、寝台の上から見つめる燕青と太夫の目には、なんら変わった様子は見えず、四娘が椅子にちょこんと座っているだけである。寝台には背を向けて座っているのだが、姿がそのまま見えているので、気になるといえば気になる。


(とにかく、太夫をぐっすり眠らせろ、と言ってたな)

 燕青は四娘に背を向けて大夫と向き合った。大夫からは燕青の胸に隠れて、小さな四娘の姿は見えていないはずだ。


 片腕を大夫の首の下に差し入れ、軽く引き付けて頭を胸に抱きしめ、空いた手のひらで、ゆっくりと髪の毛を撫でつける。何を言うわけでもなく、何をするわけでもなく、ひたすらゆっくりと撫で続ける。ただひたすらゆっくりと。


 燕青の裸の上半身の中にすっかり抱きすくめられ、こういうことには慣れっこのはずの王扇大夫も、自然な流れで胸当てを外し、上半身裸になっていた。軽く汗ばんだふたりは、さらにお互いに相手の背に手を回して、少しだけ力を入れて抱き合った。


 大夫の形の良い豊かな胸が、燕青の筋肉質な胸に押しつけられ、少しつぶれた形になっているが、燕青は構わず今度はひたすらゆっくり大夫の背中を撫で始めた。産毛うぶげの生えている方向に、逆らわずゆっくりと、ただひたすらゆっくりと。


 こういう世界で生きてきたとはいえ、いや、逆にこういう世界で長く生きてきたからこそ、燕青が性欲や色欲ではなく、ただ純粋に「癒してやりたい」「ゆったりとした気持ちで休んでほしい」という思いで、抱きしめてくれている、撫で続けてくれていることが、大夫には痛いほど伝わってきた。


 思えば李承が非業ひごうの死を遂げてから、気持ちの休まることなど一瞬たりともなかった。目をつぶったまま、軽く抱きしめられ背中を撫で続けられていると、すっかり忘れかけていた李承の、一緒に筝を弾き笛を吹いていたときの笑顔が三カ月ぶりに脳裏に浮かんできた。

 覚えず涙がつうっと流れ、そのまま大夫は眠りについたのである。


 しばらくすうすうと軽い寝息を立てていたのだが、その寝息がだんだん小さくなり、やがて聞こえなくなった。と同時に四娘の

(出たわよ)

 というささやきが、背中から聞こえてきた。


 大夫を起こさないよう、そっと手を放し、燕青がゆっくりと振り返ってみると、確かに部屋の隅に白くて薄ぼんやりとしたかたまりが見える。人のように見えるが、こちら向きに跪いて頭を下げているので顔が見えない。体つきと長い髪から女のようだ。やがて立ち上がり、顔をゆっくりともたげた。


(むうっ? )

 四娘の言うとおり、見知った顔であった。思わず振り返ると、同じ顔がそこにもあった。


 白い人影、その顔は王扇太夫のものだったのである。


 ふわふわとはかなげに、濃くなったり薄くなったりする白い人影は、王扇太夫そのままの顔で、燕青に微笑みかけた。

 そこへ四娘が近寄り、太夫の顔の白い人影に静かに話しかけた。

「太夫、あなたのれい顕現けんげんさせていただきます。鬼魂招来陰隠顕形、急急如律令きゅうきゅうにょりつりょうっ」


 咒文詠唱ののち、人影の揺らぎが徐々に安定してゆき、やがて暗闇の中に輪郭まではっきりと見えるほどになっていった。

「さぁ、これで太夫の魂が安定したから、しばらく話ができるようになったよ」

「ほぉ、でもここからあとは小融に任せるよ、頼んだ」

 四娘は頷いてみせ、太夫の魂に話しかけた。


「太夫は、離魂病りこんびょうだったんですよ」

(りこんびょう? )

 太夫の魂が首を傾げた。

「魂が体から抜け出てしまう病です。まれにあるんですよ」

(そうなんですか、でもなぜこんなことに?)


