第16話 放火

 六月も中旬から下旬に差し掛かったころ、突然それは来た。

「岡引ーっ! どこだぁーっ」

事務所の奥でパンをかじっていた一心は危うく喉を詰まらせ窒息死するところだった。数馬に背中を叩かれ牛乳をがぶりと飲んで詰まったパンを胃袋へ流し込んだ。

「ふーっ危なかった」胸を撫で下ろす暇もなく、激しくドアが開けられ庵が仁王立ちしている。

家元の庵幸二郎が狂気に満ちた形相で岡引探偵事務所に怒鳴り込んできたのだった。

「あっ済みません。パン喉に詰まらせちゃって……」

「ぐわーっ!」

いつもは紳士な庵が豪快に泣いた。

そして一心はがっしりと抱きしめられ身動きがとれず、数馬に助けを求める。

「数馬、何とかして……」

何とか引き離して事務所の応接ソファに庵を座らせる。

「娘さんの件、まだ調査中で……」

と一心は言ったが、庵の耳にはまったく届いていないようだ。

天を仰いで「こんなことがあって良いのか?」と庵が叫ぶ。

また何か庵の周りであったのか? 余程の大ごとだな……。

「落ち着いて話して貰えないかい?」

一心はゆっくり丁寧に言った。

数馬がコーヒーを淹れてくれて庵の前に置く。

ガブリとコーヒーを飲み干して「妻が、妻が死んだ……、いや、殺された」

それだけ言って「ぐわーっ!」また豪快な泣きぶり。

「えっ死んだって病気? 事故? それとも……」

「放火だ。放火。放火されたんだ。別宅が。……真夜中に……」

「例の建築屋ですか?」

「そうに決まってる。警察にも犯人はあいつだっ! 引地に決まってるっ! そう言ってやった。本人じゃなくっても若い奴らにやらせたに決まってる。そうだろう。探偵さんそう思うだろう。なぁ、だろう……」

まるで一心が犯人でもあるかのように、立ち上がってテーブルの反対側にいる一心の上から噛みつく。

「まぁまぁ、俺に犯人を捕まえて、と言うんですね」

「もちろん、そうだ。……悪いな探偵さん、パニックになっちゃって……」

一心が引き受けると言ったので少しばかり落ち着きを取戻したようだ。

「夕べのことですか?」

「夕べと言うか、今朝というか……」

「えっ話は分かりましたけど、庵さんここに居て良いんですか? 消防とか警察とか色々訊きたいんじゃないかなぁ」

「あぁそんなこと言ってた」

「華蓮さんは無事なんですか?」

「えぇあいつは二階から一階の屋根に降りて、そこから飛び降りて助かったんだ、でも怖かったって震えてた」

「で、今、ひとりでいるの?」

「ホテルにいます」

「そりゃダメだ庵さん、すぐ戻ってあげて、ひとりにしちゃ可愛そうですよ。お母さん亡くなったんだし、こっちから話を聞きにそのホテルへ行きますから、ね」

「あぁ頼むわ。……一時過ぎだったか家飲みしてて用足しに一階へ降りたんです。用足しして戻るときにバチバチ音がするので教室の方へ目をやったら教室へ通じるドアの隙間から煙が噴き出していて、で居間の方へ行ったら窓のカーテンが真っ赤な炎を映していて、慌ててキッチンに常備している消火器をとりに走ったんです。そしたらキッチン脇の裏玄関がメラメラ燃えてるんですよ、焦ったけど燃えてるのは外なんだよ。えっと思ったんだけど妻と娘を起そうと思って階段を途中まで上がると、もう煙が酷くて先が見えないんだ。愛葉と華蓮の名前を大声で呼んで、’火事だぁ!’って叫んだのさ、そして階段は使えないと思ったから’窓から外へ出て屋根から飛び降りろ’って叫んだんだ。それが正しかったかどうかはわからないが、二階の廊下の窓にはもう炎が見えていたからそう叫んだんだ。愛葉も何か叫び声を上げてたから聞こえて窓から出るだろうと思って俺も外へ出たんだ」

「必死だったんだね。で、ふたりは?」

「あぁ俺が外へ出たら華蓮が丁度窓から出てきて、一階の屋根にぶら下がって飛び降りるところだった。でも愛葉の姿は見えなかったんだ。それで寝室の窓の下へ行って愛葉の名前を叫んだんだ。愛葉の悲鳴が聞こえたんで’窓だぁっ!’って叫んだんだ。愛葉も俺の名を叫んで、’助けてーっ’て、でも窓を開けないんだ。簡単に開くはずなのに……

俺はもう一度家に入って愛葉を助けようと思ったんだけど玄関にも火が回っていて消防士に羽交い絞めにされて動けなかった。妻が二階にいるって怒鳴ったら消防士が梯子を掛けて寝室の窓を破ろうとしてくれて、俺は見てるしかなくて、……でも、もうその時には一階は火の海で、寝室の窓ガラスを消防士が割った瞬間真っ黒な煙が噴き出して、炎も勢いよく噴き出してきて消防士が中へ入れない位だった。それでも放水しながら中へ入って、俺がじりじりとしながら待ってたら妻を抱えて窓まで戻ってきたんだ。俺は助かったって思ったんだ。何人かが梯子を駆け上がって妻を下ろしてくれて、救急隊もストレッチャーを梯子のところに用意してくれてて、……」

そこまで一気にしゃべり続けた庵は言葉を詰まらせた。そして嗚咽する。

「寝かされてた愛葉を見て、……俺は、……可愛そうなことをしてしまった。あの時、トイレから真っすぐ寝室へ行っていたら妻を死なせずに済んだはずなのに。なのに俺は躊躇して行かなかった……俺のせいなんだ、俺が妻を殺してしまったんだ……」

「分かった。庵さんもう良い分かったから……残念だったとしか言いようがないね。でもあんたは最善を尽くしたんだ、あんたのせいじゃない。そんなこと言ったら華蓮ちゃんも同じように考えちゃうよ。ダメだよそう言う考えは。良いね!」

子供のように泣きじゃくる庵の為にタクシーを呼んであげて「ホテルへ行くんだよ。良いね」

 

 庵を帰してすぐに一心は渋谷署へ向かう。

庵の娘愛蓮のひき逃げ事件で担当した磯垣新警部を訪ねる。

警部の話では、夜中の一時過ぎ、火事で愛葉はパニックになったのだろう、窓から逃げることも思い浮かばず部屋のほぼ中央で焼死体で発見されたと言う。

さらに消防の調べで、火は一階の教室付近と裏玄関付近、居間の窓付近の三カ所から起きたようで、間違いなく放火のようだ。消防が駆け付けた時にけっこう灯油の臭いもしたというから、壁に灯油をかけて火をつけるという悪質な放火だな、とも言った。

庵の話と一致するから警部の話に間違いはない。

庵一家は誰かの恨みをかっているんだろうか?

 

事務所に戻った一心は早速事件を家族に伝え数馬と一助に捜査対象者の洗い出しを指示した。

 ―― 一体全体、庵の家に何があるって言うんだ? ……これで終わるのか? ……

 

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