パクパクさん

増田朋美

パクパクさん

その日も寒い日で、なんだかこの冬一番の寒さと報道されるほどで、本当に寒い日であった。なかなか春がやってくるには遠いなと思われる日々が続いている。もう少し我慢をしなければならないなと思われる、季節であった。

杉ちゃんから、フック船長とあだ名を付けられている、植松淳さんは、いきなり笹本実花さんから、相談があるので来てくれと呼び出され、仕方なく製鉄所に向かった。とりあえず、吉原中央駅と呼ばれているバスターミナルから、富士山エコトピア行きのバスに乗る。乗っているのはお年寄りばかりで、彼のような若い人は本当に少ない。中にはバスに乗っていると、声をかけてくるお年寄りも居る。そうなると必ず、片方の腕が無いのに、頑張っていて偉いねなんて言ってくれるお年寄りも居るのだが、フックさんは返答に困ってしまうのであった。そういうお年寄りは、本当に障害者に対していたわってくれて発言しているのか、それとも自分がカッコつけていたいからなのか、よくわからないのである。

そんなふうに声をかけてくれるお年寄りと話をして、富士かぐやの湯のバス停でフックさんはバスを降りた。そこで降りれば歩いて数分で製鉄所へたどり着けるのだ。製鉄所と言っても鉄を作るところではなくて、居場所のない人たちに部屋を貸し出す福祉施設である。そういうわけだからバス停から近いと言うのはいいことだろう。一時間に一本だけでもバスが走っていて、そこから歩いていけるのは、まず長所であると思うことが必要である。そう考えながらフックさんは、歩いて製鉄所に向かった。日本旅館のような和風の建物が製鉄所だった。そこの正門をくぐって、フックさんは玄関の引き戸を開けた。

「こんにちは。」

玄関の引き戸にはインターフォンがなかった。これは挨拶をする習慣を身に着けさせるためだという。中では女性の声で、誰かと喋っている声が聞こえてきた。

「こんにちは。」

フックさんがもう一度いうと、

「はい、よく来てくれましたな。とりあえず入ってくれや。」

杉ちゃんの声がして、フックさんは四畳半に入った。四畳半に入ると、実花さんと杉ちゃんがなにか話していた。水穂さんはピアノの前に座っていた。

「ああ、来てくれてありがとうございます。実はですね。笹本実花さんが、なにか相談したいことがあるそうなんですよ。ちょっと乗ってあげてください。」

水穂さんに言われて、座っていた実花さんが、

「ちょっとお願いしたいことがありまして。あたしがもう少し作曲の能力があればよいのですけど。今回どうしても出なくちゃ行けない演奏会がありまして。それで一曲吹かなければならなくなりました。それで私は、作曲することはできませんから、フックさんにお願いしたいんですよ。」

「はあえーと、そうですか。」

実花さんがそう言うので、フックさんはびっくりした。

「編成は笛子とピアノでいいです。誰でも楽しく聞けるような曲を、一曲作ってください。」

「そ、そうですか。でもですね。元々笛子は、ピアノという楽器と合奏するものではないですし、第一前例がどこにもありません。そんなんで、曲がかけるものでしょうか?」

フックさんが、申し訳無さそうにそう言うと、

「そうですね。でも前例が無いということは、もしかしたら新しい分野の開発につながるかもしれないですよね。それをしてみるのもなにか良いことにつながるかもしれませんよ。一番最初にそれをやった、いわゆる立役者と呼ばれる人は、それなりに苦労することもあると思うんですけど、でもそこから次に続く人のお手本になれるという実績は、大きいと思います。そういう開発するというのは、やはり大事なことでもあるので車内でしょうか?」

水穂さんがそう助言するように言った。

「で、でもですよ。先日は西洋音楽と笛子は合わないのでやめたほうがいいと言ってましたよね。その取り決めは、こうして簡単に破ってしまうものなのでしょうかね?」

フックさんはそう言うが、

「でもね。こうしてお願いされることもあるわけだから、まあ、必要とされてるってことでもあるんでしょうね。それが合わないと知っていてもね。」

と、杉ちゃんに言われてしまった。

「そうですか。そうですが、僕は笛子に対する知識が全くありません。もし描くとしたら、フルートソナタみたいな、そんな感じの曲にすればいいのでしょうか。」

困っているフックさんであったが、

「あんまり気にしないで良いのではないですか。とりあえず描いてみて、できないようであれば、また修正すればいいのだと思いますし。前例は無いけれど、やってみる価値はあると思いますよ。」

