第一章 薊州顕星観(四)
小乙も遅れて廟の中に足を踏み入れた。正面の石造りの床に大きな血溜まりがあり、むっとするような鉄臭い匂いと、酸っぱいようなかび臭いような臭いが混ざり、あたかも
「どうやらあれは『
暗がりに眼が慣れてきたところで、小乙にも気配、というか濁った気の
「あそことあそこ、それからあの柱の横辺りに何か嫌な感じの塊があるように思うんだが」と指さすと、四娘はちょっと驚いた様子で小乙を見た。
「へぇ……それだけ感じられるなんて凄いね。さっきの拳法といい、
「おほ褒めにあずかり光栄だね。それにしても凄い瘴気だ」
「今祓うわ」
四娘は双剣を体の前で交差させ、小さく咒文をつぶやきはじめた。
「巽下巽上
気合い一閃、双剣を大きく両側に振るうと、突如廟内に
床に二つ、正面の祭壇に一つ、黒い雲のような塊がはっきりと。
先程小乙が感じていた「気の濁り」が、明確に可視化されたのだ。
床にいた二つの黒雲が四娘の方へ向かって滑るように近づいてくる。四娘は黒雲に双剣の切っ先を向け咒文を唱えた。
「震下坎上、
呼応するように剣から黒い帯が稲妻のように飛び出し、そのまま黒雲に吸い込まれていく。たちまち雲散霧消し、中から狼のような姿の二匹の魔物が出現した。
これが
猲狙は狼、犬の系統で、五行で言うと「
陰陽五行の仙術において、「
四娘は双剣を媒介にして、
たまらず猲狙が姿を現したのを見て、四娘は双剣を左手にまとめて持ち、右手で長羽織の内側から飛刀を二本抜き出し、
「
現れた二匹の猲狙に向けて次々腕を振った。飛刀は凄まじい早さで猲狙の額に突き刺さったかと思うと、けたたましい「プギャー!」と豚のような鳴き声が聞こえた。
猲狙はだらだらよだれを垂らし、禍々しい牙の生えた口を開け、豚のようにフゴフゴ声をあげながら苦しげにのたうち回り、やがて動きを止めた。飛刀のささった魔物の姿はボロボロ崩れだし、灰の山を作り、そして散っていった。
小乙が唖然として見つめていると、四娘が
「もう一匹!」
双剣を両手に持ち替え、祭壇の上の一丈(三m)ほどのひときわ大きな黒雲に剣先を向けた。
「来るっ!」
黒雲が急に祭壇から浮き上がり、ぐるぐる渦を巻きながら細く尖り始め、その形のまま弾かれたように飛びかかってきた。小乙は横に跳んで避けたが、四娘少しも動かず、柄の黒い木剣を右手に顔の前に真っ直ぐ立てて、黒雲を受け止めると、木剣であるのにもかかわらず、ガチン、と金属音がした。四娘は柳眉を逆立てて叫ぶ。
「『
途端に木剣の刀身の色が「
最初は互角に見えたが、さすがに四娘の体の大きさでは、牛のような猲狙の圧力に徐々に押されてきている。これはいかんと、小乙が落ちていた
「あたし一人で大丈夫だから手出ししないで!」
と叫び、さらに
「『
と、柄の白い木剣を柄の黒い木剣の後ろにあてがった。
二本の剣が交差したかと思うと、二つの刀身が、内側から光りはじめ、やがてまばゆいほどに白く輝きだしはじめる。
「木は擦れて火を生み、火は物を焼いて土を生み、土は中から金属を生み、金は表面に水滴を生み、水を与えれば木を生む」。この互いに力を与える属性の関係を「
猲狙は唸り声をあげながら、涎をだらだら垂らし、四娘が構えた木剣にがっしりと
「
四娘は双剣を握ったまま猲狙の横を駆け抜けた。尻のところまで駆け抜け、振り返ると猲狙は真っ二つに切断され、どさりと床に落ちた。
崩れていく猲狙を見ながら、四娘は鞘を腰に回し、双剣を収めてまた背中に背負い直した。すっかり見とれていた小乙は、
「生まれて初めて魔物を倒すところを見たが、凄まじいものだな」
四娘は緊張が解けてふっと肩を落とし、前髪を左目の前に下ろしてから、照れくさそうに笑った。
「えへへ、実はひとりで祓うのは初めてなんだ。いつもは
「しかしこんなこんな小さい子にたったひとりでやらせるなんて、お師匠さん度胸があるというか無責任というか」
「違うの、わたしがひとりでやらせてほしいって頼んだの! もう十三歳になったし、独り立ちさせてほしいって!」
ははぁ、それでさっき、手出ししないで、と言ってたんだ
「ひとりで祓えたら、
と、ご満悦である。
うーむ、さっきの技は凄かったし、飛礫や飛刀もかなりのものだが、魔物よりも人間相手の方が心配だなぁ。世間知らずだし。
「独り立ちするのは、もうちょっと世間を知ってからでいいんじゃないのか?」
とたんに四娘膨れて
「なによ! 見たでしょわたしの実力! もう十三歳だし、ひとりでやっていけるわよ!」
と右目だけで睨む。
まぁ確かに余計なお節介かな、と思いつつ、
「けれど実際、さっきは危なかったぞ。あの
それを聞いて四娘、急に落ち着きを失って
「あ、あの、お願いがあるんだけどさ、あたしが危なかったの、師父には黙っててくれない?」
いや別にお前の師匠には会わないし。そもそも俺はもう行くし。
「危なかったなんて知られたら、もう二度と一人旅に出してもらえなくなっちゃう。ね、この通り」
両手を合わせ、必死に頼み込む姿に、小乙は微笑ましいものを感じたが、まさにその時、門の方からはや囃し立てるような、薄笑いの声が聞こえてきたのだ。
「いったい何をお願いしてるのかなぁ~ん~
振り返った四娘は、「げっ!」と仰け反った。
「し、
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