「恐らくなんですが、太夫は唐回とうかいのクソ野郎に、大切な李承しりょうさんを惨殺された。にもかかわらず、ここの主人は掴まえるわけでも、出入り禁止にするわけでもなかった。そんなの太夫は納得できませんよね」

(はい)


「それどころか、唐回が厚顔無恥にも、その次の週にわざわざ太夫のところにやってきた。太夫は顔も見たくなかったはず、なのにここの主人は、太夫を守るどころかその気持ちを無視して、人でなしの相手をしろと強制したんですよね、さぞお辛かったことでしょう」

(ええ、ありがとうござい……)

 最後まで言葉にできず、太夫の魂は顔に袖を押し当て、さめざめと泣き出した。


「本当に憎い、顔も見たくない。ひょっとしたら、殺しても飽き足らないような奴でも、涙をのんで相手をしなければならなかった。もう本当に自分のお立場に嫌気がさしたんじゃないですか? 」

(はい。それどころかあのかたは、夜伽よとぎのあいだじゅう、李承を手籠てごめにしたときの様子を、微に入り細に入りずっと語りかけてきました)


「なにそれ、気持ち悪い、どういうつもりなの変態め! 」

(わたしが嫌がる顔を見ると、ますます興奮するらしいんです。行為もいつもより乱暴で、さすがに首を絞めることはしませんでしたけど、もう痛くて辛くて、早くやめてほしいとだけ思っていました。そのうち意識が遠くなって。次に目覚めたときにはもう、あのかたがおびえて、わたしに取りすがっていて)


 四娘は視線を燕青のほうに向け、

「そのときの辛さ、苦しさがあまりにもひどかったから、魂が逃げ道を探して体から抜け出してしまった。それが離魂病ってことなのよ」

(やっとわかりました。わたしはわたし自身の魂に怯えていた、ということなんですね)


「だいたいのことが分かりましたから、太夫の魂を開放します。自分のお体に戻ってください。魂魄帰還陽明回元、急急如律令きゅうきゅうにょりつりょうっ」


 四娘の咒文詠唱が終わるとともに、太夫の魂の姿が徐々に薄れていき、やがて消えるとすぐ、寝台のうえの太夫が目を覚ました。


「なんだか、長い夢から覚めたような気がします」

 寝台の上で身繕みづくろいを済ませた太夫が、ふたりに肉声で話しかけた。

 一言も発さず、息を詰めて成り行きを見守っていた燕青は、やっと肩の力が抜けた。


「四娘、すごいじゃないか、よく離魂病だとわかったな?」

「うーん、実際に見るまでは確信が持てなかったんだけど、そもそも人影が消えるのと入れ替わりで太夫が目覚める、というあたりからそんな気がしていたんだよね」

「なるほどな」


「それともうひとつ、身の回りに妖物ばけものがでて、お客がぱったり来なくなったというのに、太夫は血色も良くやつれた様子も見えずお美しい。むしろお客の相手をしなくてすむようになったことで、気持ちが楽になったのではないか、と思ったのよね」

「それは……そのとおりです」


「まだ分からないことがあるのだが、太夫にお聞きしてお分かりになるかしら? 」

「ええ、魂が抜け出ていた時のことをいろいろ思い出しました」


「ではまず、唐回の野郎だけでなく、他のお客のときにもずっと出ていたのはなぜですか? 」

「今にして思えば、嫌々唐回様についたときから、もうどのお客様のお相手をしても、あのときの気持ちになってしまっていたんです。無意識のうちに逃げたがっていた、ということだと思います」


「禁軍の高官がお亡くなりになった、と聞きましたがどうしてですか? 」

「いきなり剣を抜いて背後から襲いかかられたので、驚いて振り返った妾の顔をごらんになって、ものすごく怯えた顔になり、胸を押さえて倒れておしまいになりました」


「そんなに恐ろしい顔をなさったのですか? 」

「いえ、そのかたは妾の顔をごらんになって、『しゅうめい! 』と叫ばれて、そのまま」

「誰ですかそれは? 」

「以前うかがったことがあるのですが・・・・・・奥様の名前です」

「なるほど、奥さんの生き霊に見えたんですかね」

 気の毒でもあり、少々滑稽でもある。よっぽど恐妻家だったのだろうと、燕青は思った。


「そのとき以外は、後ろ向きだったのは、寝台にいる自分とお客を見たくなかったから、でしょうか」

「はい……たぶん」


「では、今日はこちら向きだったのはなぜ? 」

 と燕青が聞いたとき、不意に四娘が

「う、ううん」

 とわざとらしく咳払いをし、

「その理由はわたしが分かるからあとで教えるわ。ところで王扇太夫」

 体の向きを変え、真剣な顔つきで

「今回の件について、だいたいのことは分かりましたが、今後のことについてお話があります」

「お話、とは?」

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