水穂さんが優しく言ってくれた。

「そうそう。あんまり気にしないでとりあえずやれるだけやってみな。とにかくな、こういうことはやってみることが大事なんだと思うから。」

杉ちゃんにそう言われてフックさんは、

「わかりました。とりあえず描いてみます。」

と決断した。実花さんがとてもうれしそうな顔をして、

「ありがとうございます。」

と言ってくれたのが忘れられなかった。

とりあえず納期は一週間ということであったので、フックさんはその間に三楽章構成で、全曲演奏すると15分くらいになる、比較的短めの笛子とピアノのためのソナタを描いた。フックさんは笛子という楽器の楽譜を知らなかったので、とりあえず五線譜で書いて、あとで笛子の楽譜に置き換えてもらうということにした。

一週間経って、フックさんは楽譜を持って製鉄所へ向かった。とりあえずバスに乗って、また富士かぐやの湯のバス停で降りて製鉄所へ向かう。製鉄所に到着して、玄関の引き戸を開けると、すでに実花さんは、到着しているようで、水穂さんと話している声がした。フックさんは、緊張しながら製鉄所へ入った。

「こんにちは、一応曲は絵きましたよ。とりあえず見てみてください。五線譜で書かせていただきましたが、それでよろしいですよね?」

フックさんは、みんなの前で、五線譜の入った封筒を開けた。

「こんな感じですがいかがでしょうか?調性は、笛子らしくト長調。」

「はい。ありがとうございます。」

実花さんは楽譜を受け取ったが、なんとなく不安そうな顔である。

「一体どうしたんだ?」

杉ちゃんが言うと、

「いえいえ、すごい素敵な曲だと思うのですが、私に吹けるでしょうか?」

と、実花さんは言った。

「はあ、難しすぎるのか?」

杉ちゃんが言うと、

「ちょっとこれは私には。」

と、実花さんは答える。

「具体的にはどんなところが、難しいのですか?」

水穂さんがそう言うと、

「笛子の音色と合わないか?」

杉ちゃんが口を挟んだ。

「そうじゃないんです。この音形を出すには、運指が難しすぎます。なんか笛子の曲というより、モーツァルトのフルート・ソナタに近いものがあって、ちょっと笛子の運指には。」

実花さんは申し訳無さそうに言った。

「まあそうなっちまうんだな。まあそれは仕方ないことでもあるよな。西洋音楽の頭で考えると、どうしてもそうなっちまうの。もうそれは、どっちかが折れるしか無いと思うよ。」

「そうですね。笛子ばかりではありません。琴の音楽を作るときもそうなってしまうといいますし。まあ多少の衝突が発生してしまうのは、避けられないと思います。」

杉ちゃんと水穂さんに相次いでそう言われて、フックさんは、がっかりしてしまった。

「そんなに、ご自身を責めなくてもいいのですよ。こうなることは仕方ないじゃありませんか。もうね、西洋楽器では当たり前のことが、通じないことはいくらでもありますよ。それは仕方ないと思って、何度でも修正してください。それを西洋楽器への侮蔑だと思ってはだめです。」

水穂さんが優しくそう言ってくれたので、フックさんはハイと小さな声で言ったのであるが、内心は辛かった。

「まあとりあえず、できないところを修正してそれを初演で成功すればいいってことさ。また頑張りや。」

杉ちゃんに肩をたたかれて、

「はい、頑張ります。」

と、フックさんはそういったのであるが、これはどうも辛いというか、なんだか弱ったことになったぞと思ってしまった。

「じゃあ、具体的にどうしたら良いのか教えてくれませんか。どうなおしたらいいのか、全然わからないものですから。」

「はい。このカデンツァのところですが、笛子で再現するのは運指が難しいので、16分音符を、8部音符に書き直してもらいたいです。」

実花さんはフックさんに楽譜を指さして見せた。

「はあ、ここですか。ここは一生懸命気合を入れて書いたのに。」

「でも、フルートでは無いのです。だからモーツァルトみたいな音形では、困ってしまうのです。そうではなくて、もっと素朴といいますか、簡素な曲にしてもらいたいのですよ。ごめんなさい。私、うまく説明できなくて申し訳ありませんが、、、。」

実花さんは、困った顔で言った。

「そうなると、カデンツァがなくなってしまって、ソナタ形式ではなくなってしまいますが。」

「でも、演奏者が吹きやすいというのも曲を書く人の努めだと思うがな?」

杉ちゃんに言われて、フックさんは更に困ってしまった。

「そう言われても、ちゃんと、ソナタ形式とか、ロンド形式とか、そういうことは守らなければならないと思うのです。曲というのはそういう流れがありますからね。やっぱり、曲には、掲示部、展開部、再現部とあって、そこを遵守しなければならないと思いますし。それにソリストの花形であるカデンツァを、なくしてしまうと言うのは僕はちょっと、、、。」

「そうかも知れないけどさあ、どっちかが柔らかければいいんだよ。先程実花さんが言ってくれたように、フルートとは違うんだから、フルートソナタの形式を踏襲すると言っても、楽器はフルートでは演奏されないんだぜ。だから、ソナタ形式とかにこだわらなくてもいいと思うけどねえ。」

杉ちゃんに言われて、フックさんはそうですねとだけ言った。

「でも、琴の曲だって、掲示部、展開部、再現部とかはありますよね。だから笛子も同じ何じゃないかと思いますけどね。」

「そうですがごめんなさい。このカデンツァは、笛子では難しいです。元々、平均律に完全に順応している楽器では無いので、そこはフルートとは違いますから。それなら、他の人に頼んだほうが良かったのかな。本当は私が作曲できればそれで良かったんですけど。私ではどうしてもできなくて。それでお願いしたのですが。」

実花さんは申し訳無さそうに言った。杉ちゃんが依頼人が折れちゃだめだろと言ったが、実花さんは、そう思ってしまったようだ。

「そうですよね。作曲する人って、結構曲の形式は気にしますよね。それは、クラシックの作曲家の方であれば、なおさらです。なんかそういうことを守らないと、名誉毀損みたいなことにもなりかねないし。ごめんなさい、あたし。」

「いや、実花さんが折れることは無いですよ。」

水穂さんはそう言ってくれたのであるが、フックさんは、なんだかそういう曲の形式とかを実花さんが知らないということがちょっと、困ってしまうところだなと思った。

「もうちょっと、ソナタ形式のこととか、勉強すべきでした。あたしは、あまりクラシック音楽の知識とか何も無いから、曲をお願いすれば作ってくださるのかなとか、そんな単純な頭で考えていたんですけど、そういうことでも無いのかな。すみません。あたし、軽率すぎましたね。」

「いいえ、実花さんは何も悪くありません。もう一度言いますが、実花さんが折れることはないです。それに、実花さんは何の目的で、植松さんに、作曲をお願いしたのですか?もちろん、実花さんがご自分で吹くためであるとは思うんですけど。なにかイベントでもあったんでしょうか?」

落ち込む実花さんに、水穂さんがそう聞いた。それは僕も聞きたかったなと杉ちゃんが言った。

「ええ、あたし、今自宅で笛子の教室やってるんですけどね。まあ教えていると言っても、私はせいぜい、運指を教えるくらいしかできなくて、音楽的なことは何も教えることはできませんが、一人ちょっと、問題のある人がいて。その人に、曲を吹かせてあげれば、かなり変わるのではないかと思ったので。」

実花さんはそう話し始めた。

「はあ、どんな子なんだ?問題がある子って、例えば、どんな子だ?」

杉ちゃんという人は、すぐそれを聞きたがる。答えがどうなのかわからなくても、すぐに具体的な例を聞いてしまうのが杉ちゃんと言う人であった。

「ええ、なんという病気なのかわかりませんが、言葉が全く言えなくなってしまった女性が、笛子のレッスンに来てくれているんです。彼女は、何も喋れないですけど、腕は確かなんです。なんだか親御さんの話によりますと、喋ろうとするとえらく緊張してしまって、それで喋れなくなったというのですが、それだけでは無いのかもしれませんね。それは後々聞いてみるつもりですけど。でも、彼女は、すごく上手なんですよ。きっと、言葉の河りに楽器を選んでくれたんでしょうね。いつも金魚みたいに口をパクパクさせてるから、私はパクパクさんと呼んでますが、彼女に自信をつけてもらいたかったから、それで私は、お願いしようと思ったんです。」

実花さんはしんみりとした口調で言った。

「そうか。それならそのパクパクさんだっけ?その子を、ここに連れてきて、一曲吹いて見せてくれ。それなら、この石頭も変わるかもしれないよ。」

と、杉ちゃんがすぐに言った。杉ちゃんという人は、非常に単純で、何でも簡単に答えを出してしまうのであるが、非常に難しい答えを言うこともあった。

「いいさ。事実はあるだけなんだもん。それは庵主様に教えてもらったことだから、間違いではないさ。とにかくな、僕らにできるのは、事実にたいしてどう動くかを考えることだけじゃないか。それに甲乙も善悪もいらないさ。」

実花さんは杉ちゃんにそう言われて、心が動いたらしく、

「わかりました。連れてきます。」

と、決断したように言った。

その日から数日が経って、実花さんが今度は一人の若い女性を連れて製鉄所にやってきた。なんだか偉く緊張しているようなその女性は、名前を鹿島さんというと、実花さんは紹介した。ちょっと自己紹介してみてくれと杉ちゃんは言ったのであるが、鹿島さんは、声を出すことができないようで、一生懸命話そうとしても、話せなかったのでパクパクさんと呼ばれている理由がすぐにわかった。

「ほんじゃあ、本当にパクパクさんだな。よし、お前さんの好きな曲をだな、今から一曲吹いてみてくれるか?」

杉ちゃんに言われて、鹿島さんは笛子をケースから取り出し、急いで組み立てた。何を吹くか教えてくれと杉ちゃんがいうが、鹿島さんはそれを言うことができなかった。どうやら、話すというか、言葉を作るということも問題があるらしいのだ。水穂さんは脳波を検査したりはしたのかと実花さんにきくが、実花さんは何も異常がなかったそうだと答える。どうやら心因性の失語症というべきなのだろう。そうなると、原因物質がはっきりしているわけではないので治療にはえらく時間がかかってしまうに違いない。

パクパクさんは、杉ちゃんたちに一礼して曲を吹き始めた。笛子はフルートのようなヨーロピアンな音を出す楽器ではなく、ビービーという雑音が入るものなのだが、それが良いと思われるのが本来の笛子の持ち味であった。曲名を教えてもらえなかったので、すぐに分からなかったのであるが、

「ああ、夜来香ですね。あの、李香蘭が歌っていたという。」

と、水穂さんがそういったため、その曲であることがわかった。確かにその通りなのだが、朗々とした演奏で、非常に上手な演奏でもあった。吹き終わると、皆拍手をした。パクパクさんは、丁寧に一礼したのであるが、みんなにありがとうとか、そういう言葉を言うことはできなかった。

「一度、水穂さんのピアノで吹いてみな。」

と、杉ちゃんに言われて、水穂さんがピアノの前に座り、夜来香のイントロを即興で弾き始める。水穂さんの合図でパクパクさんはまた吹き始めた。伴奏があると、また音楽がより面白くなるようなのだ。吹き終わると、パクパクさんは、また頭を下げる。

「とても礼儀正しい子なのに、喋れないとは辛いな。」

と杉ちゃんがいうほどである。

「それで、僕が書いた曲は、彼女が演奏する予定だったんですか。」

フックさんは、思わず言ってしまった。

「ええ、そのつもりでした。折角、発表会で吹いてもらうので、それなら新しい曲を書いてもらうのもいいかなと思ったんです。」

実花さんが、正直に話してくれた。真実は魂を打つという。それは本当のことだなとフックさんは思った。

「だから、お願いしたんですけど。ありきたりの曲では、彼女も可哀想ですし。」

実花さんはそういった。たしかに、喋れないパクパクさんに自信をつけてもらいたいという意味で、実花さんは自分に曲をお願いしに来たんだなと思ったフックさんは、そうなると曲の形式とか、そういうことにこだわってはいけないと思った。曲の形式より、大事なものがあると確信したフックさんは、

「わかりました。もう一回、カデンツァを書き直して、そちらにお渡しします。そういう理由があったんだったら、単に怠惰な理由ではなかったんだなと言うこともわかりましたし。どちらかが折れなくちゃだめだっていうこともやっとわかりました。ごめんなさい。あのときはきついことを言ってしまって。」

と改めて、実花さんとパクパクさんこと鹿島さんに頭を下げたのであった。

「いいえ、作曲家という人は、こだわりが強いことはあたし知ってますから。」

実花さんがそう言うと、

「いえ、どっちかが柔らかければ大丈夫というか、そういう柔軟性が無いとだめなんだなと言うこともやっとわかりましたし。それは、大事にしないとだめですよね。」

フックさんは、今までのことを申し訳無さそうに言った。

「音楽は、緊張も和らげてくれるものですね。それに心も柔軟にしてくれますね。」

水穂さんが、ピアノの前に座ったまま、そういったのであった。




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パクパクさん 増田朋美 @masubuchi4996

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